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2003年12月16日(火) 新しい感情

どんなに立派な理論や話を聞いても、それは頭の中の話でしかない。
言い方は悪いかもしれないけれど、それはたんなる学問でしかない。



一時期ほどじゃないとはいっても、相変わらずネットサーフィンにはまっている。
卒論の息抜きと称してお気に入りサイトの小説を読んだ。
今流行の○○に100の××ってやつで、私が読んだその小説は5分もあれば読める短編だった。
5分もあれば読めるその短編に私は涙が止らなくなった。
その後も数日その余韻が残り、頭からその話が離れない。


「宗教と倫理」とか「宗教と平和」とか「エスニシティ論」などを興味本位で大学の講義を受けてきた。
どの講義も自分がいかに無知であったか、今も無知であるのかを教えてくれた。
ある授業で自爆テロの話を聞き、マスコミが取上げない現地事情や、一般市民がテロリストになる経緯を聞いて切なくなった。
けれど、それらの話はいつもどこか他人事で異世界の話だった。


私が読んだ短編も先にあげた大学の講義の内容も似たようなことを伝えていたと思う。
大学の講義は事実に基づき社会的、宗教的、政治的な観点から過去・現在について学び、未来に人類がどうあるべきか?平和な世界にする為には?について考えている。
それに対し、小説は架空の世界の物語、つまりはただの作り話である。
筆者が何を伝える為に書いたのか?私のメッセージの受け取り方が正しかったのか?そんなことはわからない。
けれど、なんとなくテーマもその奥に隠れているメッセージも似ている気がする。


同じメッセージを受け取り、私は講義では他人事としか考えられなかった。
そして、単なる作り話に涙が止らなくなった。
その違いは何か?
私は卒論を放棄して考え込んでしまった。
卒論は絶対やらなければいけないし、もう日もないことはわかっていた。
けれど、小説の内容が頭からはなれず、どうしても考えずにはいられなかった。


少し冷静になって、私はやっと当たり前のことに気がついた。
小説を読むとき、私はその登場人物に自己投影し、共鳴していたのだ。
完全に登場人物と重ならなくてもとても身近に感じたことには変わりない。

私にとってテロも空爆も、とんでもない事で、恐ろしい事で、悲しい事。
けれど、その感情は頭からくる。
きっとそうなんだろうな、って感じで、
そのような感情は学校で習ったから、マスコミに踊らされたから生まれているのだ。

それが今、どこからかわからない、私自身の今まで知らない奥の方から生まれいる。

たとえ作り話でも、疑似体験を提供し、本当の意味を考える機会を与えてくれた小説。
何かが私の中に芽生え、今後の私の思想、生き方が変わっていく予感がした。


日向葵