今言ったら
神崎嬢に 日記がゲームに関することでつまんないって言われたんだけど
今言ったら。今書いたら。
全部スレ語りになりそうな。
そんな勢いでヤバイんです。今日のあたしは抑え気味でした。 絶対やばいと思って抑えた。 日記でも抑えてるの。本当に抑えてるの。
スレのゲーム日記書いてても抑えてるの。 (私信:頼んだゲームはすごい希少らしいという話を聞いたので やっぱいいです…探してくれればありがたいけど) 今度秋葉行こうっと。
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今日某俳優さんが自殺したという記事を読んで思ったんだけど。 自殺は誰にでも出来るものですね。 「死んでもいい」と思えるときや「死にたい」と思うとき、 そんなものは他人が思う以上に自分にとってはいとも簡単に 手に入れられる瞬間ではないかと思ってますし、 実際あたしはそうなの。 だからいくら友達や家族といるときを愛しく思っていても それすらあっさりと崩れ落ちる誘惑が時にあるものだと思っています。 だから自殺には理由なんかないと思っているのね。 そして「遺書を捜す」という行為に首を傾げます。 遺書は残された人の心に影響を与えるものであって 自分にとっては何の意味もないもの。 そんなものを作ることが自分にとって何の意味があるのか。 こんなことを書いているけれどあたしは死んでいないので どちらかというと残された側の気持ちの方が共感出来るわけで 死なれた側としてはどうして死んだのかという理由を求めてしまう 気持ちの方が理解できます。 ただ同時に自分の存在に愕然として 独りであることにどうしても気づいて 何も言わず残さず死んでしまう人の気持ちにひどく近いこともある。 予備校の先生が 「師匠が誰にも何も言わずに自殺した」という話をしてくれたとき その師匠の気持ちも、何も言われずに師匠をなくしてしまった 先生の喪失感も同時に理解できると思った。 そういう状態のあたしははたして生きているのか。 生と死の狭間の思考。 ひどく不安定なのだなと思う。 だから「遺書を残す」という行為も生まれるのだとも思った。 同時に「遺書を残す」人は独りではない人です。 独りの人には遺書は残せない。
纏っていない上によくわかんない話でごめんね… すっごく贅沢な人間なんです。 死にたくなくても死んでしまう人が現在いるのにね。 でも、宗教に殉じて死ねる人というのはとても幸せに見える。 信じられる唯一つがあるのね。 正しいか間違っているかは他人が。 信じるに値するかは自分が決めます。 だから、不幸だなんて思えないよ。 彼らが神の下へ行くかは誰にもわからない。 けれど、幸福な生かどうかは自分だけのもの。
生きることは難しいね。 何かを信じていきてみたくて その何かは自分で探して生きてみたい。 とにかく、今のあたしは生きていたいです。
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