Mother (介護日記)
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2003年09月29日(月) この風は…

今朝はとても気持ちの良い風が吹いていた。

なんかとても懐かしい気がした。

去年の今頃は、車椅子の母とあちこちに出掛けていたことを思い出したら、
通勤の途中で泣けて来てしまった。

これから仕事だというのに、目が真っ赤になっている・・・

どうしてこう、いつも泣きたい時は泣いちゃイケナイ状況なんだろうと思う。


しかし、逆に考えたらわかった。


私はいつも誰かと一緒にいるのだ。

家族とか、同僚とか、お客様とか・・・


でも、通勤の時にはひとりになる。

のんびり歩いていると、季節の移り変わりを感じることができる。


そこで、去年と同じ陽射しを感じ、風を感じ、

この過ごしやすいわずかな季節に水辺を眺めていると

母にも見せてあげたかったと

もっともっと、行きたいところがあったのにと

もっともっと、あちこちに連れ出してあげれば良かったと

ひとりだからこそ深く想い、そして泣きたくなるのだ。



すれ違う人は不思議に思うだろう・・・

こんなに気持ち良く晴れた日の朝っぱらから何が悲しくて目を赤くしているのかと。



更衣室でひとりボロボロと泣いていた。


2003年09月23日(火) 晴天の墓参

気持ちの良い秋晴れとなった。


持ち物は、印鑑証明書・戸籍抄本・実印、
それに、お供物のアサヒ本生135ml缶、フルーツみつ豆缶、梨、
お線香セット(線香・ロウソク・マッチがケースに入っている)。
お花と日本酒は、霊園の中で買うことになった。


8時に出発。

叔母を迎えに行き、霊園到着が10時20分。

メインの駐車場で義兄夫婦と待ち合わせ。
さすがにお彼岸のお中日とあって、たくさんの車。

5分も経たぬうちに合流。



霊園では、お彼岸の期間中に限り、駐車場に味噌おでんやフランクフルトなどのお店が出ている。
母は、ここの味噌おでんと、ジャガバターが大好きだった。
(注:ジャガバターは、かわをむいたジャガイモにホットケーキの元をつけて油で揚げたもの)

そのことに気付いた絹江が、
「そうだ!おばあちゃんにじゃがいも買って持って行ってあげよう♪」と言い出し、
さっそくテントに向かい、ジャガバターを買ったのだが、
なぜか、その数は人数分あって、笑った。

母にとっては、いつしか父の墓参りよりも、これらを食べることの方がメインになっていた。
父の没後30年ともなれば、そのくらいの気持ちで良いのだろう。

そう言えば墓参の時、母のバッグの中には毎回、飴玉が入っていたし、
絹江にもちょっとしたお菓子を用意してくれてあって、
ちょっとした遠足気分であったに違いない。
私たちは去年まで、墓参以外に母をどこかに遠くに連れて行ってあげるということが
ほとんどなかったからだ。

母は、霊園が近くなると必ず「今日は、じゃがいも売ってるかな?」と聞くのだった。
それは、何度か、お彼岸の時期をずらして墓参に行ったことがあって、
ジャガバターが食べられないという苦い経験があるからだった(^_^;)

今日は、6個のジャガバターが一旦墓前に供えられ、1分後にはみんなの口に入った(笑)
母の目の前で自分達だけ食べていることが、ちょっとだけ後ろめたかった。

母は、きっと、
「あら、私の分はないの?」と言い、
「今、食べたばっかりじゃん」と私たちに諌められ、
「あら、そうだったっけ? 腹ん中入ったらす〜ぐ忘れちゃう」と言って大声で笑ったことだろう。



近くの水道からたくさんの水を汲んで来た。
花筒をゆすぎ、買って来たばかりの生花を活け、
両脇に植えられた草花に水をやり、墓石に水をかける。
墓石が傷むことから辞めるように言われていることだが、
父の遺言に従って毎回、日本酒を掛ける。


そして、持参した缶詰や果物を供え、線香をあげた。


線香は毎回、霊園内で買っていたので気付かなかったのだが、
持参した“お線香セット”に入っているのは家庭の仏壇用であり、
細くて短く、燃えるのが速いということがわかった。
また、短い分、香炉に供える時にヤケドの危険も大きくなると思われる。

葬儀の後、お寺さんから戴いたお線香が、確か長いものであった。
そうか、あれが墓参用になるのか・・・
次回、あれを持って行くことにしよう。



今回の墓参では、墓所の権利譲渡の手続きをすることになっていた。
必要な書類は、義兄・私ともに揃っており、無事に終了した。



時計を見るとちょうど12時。
レストランは混雑しているようなので、簡易食堂にて昼食。



食べたばかりで、やや混んだ道路をのんびり走っていると眠くなる、眠くなる。

私は後ろの席で叔母と話をして眠気をごまかしていたが、助手席の絹江は爆睡モード、
運転席のバックミラーでレフティーを見れば、今にも閉じそうなまぶた。
危険なので、何度か停車して30分でも寝たらどうかと勧めたが、
アニメソングなどを歌いながら、なんとか叔母を送り届けた。

その後、通り道のスーパーにて買い物をして帰宅。
往復5時間の運転に、さすがにレフティーもグッタリ。 現在も爆睡中。


2003年09月22日(月) 明日は墓参

義兄夫婦と相談して墓参を23日と決めてあったものの、台風の進路が気に掛かっていた。

昨日の昼間は風雨が強かったし、気温も急激に下がっていたので、
あまりお天気が悪ければ、延期もやむなしか・・・と。

でも、幸い台風が海上を進んでくれたので、昨夜のうちに雨は上がり、
前回のように電車が止まることもなく通常に出勤ができた。

そして、明日の墓参は予定通りに決行。



私はすっかり忘れていた。
今回の墓参で、墓所の権利の譲渡の手続きをすることを。
そこで、今日、あわてて仕事の後、印鑑証明と戸籍抄本を取って来た。



少し前、義姉から電話があった時、義兄の戸籍を遡って取り寄せたとの報告を受けていた。

私と義兄は腹違いの兄弟であり、
墓所の権利者である母と継承者である義兄は、戸籍上、養子縁組をしていないため、
「他人」の扱いであるため、権利譲渡に関しては通常の相続よりも面倒なのである。

そこで、墓所の権利者である母の相続人である私と、
義兄との接点を証明する戸籍が必要になってくるというわけなのだが。


義兄が取り寄せた戸籍には、
父と義兄の母が結婚したこと、生まれた子供のこと、離婚したことが書かれていたらしいのだが、
その「子供」の欄に、義兄と、離婚した際に生き別れた弟との間に、もう1人、
生まれてすぐ翌日に亡くなった次男がいたことがわかった。
このことはこれまで義兄さえ知らなかった事実だった。

それが、5月23日の日記に書いた、あの位牌なのだった。
位牌と戸籍の日付が一致したのだ。

あの位牌については疑問だったのだが、これでスッキリした。
昭和25年の謎も解けた。

父は、亡くなった子供の位牌を転々としながらもずっと持ち続け、
母は、父が亡くなって位牌を書いてもらう時に、先妻の子の位牌も書き直してもらって、
繰り出し位牌に入れてひとつにして、まつっていたのだった。

本来ならば、生んだ実母が保管するであろう位牌を、
離婚後の父が大切に持っていたとことをみんなが疑問に思い、それによって
“位牌は、母の生んだ子供ではないか”
“母が父との結婚前に子供を生んでいたのだろうか?”との憶測を呼んで混乱した。

そして位牌は誰のものかわからないまま、お寺の住職の薦めで納骨の日に
“母に縁のある人”として、母の骨壷に納められたわけだが・・・

父と、優しく守ってくれた母と一緒のお墓で、彼も安らかに眠っていることだろう。


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