★ 夏海の日記 ★

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2001年11月20日(火) 思い出したこと 2

本当に、いつもいつも長い文章で...。文章がヘタで、まとまらせるテクニックと意識がない(笑)上に、言いたいことが いっぱいあって...。これも長くなりそうかな...。呆れないで、お付き合い下さい。 m(_ _)m


 祖母が入院したのが、確か平成8年の1月4日、お正月明けでした。まずは、風邪。熱が高かったので、高齢ということもあって、前日の診察時に 入院させてくれと言ったのだけれども、病院側としてもベッド数の関係から、簡単に入院させるわけにもいかず、家に追い返されました。その夜中に、トイレへ行った祖母が、どうなったもんだか、トイレの中でころび、腰を打って動けなくなり、寝ていた母が気が付くまでの間、寒いトイレの中でパジャマのまま、そのままの体勢で固まっていたそうです。
 そのせいで風邪が酷くなり、また病院へ。動けなくなった腰のレントゲンを撮り、骨折はしていなかったので、また家へ帰されそうになったのですが、母が「こんな状態じゃ、夜中に救急車で運ばれてくるかも」と、病院を脅し(笑)、入院することになったんです。(実際、肺炎になりかけでした)

 祖母は実家で(私も含めてですが)嫌われていました。嫁姑の関係にあたる母に、かなりの意地悪をしていた祖母を、母が好くわけもなく、でも『年寄りはね、年を取るだけでも寂しいものだから、意識して話しかけてあげなさい』という、母の実父の言葉通り、毎日腹を立てながらでも、ちゃんと相手をしてあげて、弟を亡くした後も、「私がが出ていったら、残された おばあちゃんが可哀想だから...」という理由から、自分から家を出る(つまり離婚する)ことをしないであげた、本当に『出来た嫁』でした。
 父は、自分の親であるにも関わらず、祖母を嫌って自分から話しかけることもせず、用事がある時は母に言って、母から祖母に伝えてさせるか、自分が話しかける時は宗教の話か、そこへ連れていくかの『自分の思惑』がある時だけ、優しい言葉を掛けていました。

 過去に父が母を道連れに、県外へ住み込みで仕事に出ていってしまった時、姉妹弟と祖母だけの生活をしたことがありました。弟とは時間帯が合わないので話ができない、祖母を嫌っていた妹は、徹底的に無視をしていたので、祖母と話しをするのが私だけの状態になって、それまでも仲の良い祖母と孫ではなかったのに(一緒に住んでいながら、お小遣いを貰ったこともありませんでした)、真正直に、真正面から向き合ってしまって、嫁姑のような関係になってしまい(実際、祖母は家事を一切しなかったので、私は嫁のようでした)、遠くの親戚に祖母を迎えに来て貰う騒動もありました。(その時、親戚は自分の家に引き取る為に、私が頼むのではなく、父に「どうぞお願いします」と頭を下げさせるということをしました。父は「『(仲の良くない姉弟に)頭を下げてまで』面倒を見て貰いたいと思わない」と ごねて、でも実際面倒を見ているのは孫の私なので、寄ってたかって 父に無理矢理頭を下げさせたのです)

 またもや説明が長くなってしまったけれど、そういう変な(妙な?)家族だったことが大前提としてあって、それを全部夫は『知って』いました。私の祖母が、自分の祖母と違ったタイプの変な人だということも、父が人を小馬鹿にして高飛車な態度を取り、嫌みを含んだ毒のある言葉を吐く変な人だと、父と仲の悪い母が、私を『家長』のように過剰に頼りにしているということを、妹との過去の最悪な関係を、夫は全部『知って』いたので、私の必死さを心配していました。

 必死さ...。
 最初は、ただの風邪で、腰を打って動けなくなって入院した祖母でしたが、動けない祖母におしっこの管を着けたあたりから、私たちの言葉を『聞かなく』なりました。(それが、『聞こえない』のか、『聞きたくない』のかの判断がつかなんですが、聞こえてるのに『聞く気がない』のが私の見解かな。だって、メモに書いても、無視したてたし)
 そして、しばらく経ったある日、乱暴にシーツ換えをした拍子に、『タン』が気管に詰まり、呼吸困難から心臓が停止してしまいました。本来なら、その病院は、老人の蘇生措置はしないそうなんです。若い人と違って脳が活性化していないので、植物人間になる可能性が高い為と、老人の『寿命』として『死』を迎えるといった理由だそうですが。でも、心臓が停止したその時は、ほんの数分だったことと、自分たちのミスの為なのとで、病院は蘇生処置をしました。でも祖母は、もう生きる気持ちがなかったんでしょう。そのまま意識が回復せず、植物人間になりました。呼吸器で呼吸をし、ただ心臓だけが元気に動いている状態に。

 でもね、看病する身としたら、冷たいようだけど、植物人間の方が、全然楽なの。面倒を一切見ないで良いから。ただ、様態を見るだけで良いから。
 祖母が植物人間になるまでは、動けなかった祖母に ずーっと母が付きっきりだったので、実家の分のご飯を自分の家のご飯と一緒に作って実家へ持っていくのが、私の日課でした。実家に両親と、自分の夫共々一緒に住んでいる妹は、1歳半くらいだった甥っ子がうろちょろして怖いから(と言う理由で、でも甥っ子を産んでからずーっと、母が仕事から帰ってからしか買い物も炊事もしなかった)と言うので、妹夫婦のご飯も私の担当でした。時には実家の洗濯も。
毎日毎日自分の家と実家と病院を、何往復したかな。その間、夫の家業も手伝って。(病院、仕事、家事。頑張ったな〜。私。)

そして訪れた 祖母の死でした。

また長くなってしまって...。
でも、これを説明しないと、お葬式の時の心模様を解って貰えない気がするから。
と、いうことで、またまた『明日に続く』です。


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