Mother (介護日記)
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2003年03月31日(月) 入院8日目 ( 看護婦「島さん」とのお別れ )

起きたらお昼だった(^^ゞ

洗濯して、お風呂を沸かして、炊飯器のタイマーをセットして・・・


夕方4時過ぎ、電話でタクシーを呼ぶと、
あいにく小型が出払っていると言うので、中型でも構わないと言った。
料金が多少高くなるが仕方ない。
だるくて、以前のように電車との併用もしたくない。

「いつも、いくらで行くの?」
「小型で2300円ぐらいです」
「毎日じゃ大変だね」

そう言って、途中でメーターを止めて、ご好意で小型料金以下の2150円にしてくれた。



 * * * * *



病棟のエレベータの前で看護婦に会った。

「私、今日で退職するんです。」

え〜 堯福陰Α院臓

廊下ですれ違うたびに会釈を欠かさないにこやかなかわいい看護婦さんだった。
たくさん話しかけてくれるので、母も大好きな看護婦さんだった。
つい最近、外来でお願いして、ツーショットを撮らせてもらったばかりだった。

「私は看護助士なので、まだ何もできないんです。
 それで今度から看護学校に行くことになって、3年後に戻ってくるんですけど。 
 お母さんとは、以前に2階の病棟に入院された時からのお付き合いで・・・
 一時、とても元気になられたのに・・・でも、奇跡はきっと起こりますから!」

あぁ、他の看護婦にもぜひ見習って欲しい。
私たち患者が求めているのは、これなんだ。

廊下ですれ違っても、こちらを見向きもせずに通り過ぎる看護婦は、当然、
こちらの会釈にも気づくことはできないし、患者の名前を積極的に覚えようなんて気はない。
もちろん、家族に対して「最近いかがですか?」などと気遣ってはくれないし。
診察室だけが仕事だと思っている人と、そうでない人の違いと言うのか。

「大変お世話になりました。 母もあの写真をとても喜んでいます。
 あぁ、お名前をまだ伺っていませんでした・・・」

「あ、島と言います。」

「島さん。 本当にありがとうございました。」 

お別れは誠に残念ではあるが、彼女の今後の活躍を心からお祈りしたいと思う。



 * * * * *



母は、今日も落ち着いてはいるようであったが、
「怖いから、ありゅちゃんと一緒にいる。 逃げる時もありゅちゃんと一緒にいる。」
などと言い出した。

「戦争が始まったって。怖いよう。」 

あぁ、そういうこと・・・それにしてもテレビも見ないのにどうして?
新聞紙を折りたたんだ簡易ゴミ箱の記事の見出しでも読んだのだろうか?

「あぁ、戦争ね。もう終わっちゃったよ。だから怖くない。
 ほら、青い空だし、飛行機の音も聞こえないでしょう?」
 
大正生まれの母は戦争体験者であるので、具体的な怖さが思い出されるのだろう。



 * * * * *



不安な気持ちを逸らすべく、
絵合わせパズル(ジグソーパズル)をやらせることにした。
病院に持ち込んだのは、ドラえもんの14片。
先日書店で買って来たのが20片。
幼児向けではあるが、母はとても好きで、これまで自宅では40片もクリアしていた。

見ているとなかなか進まないので、非常にイライラしてくるのだが、
母は真剣な顔で一生懸命考えて取り組んでいて、
完成した時に喜ぶその無邪気な顔はとても微笑ましく、
「できたね〜良かったね〜頑張ったね」と私も素直に拍手してしまうのだった。



 * * * * *



今日も結局、担当医に会うことはできなかった。

見た目、特別悪くなったとも思えないが、良くなったとも言えない。

入院当日は「延命治療」について意思確認のために、帰宅後にわざわざ呼び出されたが、
あれは一体なんだったのだろうか?
それほど緊急な事態だったのだろうか?

その後、どうなっているのだろうか?
退院はできるのだろうか?




私は昨夜の寝る前からやや微熱気味。
病院で計ったら7度だった。
早く寝よう。


2003年03月30日(日) 入院7日目 ( 義兄夫婦のお見舞い )

今日は義兄夫婦が来てくれた。

兄とは腹違いの兄妹であり、兄と母は血のつながりはなく、
本来なら父の死後、疎遠になっても仕方のない関係であるのだが、
このように、病気になった母を心配して見舞ってくれたことはありがたいことである。
改めて、私たち母娘は父方の親戚のお世話になって来たことに感謝すべきだ。



続きはまた・・・


2003年03月29日(土) 入院6日目 ( 家族の支え )

午前中は晴れていたようだったが、ぐうたら寝ていたので良くわからない。

バナナを入れた杏仁豆腐とリンゴが取り敢えずのお昼ご飯。

4時過ぎから雷が鳴り出して、時折停電していた。
レフティーにコーヒーを淹れてもらったのを飲んだところで、病院へ。

春休みだからか、雨が降り出したからか、道がやや込んでいた。
こんなお天気でも、海にはサーファーが数人。

毎日『今日の調子はどうだろうか』と心配しながら病室に向かう。
低気圧の接近が、老人の体調に微妙に影響すると以前に看護婦に聞いた事があるし。



病室に入ると、
ライフスコープが『ピンポンピンポン♪』と音を立ててオレンジ色のライトが点滅していた。

見ると、
母は鼻からの酸素と、指にはめる洗濯バサミ(動脈血酸素飽和度測定機)をしていなかった。


鼻には酸素のカニューラ。

胸には心電図の電極パッド。

左人差し指には洗濯バサミ。

左手首には点滴の針・・・

こんな状況では、パジャマの上と肌着シャツの着替えができない。



今日は夕方のこの時間でもまだ点滴(ソリタT3号500ml=血液代用剤)をしていた。
まだ5分の1程度しか落ちていない。
この量だと、夕飯の時間までにはとても終わりそうにない。
およそ15秒で10滴だから、500mlが終わるまでには3時間ぐらいかかりそうだ。

動線を考えて、
点滴スタンドをポータブルトイレに合わせてベッドの右側に置いてもらったが、
点滴をしているのが左手なので、
ベッドの上ではどうしても体の上をコードがまたぐ形になってしまう。
そうかと言って、点滴を右手にしてしまうとご飯を食べるのに利き手が不自由になるし・・・
本当は、すべてをベッドの左側に置くのが一番だと思うのだが、
母の左側には他の患者さんがいるので、トイレをそちら側にはできないのだろう。

そうやっていくつもの線につながれた状態で夕飯を食べているのは、見ていてもかわいそうだ。
左の人差し指に洗濯バサミをしていると、ご飯茶碗も持ちにくい。
無意識にはずしてしまうのも、わかるような気がする。



ライフスコープを見ていると、母の心拍と心電図は頻繁に変化をする。

心拍は、50台〜160台。 安静に横になっている状態で80台。
どうやら120を超えるとオレンジ色の点滅と「ピンポン」が鳴り、
140を超えると、赤の点滅で「ピリリリ」に変わるらしい。
心電図の乱れとも連動しているようなので、一概には言えないが。

セキをする・起き上がる・トイレに立つなどの動作では、もちろん数値が上昇するのだが、
たかだか食事をしているだけでも、心拍が上がったり心電図が乱れて警報が鳴るのだから、
心配になってしまう。



看護婦(おそらく病棟の婦長)が体温と血圧の測定に来たので、
昨日の血液検査の結果が出ているはずだが・・・と聞いてみたが、
「外に出すような検査でなければ、もう結果は出ていると思いますが、
 特別に数値が上がっていたなどということがなければ、
 こちらには連絡がありませんので、
 良くなっているか、特に変わりがないということだと思います。」との答え。

入院の予定は1〜2週間と言われたものの、
もう6日目になるが、とても明日明後日に退院できるとは思えない。

土日にかかるので、病棟の担当医Nに会えるのは月曜以降になるが、
これまでの主治医Kと違って、口数の少ない気難しいタイプの先生である。
いつも酒を飲んだ後のような赤い顔で、白衣のポケットが薄汚れていて、
髪はいつもベットリで、外来で見かける限り、良い印象は持たなかった。

外来で今回の入院を指示したT医師は、同じ病室の他の患者を見に来るが、
母の所は素通りして行くので、すべてN医師に任しているのだろう。

主治医Kは、以前の入院時には病棟まで毎日のように足を運んでくれて、
廊下で会うと、たとえ一言でも母の様子を教えてくれたものだったが・・・





19時少し前、約束通りにレフティーが病室まで迎えに来てくれた。

母は、入院前にレフティーにおんぶしてもらったことが余程うれしくて、
「また、おんぶしてもらいたい」と言っていた。



母の入院で、普段にも増して疲れてしまって、
毎日夕方から面会終了の7時まで病院に詰めていると、
家事も、特に夕飯の支度が疎かになってしまうので、
気力体力が低下しているこういう時こそきちんとした食事をとらねば、
こちらが倒れてしまう、と気に掛かる。
いっそ、お手伝いさんでも雇って、
洗濯や買出しや夕飯の調理やらをしてもらおうかなどと、車の中で考えていた。



しかし帰宅すると、お風呂が沸き、ご飯が炊けていて、
ただ座って待っていると揚げたての鶏のから揚げ丼と味噌汁が運ばれて来た。

優れたスタッフに恵まれて、私は幸せな奥さんだ。

しかも「デザートがない」と言えば、すぐにプリンを作り始め、
クタクタと寝ている間に、冷え冷えの黒ゴマプリンと普通のプリンができあがっていたのだった。

もちろん、食器の後片付けも既に済んでいて、
私はレフティーが奥さんなら良かったのに、と思った(笑)


2003年03月28日(金) 入院5日目 ( Sちゃんのお見舞い )

今日は、私の幼馴染のSちゃんが一緒に病院に行ってくれた。

Sちゃんとは、小さい頃、同じアパートに住んでいたので、家族ぐるみのお付き合いをしてきた。
Sちゃんのお母さんも、今は自宅でお父さんを看ている。



昨夜はどのように過ごしたのだろうか?
私を探して看護婦を困らせているのだろうか? などと心配していたが、
幸い、今日はとても穏やかでホッとした。

よくよく考えてみると、昨日一昨日がハイテンション過ぎたのだ。
ステロイドの「多幸症」だったのか?

Sちゃんのこともちゃんとわかった。

「お父さん、お母さんは元気? よろしく言ってね。遊びに来るように言ってね。」

こういうところは母は実に礼儀正しい。

Sちゃんが買って来てくれたかぼちゃのプリンを渡すと喜んで、
「Sちゃんが作ったの?」 と聞くので、
「買って来たんだよ」 と言うのだけど、こればかりは何度言ってもダメで
「上手だねぇ。ありゅちゃんも、今度作ってみ〜」 と言っていた(^_^;)



今日は、私が嫌いな看護婦がいなかったし母も落ち着いていたので、気持ちにゆとりがあった。
そのせいか、母が夕飯を食べている間、ウトウトと居眠りをしてしまった。



母と同じ部屋の患者さんに面会に来た息子(50代?)、
昨日も、どこかで会ったことのある人だとは思ったけど思い出せなかったが、
銀行のお客さんだと判明した。

その息子さんが、看護婦から湯飲みや箸などを持って来るようにと言われていた。
看護婦が「他には・・・え〜っと」と考え込んでいたので、
私が母用に作った『入院時に必要な物』のリストを渡してあげたのだが、
そこで「○○銀行の方ですよね?」と息子さんに言われて・・・

「最近(ロビーに)見えないみたいですけど」
「えぇ、去年辞めたものですから」

仕事の時と違って髪も伸びたし、口紅もつけてないし、やつれた感じなのに、
それでもやっぱり私だってわかっちゃうのか(^_^;)




今日は確か血液検査があったはず。
昨日の夜、看護婦が今日の予定を言っていたから。

結果はもう出ているのだろうか?
今日は担当医に会わなかったが・・・
ステロイドパルス療法の効果はどうだったんだろうか?


2003年03月27日(木) 入院4日目 ( Tちゃんのお見舞い )

今朝、ベッドのレンタルをしている業者から電話があり、
さっそく、電動介護ベッドを引取りに来た。

現在、ベッドのレンタル料金は、介護保険が適用されて毎月1750円である。
入院をしてしまうと全額負担になるので、その十倍になる。
使う人がいないのに置いておくだけでその金額というのは、今の我が家にとっては厳しい。
しかし、ベッドを引き上げることはなんか悲しかった。


 * * * * *


今日は、銀行の友達のTちゃんと一緒にランチをした。


Tちゃんは銀行のロビーを辞めた後、ヘルパーの資格を取るべく講習を受けている。
私は、Tちゃんに頼んでその講習で使用したテキストを買ってもらうことにして、
今日はその代金を預けるために遠くから来てもらったのだが、
Tちゃんは母のためにフラワーバスケットまで用意してわざわざ病室に見舞ってくれた。

ヘルパーの講習には実際に施設での実習もあって、痴呆老人の介護もしたのだと話してくれた。
母との面会が少しでも役に立てれば良いと思った。
痴呆老人が、どのような感情表現をするのか、どのような会話をするのかなど、
1人でも多くの人を見て学んでいくものだから。

母は、Tちゃんにいただいたフラワーバスケットを見て、目を丸くして、
「わぁ! キレイだぁ!」と、とても喜んだ。
母の豊かな表情に、こちらまでうれしくなってくる。
こうして見ていると、本当にかわいいおばあちゃんだ。


 * * * * *


それにしても、あの看護婦。
次は容赦しないからね。 絶対、ガツンと言ってやる!

そりゃぁね、患者や家族にはいろんな人がいるのだから、ストレスも溜まるだろうけど、
それは、あなたたち看護婦だけじゃなくって、どの仕事だってみんな同じなんだよ。

何か勘違いしてないか? どうしてそんなに偉そうなんだ?

患者はある意味「お客様」なんだよ、わかってるの?
お客様の前で、他のお客様の悪口言って良い訳がないでしょ?
患者の家族に聞こえよがしに、言いたい放題言って。

あなたのそんな態度に、みんな不愉快な思いしているんだよ?
いい加減、気が付いてよ。 空気を読んで。

看護婦って言うのは、患者や家族の不安を取り除くのが仕事でしょう?
あなたがやってることは、人を不愉快にさせるだけ。

あなたさぁ、
自分のおじいちゃんおばあちゃんがあなたの勤め先に入院したとして考えてみてよ。
同僚の看護婦が、あなたの身内の悪口を言ってるところを想像してみてよ。

そんなに看護婦の仕事が辛くてイヤなら辞めればいい。
確かに、あなたは看護婦に向いていないよ。
あなたのその顔を見ているだけで気分が悪い。


2003年03月26日(水) 入院3日目 ( 叔母と義姉のお見舞い )

今日は叔母と義姉が母の様子を見に来てくれることになった。


母は私の来るのを待ちわびていて、
「あ〜アリュちゃん♪ 来た来た!」と喜んだまでは良かった。

「どこ行ってたの? 
 私がこんなになっちゃったから、もう嫌いになっちゃって、
 どっかに行っちゃったかと思っちゃった。
 海岸の方にいるか、どこにいるのかわからないから、
 今、市の広報(広域放送)で呼び出してもらおうかと思ってたんだよ」

堯福陰Α院臓

広報?

あの、徘徊老人の捜索の、ですかい?

「ピンポンパンポ〜ン♪
 ○○警察署より、尋ね人についてお知らせします。
 ○○にお住まいのアリュールさん40歳が、○時に家を出たまま戻りません。
 身長160cm、胸は小さいのに、お尻が大きく太ももが太い。
 服装はグレーのツインニットに黒の長ズボンを履いています。
 お心当たりの方は、○○警察署までご連絡ください。 ・・・繰り返します。」 ってか?

ヽ( ′ー`)ノ

それだけは勘弁しておくれ。



 * * * * *



そんなやり取りを見て、はたまた痩せこけた母の変わり様を見て、
義姉は廊下に出て泣いていた。

母は来客がうれしくてハイテンションになった。
セキのし過ぎで、昨日から声が嗄れてしまっているが、大きな声で話しかけてくる。


見ると、母は入れ歯をしていなかった。
私が昨日ポリデントにつけた状態のまま、病室の隅に置いてあった。
ならば朝と昼のご飯は、どうやって食べたのだろう?
母の食事はなぜかおかゆだが、そのわりにはおかずは『刻み』にはなっていないので
歯がなければ食べられないはずだ。

昨日、あれほど頼んでおいたのに。

昨日は昨日で、ポリデントに浸した入れ歯をゆすがずにそのまま渡したらしかった。
誰がやったかはわからない。
しかし、ライフスコープ(心電図・心拍・血圧・酸素計)につながれた母は
ベッドから動けないので、自分でやったとは思えない。
少量とは言え、薬液を飲むのは危険なので、看護婦に充分お願いしたし、
メモも付けてきたのだが。

そもそも、入院時の面接でお願いしておいたことではないか。
何度言えば、わかってもらえるのだ?

私は、初っ端の母の“広報発言”のショックも手伝って、一気にブチ切れてしまった。

私の、なかば独り言を聞きつけてか、隣のナースステーションから看護婦がやって来た。
私は面と向かって文句を言えない小心者であるが、今回は言わずにいられなかった。
私は自分に落ち度がない、と自信があったからだ。

「私は午前にいなかったので」などと言い訳をしたので、
「ちゃんと引継ぎをしてくれないと困ります!」と言った。

その後、その看護婦は他の看護婦と相談したらしく、
「今度からは、夕飯の後、食事係りがお箸と一緒に預かることにします」と報告に来た。

また、別の年配の看護婦と廊下ですれ違った時、
「何か失礼があったそうで、申し訳ありませんね」と言われた。
はぁ。苦情処理もこのように迅速に対処していただけるなら、と見直した。
(ただし、一部の看護婦だけね(笑) 顔や態度でわかるもん。)

「こちらも少し言い過ぎました。疲れているのでしょうか。お手数をお掛けします」と言った。

いろいろ考えた結果、
『夕食後ポリデントに浸けて、帰宅直前にすすぎ、水の入った容器ごと看護婦に預ける』ことになった。



 * * * * *



「昨日夜中に不穏になって尿の管を自分で抜いてしまったので、今はおむつをしてあります。
 夜間は私たちは2人なのですが、他の部屋の見回りをしている間にベッドを降りて、
 いつの間にかエレベータの方まで歩いて行ってました。」

入院時に、
ケガ防止のため、痴呆患者の場合にはやむを得ず縛ることもあると言われている。
母も今後たびたび夜中に徘徊(本人はトイレに行くつもりだとしても)を繰り返すとなると、
夜間拘束されることも有り得るだろう。

治療のため数日間ベッドに寝たきりの生活をしていると、急激に筋肉が弱ってしまうのだが、
本人は今まで通りのつもりでいるので、ベッドから落ちるなどのケガが多いらしいのだ。
他にも、点滴の針を勝手に抜いてしまう人がいたりするらしく、
痴呆患者の看護はつくづく大変だと思う。



 * * * * *



叔母と義姉に、それぞれ母とのツーショットを撮らせてもらって、
遅いお昼を食べにファミレスに行った。

そこで、不本意ではありながら万一の時のための話しをした。
葬式は自宅か斎場か、遠方の親戚の宿をどうするか、お金はいくらかかるか、
預金はいくらあるのか・・・

私は昨日、念のために不要になった口座の解約と定期の解約をしておいた。
本人が死亡すると、預金は相続手続きが終了するまで凍結されるため、
葬儀にかかる費用が出せなくなってしまうのだ。
ある程度の現金を、すぐに出せる状況にして置く必要がある。

一番のネックは、お経をあげてくれるお坊さんへ渡す金額だ。
これほど不透明で、大きなお金は他にないと思われる。



 * * * * *



叔母と義姉を駅まで送ってから再び病院に戻ると、
母の様子を見に来たケアマネージャーと玄関ですれ違った。
ケアマネは、看護婦にも話しを聞いたようだった。

私は叔母と義姉の前で気を張っていたのが溶けて、ケアマネを見て涙目になり、
ロビーに座って少し話した。

私は今、非常に複雑な気持ちなのである。
自宅介護をしていると、病院や施設にいてくれた方が良いと思うこともあるのに、
母の発言がおかしかったことから、
長引く入院に因って痴呆が加速したらどうしよう、と不安になってしまった。

延命についての意志の確認をされたことで母の命があとどのくらい持つのかという不安と、
逆に、退院できた場合、痴呆が加速して自宅で徘徊などが始まったらどうしよう、という不安。

ところが、ケアマネはこう言った。

「今日のお母さんは、いつもと変わりありませんでしたよ。
 その発言(広報)にしても、痴呆のレベルは今までと変わりませんよ。
 お母さんの言ってることは、前からそんな感じでしたよ。
 それに、今、退院後のことを考えてもしょうがないです。
 あの状況で、2週間で退院できるとはとても思えませんから。
 それよりもレンタルのベッドを一旦返却しないと、
 入院中については介護保険でのレンタルができずに自費になってしまうので・・・」

なんだか、非常に不愉快になった。

ケアマネが、一体どのくらい母と会話をしていると言うのだ?
(毎週4時間一緒に過ごしているヘルパーが言うなら納得できるが)
毎日母を見ている私が、今日はいつもと違う、って思ったんだよ。
 
死んで欲しくない = 今すぐ死ぬとは思えない
入院中に痴呆が進行してしまいそう = 先のことを心配せず、この機会にゆっくり休んで

そう言いたいらしいのだが、どうも毎度ながら言葉の使い方が下手な人だ。



 * * * * *



母が、「虫がいる。私は虫が嫌いだから気になる。」と言い出した。

適当に聞き流していたのだが、
天井や窓の方を見ては、まるで飛んでいる虫を目で追うように真顔で言う。

「ほら、そこにも、あそこにも。見てごらん、あんなにたくさん。30匹〜40匹ぐらい。」

堯福陰Α院臓法。魁ぃ苅杏い辰董Α

どこに? いないって。 網戸してあるって。

「おまえ、目が悪いの? 見えないのか。 私は目がいいからね。 ほら、そこにも。」

ヽ( ′ー`)ノ

そこへ看護婦がやって来た。

A「虫がたくさんいるって言うんですけど」

M「いるよね? 虫。」

看「虫? いないよ。」

M「いるよ。 見えないの?」

看「いないよ。」

M「まぁいいや、それならいないってことにしておこう。」 って、おい。ヾ( ̄。 ̄;)

A「飛蚊症でしょうか?」

看「いや。飛蚊症と言うのは目の病気なんで。 この場合は幻覚でしょう。」



幻覚? (^_^;)



 * * * * *



昨日は、同室の患者の掛けているタオルケットが、自分のものだと言って困らせた。

かつての被害妄想のように強気ではないが、自分のものを他の人に使われてしまったと訴える。

「私の持って来たピンクのタオルケットが、いつのまにかあっちに行っちゃって」

「あれはあの人のものなの。 おばあちゃんのはおうちにあるから。
 ママ、タオルケットを持って来ていないから、寒かったら言ってね。」
 
そう言い聞かせてから、その患者の家族に平謝り。

「申し訳ありません、痴呆があるもので。
 自分の持ち物と似ている柄だったものですから、勘違いをしているようなのです。」


はぁ、この先が思いやられる・・・


2003年03月25日(火) 入院2日目 ( 昨日の「終末医療についての意志決定」 )

日記が長くなったので、昨日の日記(入院1日目)の続きをここに書きます。


レフティーの出勤に合わせて、乗せて行ってもらった。

窓口での予約外の受付を済ませてから内科に行くと、母の咳き込む声に
「あら、今日はどうしたの?」と顔見知りの看護婦が見に来てくれたので症状を説明すると
「横になった方がいいわね」と、すぐに内科処置室の担架に移された。

酸素ボンベから病院の中央酸素に切り替え(病院の酸素の方が濃度が高い)、
熱を計り、心電図・心拍・脈拍・最高血圧・最低血圧の記録を取り始めた。

その後、血液検査・腹部MRI・心電図・レントゲンの結果を総合して、
1,2週間の入院。仕度は一応して来た。

ウイルス感染の疑いがあるので、
3〜4日、ステロイドパルス療法(ステロイドの大量投与)をやってみるが、
それが効かないようであれば、他に打つ手はないので、命にかかわることも考えられるとのこと。


絹江はガングリオンで整形にかかった。

私は鼻水が止まらず頭が痛いので、花粉症の治療のために耳鼻科で看てもらったが、
風邪だと言われて薬をもらった。

病室が決まって落ち着いたのは、1時を過ぎていた。
母の食べ残した病院食を、私がほとんど食べてしまった(笑)

いつもなら、そのまま付いていてあげるのだけど、
私は徹夜と微熱気味で具合悪く、すぐにも寝なくてはと、今日は早々に戻って来た。



コンビニに寄り道して買って来た甘い物を一気に食べてから、
爆睡する予定で絹江のベッドに入ったら、
30分もしないうちに電話が鳴って、絹江が受話器を持って来た。

病院の看護婦からで、医師から話しがあるので、できるだけ早く来てくれとのこと。

さすがの私も、「具合が悪くて今横になっているので、夕方でもいいですか?」と聞いた。

医師は5時半までいるができれば早くに来て欲しいと言われて、
結局、その後なんとか45分を確保して、3時に絹江に起こしてもらった。

だるい体を引きずって、タクシーを呼び、途中で肌着を買ってから病院へ。

ナースステーションに呼ばれて行くと、外来の医師とはまた別のN医師が淡々と話し始めた。

今までの局所的なBOOPとは違って今回は「間質性肺炎の急性増悪」との診断。

さらに「縦隔洞気腫(肺から漏れた空気が心臓の周りに溜まる)」を起こしている。

「元々、肺が悪いが、レントゲンを見ると今は全体に白くなっていて、良くない。

 ステロイドを使ってみて効かないようであれば、他にやりようもなく、
 延命をしても、生きている時間が長くなるだけで本人は苦しいだけ。

 1日2万円という薬もあるが、2週間で28万円。
 しかも、辞めてしまえばまた急激に悪くなる・・・
 と言うわけで、延命治療はしないということで良いでしょうか。」

もちろん、無用な延命治療など母も望んではいない。
来る時が来た、と言う感じ。

緊急時の連絡先も聞かれた。

医師が去った後、看護婦から声を掛けられると涙があふれて来た。
花粉症だか風邪だか寝不足だかわからないけど、それで良かったと思った。
鼻の赤いのも目の赤いのも、それでごまかせた。

母は、私が徹夜したことを不憫に思って、
「早くうちに帰って寝た方が良いよ」と気遣った。

心拍89、酸素濃度87、脈拍96。最低血圧29、最高血圧36。
血圧29?(@_@;)
酸素は、鼻カニューラからマスクに代わったが、それでも87。
点滴に心電図に導尿もして、たくさんの管がつながった。
こういうのを「スパゲティー」と呼ぶらしい。



義兄と叔母にだけは、連絡をしておいた。

緊急時の連絡先を確認された。
夜も、子機を枕元に置いておかねばなるまい。


2003年03月24日(月) 入院1日目 ( セキが止まらない )

いつもなら人が来ている時にはセキもせず唾も出ないのに、
昨日は、少しむせるような感じだった。

そして、私が夕寝をしている時にもセキが出ていて、熟睡できなかったわけだが、
その後もセキが続いていて、日付の変わったこの時間、未だに母は眠ることができない。

余程、夜間の救急外来に連れて行こうかと思ったが、今回はレフティーが消極的だ。

9月末に行った時、点滴で2時間ぐらいかかったので帰宅は深夜の3時だった。
明日の仕事のことを考えると、レフティーが消極的になるのもわかる。
私がひとりでタクシーで連れて行ってもいいのだが・・・
点滴を待っている間は眠くても付き添いが寝るようなところはなく、
深夜は冷えて寒いがタオルケットさえも借りることができず、
ソファで仮眠を取っているレフティーが風邪を引くのでは、と心配をした。
次回からは毛布やダウンジャケットを持参した方が良いと思ったものだ。

今夜はこのまま、おそらくはセキが続き、みんな眠れないだろうと覚悟を決めた。
レフティーには、ハルシオンを飲んでもらおうかと思ったら、
こんな日に限って缶チューハイを飲んでしまった・・・




 * * * * *




まもなく明け方の5時になる。
案の定、眠れない夜となってしまった。

私は2時過ぎから添い寝をしながら、背中をさすったり叩いたりしてみたが、
一向にセキが止まらない。

息も絶え絶えに話すことの内容は、現在と過去が混同している様子である。

「明日は退院できるかしらね?」

亡くなった父とレフティーが重なるのか、父と自分が重なるのか、
はたまた自分が父にしてあげられなかったことの後悔か、親戚に責められたことなのか・・・
「お父さんは痩せちゃって。栄養のあるものを食べさせないからだよ。
 自分達ばっかり体重を計って、お父さんには計らせないんだもの。
 豚の一枚肉のステーキでも食べさせてあげればいいのに。
 お父さんは56,7kgだろうよ。レフティーさんは61kgだってさ。」

料理が苦手な母は、父の死後、叔母に随分責められたようであった。
そのことが、気に掛かっているのかも知れない。



「家に帰ってもゴチャゴチャでしょ? 考えるだけで頭が痛くなっちゃう。」

父が亡くなった時のことなのか・・・


「アリュール、旅館なんかで働くもんじゃないよ。大変だからね。」

「働き過ぎちゃダメだね。私は長いこと働き過ぎて疲れちゃった。」

「おまえはもう寝なさい。もう何もしなくてもいいから。
 おまえが先に死んじゃったら、絹江が困るから。
 絹江はまだ小さいから、何にもわかんない。」

絹江は15歳であり、これから高校生になるので「小さい」という表現は合わないように思う。
父が亡くなった時の小学4年生の私と混同しているのだろうか?
父の葬儀の際は、私はまったくの無力であった。


「長生きなんてするもんじゃないね。楽じゃないよ。子供に迷惑掛けて。
 死んじまいたいよ。」

「セキばかりしているから、おなかが痛くなっちゃった。」


今も母はセキが止まらずに、苦しんでいる。

入院の準備を整えてから病院に電話をかけてみたが、
救急外来だと薬も2,3日分しか出せないので、
数時間待って朝8時半からの一般外来にしてはどうか、とのこと。



 * * * * *



朝6時。

おむつが濡れていると言うので、ついでにトイレに連れて行こうと思ったが、
起き上がりに補助が必要で、ベッドからの立ち上がりも非常に不安定。

おしりが熱いので熱を計ってみたら、37.9。
風邪を引かせてしまったのだろうか? 昨日は比較的暖かだったが・・・

セキの拍子に再びおむつが濡れたというので、取り替えようとしたが、
先程に増して動きが悪く、支えていなければひっくり返ってしまう。

起き上がれそうにないので、寝かせたままでおむつを破ることにした。

新しいおむつをはかせるのも、また一苦労だった。
それでも何とか、腰を浮かせてくれたので、寝たままでもできた。

一晩中セキをしていて、一睡もしていないため、少し頭が痛いと言う。

私も、頭が痛い。
しかも、こんな時に限って、花粉症の症状がひどい。
鼻をかみっぱなしである。 私の頭痛は、花粉症からか?


2003年03月23日(日) お友達の I さんの訪問

目覚ましもかけずに寝ていたら、お昼を過ぎてしまった。
なかなか起きれないのを、遮光カーテンのせいにしてはいけないだろうか?
既にレフティーが洗濯機を回してくれていた。

私が洗濯物を担当し、レフティーと絹江がご飯の支度をして、
1時頃になってやっと初めての食事となった。

母が食べ終わって一息ついた頃、玄関のチャイムが鳴った。
母の同郷の友人である I さんだった。

リンゴに炊き込みご飯、マフラーと、古着を持って来てくれた。

Iさんは、母の酸素吸入と痩せた体にびっくりした様子だった。


絹江の卒業式の日、ヘルパーが母の髪を切ってくれたのだが、
後ろを刈り上げに近い短髪にしたため、余計に痩せた感じがする。
ガウンを脱ぐと、本当に頼りないくらいに細い体が強調されてしまう。


前回Iさんがもう1人のお友達と来てくれたのは、写真で確認したら10月だった。
その時に撮影したビデオを見せてあげた。

「・・・まだこの時は元気だったのにねぇ・・・」

今日も、記念のツーショットを撮った。


2003年03月20日(木) 多忙にて

多忙にて、更新が遅れております。


普通の日記をごらんの方はご存知かと思いますが、
先週は絹江の高校合格、レフティーの友人の5泊6日などがありまして、
立て込んでおりました。

この日記をあまり書かずにいると、ここしか読まない方にとっては、
母に何かあったのではないかとご心配をおかけしてしまいそうですね。

今日は、レフティーが母についての日記を書きましたので、そちらをごらん下さい。

今日は中学の卒業式。

 8:30〜13:00までと、
13:00〜17:00まで2箇所2人のヘルパーが来てくれることになっています。

午後は元々の計画に入っていましたが、
卒業式が午前に決まってから、急遽、ケアマネに手配をお願いしたわけです。

『卒業式の後、ランチでもして来ようかな』などと、呑気に考えております。


2003年03月10日(月) 高額医療費と入院時食費

市役所から数日前に封書が来ていた。

昨年の11月、12月分が高額医療費の対象になっているとかで、
市役所に行って手続きをすれば限度額を超えた分の払い戻しが受けられるとのことだった。

“高額医療費”という言葉は以前から知っていた。
勤務先の同僚の子供が難病で、1000万以上の治療費がかかったそうだが、
一部が返戻されたと聞いていた。

私は高額医療費というのは、確定申告でするものだと思っていたのだが、
国保だから市役所の扱いだったのか・・・



レフティーの休暇は、またまたこういった用事で始まった。



市役所からの通知に従って、
印鑑、通帳、保険証(国保・老人)、病院の領収書を準備した。

システムを理解していないので、通知に表示されている返戻の金額が、
どういう計算によって出てくるのか、
さらに、母が病院にかかり始めて既に2年も経つのに、
どうして昨年の11月、12月分だけなのかがわからなかったので、
念のため、これまでのすべての受診の領収書を持って行った。



昨年の10月から老人保健の一部が改正になり、
窓口で支払った治療費が一定の金額を超えた場合に、
その超えた分について払い戻しされるということだった。

一定の金額というのは、患者を4つに分けてそれぞれに設定されたものである。
^貭蟒蠧整幣紂´一般 住民税非課税供´そ嗣雲波鷁歙猫機,里Δ繊
母は“年金以外に収入がない低所得者”なのでい剖菠される。

つまり母の場合は
『1ヶ月の間に外来のみなら8000円、
 外来と入院なら15000円を超えたら返戻される』らしい。

それなら、一昨年は入院ばかりしていたので、かなりのお金が戻ってくるぞ♪と期待したところが、
あくまでも昨年10月の改正以降の分が適用となるため、一昨年の分は除外された。


なぁんだ・・・と思っていたところ、
職員が、後方で待っている車椅子と酸素チューブの母の様子を見て、
「今後も入院することがありそうですか?」と言って、
入院時の食事負担金の減額について説明をしてくれたので、
その場で『限度額適用・標準負担額減額認定証』の申請手続きをした。

これにより、これまで入院時の食費負担について780円/日を支払っていたものを
入院時にその認定証を提示すれば、300円/日で済むようになるらしい。

この制度については一昨年の入院時も適用されるが、
10月の改正以前の区分で見ると、90日までの入院は650円/日ということになる。

780円が650円となると、1日にわずか130円のことであるが、
入院日数の合計は143日にもなるので、18,590円が返戻される計算だ。

改正以降の11月の入院については5日だが、300円が適用されるので、
480×5=2,400円が返戻されるはずである。

この食費負担については申請をしない限り、認定証が発行されない。
耳の障害者手帳の時もそうだが、自分から申し出ないと受けられないものが多いので、
制度改正の時は受けられるものがないかをチェックしてみると良いだろう。


2003年03月08日(土) 片方だけ

ふと見ると、母は片方しか靴下を履いていなかった・・・
確か、前にもそんなことがあったが、違和感はないのか?

そうそう、この間、湯たんぽを入れてあげようとして掛け布団をめくったら
スリッパを片方履いたまま寝ていてビックリした。


・・・こんな時、絹江がいると一緒に笑って済ませるのだけど、1人の時はイライラしてくる。


このところ、私は寝ても寝ても寝たりない。
毎日、朝から晩まで、眠い目を無理やりこじ開けて起きている。
どうしようもなくなって布団にもぐりこむと、
そんな時に限って、母がトイレに立ち、咳き込み始める。


夕方、イライラして母を怒鳴り散らしていたら絹江がやってきて、
「ママ。はい、大きく深呼吸をして〜」 と私の両腕を持ち上げた。

絹江には、キレてる私をフォローする余裕があるらしい。
これで何度目だろうか。

傍から見たら、おかしな光景だろう。


2003年03月05日(水) 母の従兄弟との別れ

先ほど市内に住む親戚から、
母の故郷に住む“母の従兄弟のKさん”が亡くなったとの電話があった。

一昨日亡くなり、今夜が御通夜、明日が告別式だそうだ。


しかしそのおば(母の別の従姉妹の子)からは「行かない方が良いだろう」と言われた。


それは、病気の母を私が連れて行くにしても、代わりに私だけが行くにしても、
負担が大きいだろうから、ということだったが、
それよりも、両親を早くに亡くした母は親戚との付き合いが希薄であり、
今回の葬儀にかかわることが逆に先方の迷惑になるだろうということもある。
うちが行けば、あちらも母が万一の場合に行かなくては、と気を使うからだ。

うちが行きたいのは、
母がこれまでお世話になったことに対する感謝とお礼の気持ちであって、
母が万一の時に来ていただこうなどとは考えていないのだが、
世の中、そうもいかないらしい。


母は従姉妹であるが、私はさらにその子供なのであり、
おばは、
「今後は母親の遠縁よりも婚家(レフティー家)との親戚付き合いを大切にすべきだし、
 絹江ちゃんが結婚すれば、また、その相手の親戚との付き合いが始まるのだから、
 どこかで割り切らなくては・・・」と言った。


母は、母親を5歳の時に父親を12歳の時に亡くしてから住むところもなく、
親戚の家を転々としたり、旅館に住み込みで働くなどしていた。

親戚に冷遇されることが多かった中で、
母はこの従兄弟にはいろいろと面倒をみていただいたようで、心から慕い、尊敬していた。

私も何度か会ったが、いつも笑顔で話してくれるおじさんだった。

毎年、年賀状のやり取りだけは続けていた。

今年の年賀状には 『だいぶ弱りました』と書いてあったが、
その後、すぐに入院したことを、市内の親戚からは聞いていた。
従兄弟も母も、ともに高齢であるので、
ぜひともお見舞いに行き、顔合わせをしておきたかったのだが、
この時にも止められて、結局会うことなく亡くなってしまった。


直接会って感謝の気持ちを伝えたかったのだが、それも叶わず、
香典を送ることもあちらの負担になりそうだからとのことで辞めて、
手紙を書くことにした。


両親が早くに亡くなるということが、どれほど寂しいことかは、
母からこれまでに何度も聞かされて来たが、
今回のことは、それを具体的に感じることができたような気がする。

若い頃は、親戚付き合いなど面倒臭そうだと思っていたが、
「親がいるときにはわからない」という母の言葉を思い出す。


 * * * * *


私の場合は父を10歳で亡くしたが、
幸いなことに、その兄弟である叔父叔母家族には大変良くしてもらって、
従姉妹たちとも仲良く付き合うことができて、私は親戚の中において、
なんら肩身の狭い思いなどせずに生きて来ることができた。
それを当たり前のように思っていたが、これは感謝すべきことなのだと、
今頃になってやっとわかった。

父のすぐ下の妹にあたる叔母は親戚の取りまとめ的存在であり、
それをうっとうしく感じてきたが、今、改めて考えてみれば、
この叔母のおかげで私は、父が亡くなって30年が過ぎた今でも、
父方の親戚との交流を持っていられるのである。


2003年03月04日(火) 今日じゃなくても・・・

確かに、私に非があると言えば、そうだろう。

今夜は母をお風呂に入れた。

1週間に1度程度、母の入浴を予定しているが、
結局は私の体調と都合により、かなりいい加減になってきている。

もちろん、今が寒いせいもある。
汗をびっしょりかくわけではないし、風邪を引かせたら大変だ。
そもそも、近頃は、自分がお風呂に入ることさえ億劫になっているのだ。

で、今日は体調も良く、入れることにしたのだが・・・

なぜか、いつもタイミングが悪い。

絹江は夕方4時に帰宅しているのに、
焼きそばを作って食べたり、私とじゃれたりして、
明日が高校入試だというのに、一向に勉強を始める気配がなかった。

そろそろレフティーも帰宅しようかという7時頃になって、やっと机に座ったのであった。

そこで、私がお風呂に入り、
しばらく母を入れていないことに気付き、今夜入れることにした。
今夜は、自分がすべて洗い終わって充分に温まってから、
居間で1人でテレビを見ている母に声を掛けると、
外で車の音がして、ちょうどレフティーが帰宅したらしかった。

母は、すでに1人で服を脱ぎ、
絹江の手を煩わせずに風呂場に呼び寄せることができたのだが・・・



母がお風呂から上がる間際にレフティーと絹江の会話が聞こえ、
続いて玄関のドアの開く音、車のエンジンの音が聞こえてきて、
どうやらレフティーは再び外出したようだった。



絹江が明日、公立高校の後期試験なので、
レフティーは縁起を担いで絹江に「カツ丼」を食べさせるべく、コンビニまで買いに走ったのだった。

今日は、一昨日の陽気と打って変わって冷え込んだので、
良いお天気ではあったが、私は買い物には出なかった。

家族はあり合わせのおかずで済まそうと思っていたが、
なんとしても、絹江には「カツ丼=勝つ丼」を食べさせたいレフティーの親心であった。



母がお風呂から上がる時、最近は、絹江に頼らず、レフティーにもお願いをしている。
今日も、私はタイミングが良ければレフティーにお願いしようと思っていた。

ところが、出かけてしまったので絹江を呼んだ。

返事がないので、レフティーと一緒に外出してしまったのかと思い、
『私がやるしかないか』とバスタオルを巻いて浴室を出たら、
トンでもない時になって絹江が返事をした。

なんだ・・・いたのか。

「バスローブ、とって。」

やっと、勉強をやる気になったところを中断された絹江は不機嫌だったので、
私もバスタオルを巻いて、母に付き添って部屋へ連れて行った。

それでも絹江がフォローに来てくれたので、私は冷えた体を温めるため、
その場を絹江に任せて浴室に戻ってしまった。



その後である。


ドタン! バタン! と大きな音がして、絹江のなにやらキレた声が聞こえてきた。

やっぱり、着替えを手伝わせたことを怒っているのだろうか・・・


私が温まって浴室から出たあと、
レフティーもカツ丼を買って戻り、絹江にそれを報告に行ったようだった。
私はとりあえず、下着だけを着て母の様子を見に行くと、まだ髪の毛が湿っていた。

“ドライヤー、かけてくれなかったのかぁ? 風邪引くじゃないか・・・”

私は、やっと呼吸が落ち着いたばかりの母をベッドから起こして、ドライヤーをかけた。



絹江の部屋から出て来たレフティーが私に「絹江はどうしたの?」と聞いた。

「はぁ? 何が?」 
ドライヤーをかけずに放置した絹江に対して、私は少しばかりの不満を抱いていた。


「泣いているからさぁ・・・」

「はぁ? 着替えの手伝い、したくなかったんでしょ?
 勉強の邪魔をされたとかなんとか。
 夕方早くに帰って来て、今まで遊んでいたくせに・・・」 

私は、絹江の勉強の邪魔をしたことに申し訳ないと思うのに、逆に文句を言っていた。

「私の言うこと、聞かないんだから、あなたがちゃんと言って!」

仕事で疲れて帰宅したばかりのレフティーは、受験の娘のためにカツ丼を買いに走り、
さらには泣いてる娘のフォローにまわらなくてはならなかった。

「だってね、着替えとかちゃんと手伝って、お水まで渡してあげたのに、
 私のこと“バカ”って言ったんだよ?」


なんだって?

どうやらドライヤーが熱かったらしいのだが、普段温厚な母が暴言を吐くというのは・・・


「ちょっと、おば〜ちゃん! 絹江に“バカ”って言ったんだって?」

言っている私も、
おそらくはそれを隣の部屋で聞いてるレフティーも絹江も、
それがいかに無意味で愚かな発言であるかを知っていた。

だけど、言わずにいられなかった。

「え? 絹江ちゃんに“バカ”って言ったの? 私が? なんでだろ?」

自分がついさっき言ったことさえ、覚えていないのだ。

「おば〜ちゃん、絹江に謝ってよ」 とは言ってみたものの、
お風呂上りで補聴器をつけていない母が言った言葉は、

「夜のご飯、まだ?」 であった。



 * * * * * 



予告を見ていたので、今夜の2時間ドラマ『介護家族』をみんなで見た。

このドラマは、
脱サラした夫(峰竜太)がケアマネージャー試験に合格し、自宅を改築して施設を作り、
妻(室井滋)とチカラを合わせてデイサービスを提供する、と言うものである。

痴呆老人に南田洋子、その娘に深浦加奈子。

仕事に出かける深浦は、徘徊の危険がある南田をベッドに縛り付ける。

『なんてことするんですか! あなた、自分のお母さんでしょ!』

『周りの人もみんなそう言う。“娘なんだから看て当たり前だ”って。
 自分の親だから困るんじゃない。 
 あなたみたいに仕事と割り切って、時間で終われるわけじゃないのよ?
 そんなこと言うなら、あなた、24時間預かってよ!
 毎日こうして、どっちかが死ぬまで続くのよ?
 あなたが引き取って、一生面倒見てよ!』

確か、このようなやり取りであった。

このシーンが予告で夕方に流れていたので、見てみようと思ったのだが、
やはり泣けた。



 * * * * *


本日、入浴前の体重、39.5kg。

難聴と痴呆の母の介護は続く。



・・・書いてるうちに、母がトイレに起きてうなる。
もちろん、酸素は・・・はずしてしまっている・・・


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