発達障害の子供をシングルで育てあげた友人は、いつも懸命だった 「人と違う」 「白い目で見られる」 「理解者がいない」 「発達障害を持つ子供を育てる私の苦労を理解してくれる人がいない」 確かに、近い環境にいない人間には、とうてい理解の及びようもない事かもしれない。 その子を支える事はできなくても、その友人の気持ちはわからなくても、のめりこみすぎた現実からちょっと離れて一息ついてみる気晴らしのお茶には付き合う事ができる そう思って数十年過ごしてきて、今は本当に良かったと思う 発達障害を持つその子は、いろんな事はできない だけど、ひとつの作業にははたから見て怖いほどの集中力を発揮する 世にいう出世はないかもしれない でも、小さな工場で技術者として働き、その集中力を持って仕事の腕を買われて立派に自立 今では結婚して父親になった 自分にできる事、こういった事には気がまわらない人間であるという事を自覚して時には周りの人間にそれを話す それを繰り返し繰り返し気長にして、周りをよき理解者に変えた
発達障害を持つ親でもない私には、その気持ちがいかばかりかはわからない けれど、背の低い人が高いところにあるものを取ろうとするなら台を使う 背の高い人が低い位置にあるものを取ろうとするときはしゃがんだり、時には這いつくばったりもするだろう そのように、道具を使ったり工夫をこらして自分の体の動きを変えるように何らかの障害があるといわれるのであれば、障害がないといわれる人よりも少し手間が必要になる ただそれだけのことだと思いたい
なぜだろう この頃夢をよく見ている ただの夢なのか 望んでいる事なのか 懐かしい気持ちにひたりたいだけなのか
冬場枯れ木のようだったベランダから見える桜の木々たち ざっとばかりに風に巻き上げられ 道を隔てたうちのベランダにそのひとひらをざわざわと残して去っていった そしてテレビからアジサイの画像が多く届くころ わずかな隙間さえ許さぬがごとく、前のめりに手を広げ 隣の桜と競うようにして、新緑の季節を謳歌している
ひなたぼっこを楽しみにしていたベランダは階層の問題で、 思いのほか直射日光があたらない でも、広めであるということが窮屈感から私を開放してくれたりもして やはりお気に入りなのである
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