身辺雑記
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2001年10月08日(月)

朝起きたら戦争でした。
ここんとこ、ちょっと小康状態で、ひょっとして、いい方にもしかして向かうんじゃないか?と思っていた矢先に、本当にいきなり戦争が始まってしまった。
ちょっとこんなの不意打ちだよ〜という気分。
世界って一つじゃないですね。欧米の理論で回る社会と、イスラムの理論で回る社会。おそらくもっといろいろな社会があるんだな、と改めて思ったような気がします。 たぶん、欧米がかつて時の流れの中に置いてきてしまった信仰を中心とする社会を、今、イスラムは生きていて、そのことに対する敬意を、欧米は少し忘れてしまっていたような気もする。
信仰の社会に産業革命の産物がいきなり流れてもいけなかったような気がする。
少しずつ移り変わって自然に変わっていくべき社会が、科学の力で、いきなり距離が縮んでしまって、お互い、手放してはいけなかったもの、手にしてはいけなかったものが流通ルートに乗ってしまったんじゃないだろうか。
正義の戦いと、お互いが標榜する。
それぞれの社会の理論ではそれぞれが紛うことなき正義だと思う。
科学で世界は小さくなった。
知らないでもすんだ他人を知ることになった。
お互いを無視してはもう生きられないのなら、お互いを無視せず、生きていかないといけないのじゃないだろうか。
テロは単独にテロではなく、どこか文化対文化の構図を帯び始めている。だからこそ、問題がややこしくなっているのだろうか。テロを戦争と呼んだのはアメリカ大統領だけど、それはテロ行為が戦争なだけで、戦争だから報復していいという結論を導き出すためのものではなかったはずだ。

いくつかある社会同士が共存をするために必要なことは、それはお互いが違うということをまず理解することじゃないだろうか。
認める必要もない、理解する必要もない。ただ違う、ということだけを受け入れること、そして、その違いに敬意を払うこと。
学校教育の中で我々は差別問題についてそう習ってきたんじゃなかったか。自分と違うということを差別してはいけないということ。

自分の中の正義は他人の中の正義と同じ形をしているんだろうかと、考えてみる想像力はとても大切なんじゃないかと思ったりするのだが。

いろいろな社会の中に日本の社会もまた欧米ともイスラムとも異なる歴史を刻み、異なる時代を生きてきたことは歴史が証明している。違う価値観を日本という国が持つことも許されるはずだ。どちらかがどう、ではなく、お互いを尊重した上で、共通する意識、たとえば法律の下に裁くというような、全ての社会が納得する第三の道があっても許されるはずじゃないだろうか。

空爆の下、そこにいるのはイスラム人でもアメリカ人でも他の誰でもなく、ただ人間では何故いけないのだろうか。

大きな武器と大きな屁理屈で殺し合うのを神は望んでいるのだろうか。
イスラム教とキリスト教は同じ神を崇めていたのではなかっただろうか。

目には目を。
歯には歯を。
ハンムラビ法典はもうずっと昔、過去の時代の法典だ。
右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい、とキリストは言ったのじゃなかったか。それもあるいはずっと昔、過去の教訓となっているのだろうか。

許し合うことでしか次の時代へは行けない。
難しいけれど、人間だからね、という安易なキーワードで怒りを爆発させるのをやめない限り、社会はまた戦火に焼き尽くされることになる。


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