白月亭通信別記
老い先短い残照の日々、
おりふしの所懐を、
とりとめもなく書き留めて…

2003年12月31日(水) 激動一年

 波乱にとんだ一年だった。年が明けてすぐ足に激痛が走った。十年前の苦い経験を思い出してすぐ病院へ走った。CTやMRIの画像検査があり大学病院に回されて結局無罪放免となったが、春になったら帯状疱疹発症。入院までした。それが鎮まったら前立腺ガン。組織検査の結果はクロ。定期的にホルモン注射を受けながら進行を遅らせるという治療を受けているという満身創痍の状態。極め付きは押し詰まってからの埼玉移住。こんなことがあっていいのだろうかという感想で激動の一年が暮れて行く。



2003年12月26日(金) 電波事情

 毛呂山は東京から50キロしかないのにテレビの映りが悪い。どの家も雲がかかるくらいのアンテナを立てているがゴーストで興ざめの絵しかでない。FMも同じで雑音がひどいし音もわれるので聞きづらい。CDもいらないMDもいらない、音源はFMでいいと思っていたので電波事情のわるい土地に困った、困った。



2003年12月25日(木) サンタ・クロース

 孫たちはまだサンタクロースの存在を信じている。クリスマスイブにフィンランドからスペシューム光線に乗って日本に飛来し子どもたちにプレゼントを配って回る。ただしいい子と認められた子にだけ。だからいつになくいい子にふるまってわんぱくぶりがかげをひそめ昨夜も早くからフトンに入っが寝付かれない夜になったようだ。「おじいちゃまァ、サンタがきたよ」。けさはその声で目が覚めた。これにはパパの言い知れぬ苦労がひそんでいる。



2003年12月24日(水) 武蔵野

 ここいらには武州の名のつく地名や駅名が多い。「武州長瀬」や「武州唐沢」など。この地方もかって武蔵とよばれていた地域であることがわかる。あたたく晴れ上がった天皇誕生日のきのうドライブに誘われて川越まで。ところどころに開発を免れた武蔵野の雑木林を発見して感動。すっかり葉を落として冬空に突き刺さったケヤキやクヌギ、ナラの類が蕭々とした姿を見せていた。



2003年12月23日(火) 花の東京

 中野重治は代表作「歌のわかれ」で金沢から上京した安吉にあこがれていた東京(大学)での生活のスタートの感動を「おお、花の東京よ」と絶句させている。九州の片田舎で生涯を終えるはずだった私だがひょんなことで「花の東京」が指呼の間に望める土地(埼玉県毛呂山町)に住むことになった。池袋までは1時間の距離。急に東京が身近になってワクワクしている。



2003年12月20日(土) 新建築

 新しい住まいは同時に新築の家でもある。一世一代の決心をしてマイホーム建築に踏み切った息子だが、きびしいローン戦争に勝ち抜けるか、もはや財力のなくなった親としては心配なのだが、いまどきの建築はすっかり様変わりして新しい建築様式がふんだんに取り入れられ生活がすっかり便利になっている。ピッキング防止のロック装置、風呂が沸いたのを音声で知らせる装置、自動で洗浄が始まるトイレなど。玄関へのアプローチはまるで箱庭のようでここに七十の老人はいささか不似合いである。



2003年12月19日(金) ストレス

 養護施設に勤める息子夫婦の勤務体系は不定期で5時になったら終業というわけにはいかない。出産育児ということになると二人がやりくりしあって子どもの世話をしなければならなかった。ストレスのたまる環境だが私たちには泣き言もいわずに二人で育て上げいまではほとんど手がかからなくなった。したがっていまさら育児の手伝いというわけでもないのだが孫たちの夜の相手をしてやれば息子たちのストレスをいくらかでもやわらげられるのである。



2003年12月18日(木) 毛呂山

 移り住んだ土地は埼玉県毛呂山(もろやま)町。昭和14年、宮崎から分村した「新しき村」の所在地として知られているが、学術文化の面では先端医学,先進医療で知られる埼玉医科大のある町として有名。息子もこの大学の付属医療施設で理学療法士として働いている。嫁さんも同じ施設の職員である。



2003年12月17日(水) おじいちゃま

 「あっ、おじいちゃまだ」。学童保育を終えて孫たちが歓声をあげて帰ってきた。私たちの到着を首を長くして待っていたのだという。同居にあたって一番の気がかりは孫たちに気に入られるかどうかだった。まだ頑是無いこどもだから家族が増えることが単純に楽しいのだろうが成長すれば結局疎まれ嫌悪される存在。つかの間といえども孫たちに歓迎されたことはうれしいことだった。



2003年12月05日(金) パソコン

 息子と同居するにあたってパソコン一台なら持込可という許可が出たがCRTのモニターはダメで液晶を買えというご下命だ。いっそのことノートパソコンにしたら場所をとらないけれどこれにはお金がない。それにいままでに作り上げた「マイコンピュータ」の環境をまた一から設定するのも大変だから本体だけを送ることにしていよいよこれから梱包し発送だ。したがってこの日記もとりあえずきょうでひとまずおしまい。埼玉から発信できる日が来るか?



2003年12月04日(木) 片道切符

 埼玉移住のために羽田便の往路を予約した。「片道でよろしいですね」という旅行代理店員の確認で退路を絶った北帰行であることを強く自覚させられた。七十年間慣れ親しんだふるさとと永遠の別れになるかも知れないという思いがこみあげて万感胸に迫るものがあつた。古希という年齢から生還期しがたい旅立ちではあるけれど万が一ということを考えて住みなれた家は空家として残すことにしたが家を空けることで狐狸のねぐらとなりはてることも必定であらためてふたたび故郷の土を踏むことはあるまいという予感がつよくなるばかりである。



2003年12月03日(水) 汗牛充棟

 離れもあれば物置もありそこそこの庭もあるという屋敷にゆったりと暮らしてきた私たちにあてがわれた終の棲家は六畳一間。「パソコン一台のほかは何もおけないよ」といわれて七十年間に買い集めた万巻の書を泣く泣く処分した。日本文学全集も世界文学全集も古典文学大系も古本屋の査定はゼロ。自慢の汗牛充棟だったがダンボールに無造作に投げ込まれて運ばれていくわが蔵書はまさに屠場に挽かれていく牛であった。



2003年12月02日(火) デラシネ

 職場のある埼玉に永住を決意してマイホームを建てるのに私たちの部屋も作るから一緒に暮らそうという申し出が次男からあったのが春のころ。行くべきか行かざるべきか迷いに迷って、老いては子に従えの教えに従って埼玉行を決めた。墳墓の地を捨てて異郷に暮らすことは長男として生を享けた身の上にとっては姉弟に申し開きのできないつらさもあったが老いの身をゆだねるのは子にしくはないというのが決断の理由。古希を直前にしてデラシネ(故郷喪失者)となるのもさだめか。



2003年12月01日(月) 国威発揚

 このところ滅入ってしまうようなニュースばかりだ。第一は国際大会における日本スポーツの不振。ラグビー、サッカー、バレーなど。とりわけバレーの五輪予選における日本チーム惨敗は目を覆わしめるものがあった。過去のオリンピックで無敵を誇った日本の栄光はいまいずこだ。第二はH2Aロケットの打ち上げ失敗。早速、有人ロケットに成功した中国と比較して日本の技術が取りざたし始められて国威にかげりが見え始めている。そして今度は邦人が犠牲となったイラク情勢における日本の地位。とりわけ犠牲者の一人が同郷の人であったことでショックもひときわだ。この悲しみを乗り越えるために国の威信をかけた対応策を小泉さんは示して欲しいものだ。「テロに屈してはならない」(小泉談話)は当然だが、冷静さを失ってやみくもに自衛隊派遣を強行してはならない。


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