moonshine  エミ




2007年01月31日(水)  これもまた私の通過点。

さて、ブログで見た人もいると思いますが、賢ちゃんと別れそうになっています。どういう顛末になるのかはイマイチ分かりませんが、別れそうになっていることは確実です。降水確率80%くらいかなあ。
こういうことってタイムリーに書く必要は全然ないんですけど、マメに日記をつけてると、書かないことで逆に心配されたり邪推されたりするような気がしてしまう。それ自体が間違っているというか自意識が強すぎるのかもしれませんが、まあ、書きます。

別れを決断するとき、したあとっていうのは、それがどういう経緯であれ心にストレスをもたらすのは言うまでもありません。生活パターン、心理行動パターンのクライシスですから。それで私も落ち込んでいます。落ち込みつつ、いろいろ考えています。

賢ちゃんとつきあい始めたとき、「恋の楽しさは、自己肯定だ。」と思った。相手を素敵だと思い、素敵だと思える相手が自分を選んでいる、という喜び。ならば恋を失うときの悲しさは、自己否定ともいえる。どっちがどう言い出したとしても、いったん自分を選んでくれた人と別れるというのは、ある意味、自分という存在はもう認められなくなった、ということだ。

もちろんそれだけじゃないよ。恋することも恋じゃなくなることも、簡単に言語化できない。ただ、恋には多分に陶酔が含まれるので、結局、相手をとおして自分を見ている部分があるってことを認識していたい。

こんなこと思うからかわいくないのかな。でもこういう気持ちは、ある意味、私にとっては自己防衛手段なのだ。なんというか、つらいことほど、できるだけ、論理的に分析したいって気に駆られる。感情の波は時に自分ではコントロールできない。だからこそ考えたい。ムードに浸っているほうがつらいのだ。

まぁ顛末はまたいずれ、ここに書くときもくるでしょう。

でもとりあえず、行動としては普通に生活してます。それが一番いいと信じているから。振り子を急に動かすと必ず反動がくるのです。

お酒は飲む、でも飲みすぎない。仕事はする、でものめりこまない。家事はさぼらない、でもやりすぎない。手を休めるのはつらいけど、ふと休めたときにつらくなりすぎるほどにはしない。

もちろん渦中にあるわけだから、「こんなにつらいことはない。」と感じる自分もいます。でも、「こんなにつらいことはこれまでにもあった。」「そしてこれから先もありうる。」と思える自分もいないこともないわけで、それが大人ってものかなぁ。

浜田省吾じゃないけど、悲しみは雪のように夜のうちに積もる。これから先の自分の気持ちはわかんない。わからないってのが私にはとてもつらい。とはいえ、食事と睡眠に影響をきたしてない自分に、ある種の現実的強さというか、しぶとさを感じる今日このごろであります。
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