| moonshine エミ |
| 2003年04月12日(土) 宇宙の中の生命体 | ||||
| ゆうべテレビで見た映画『道頓堀川』、終わったのが朝方4時近くだった。 起きたらもう10時前だったけど、それでも起きるのがつらかった。 えっこらせ、と会社に行く。 やっぱり土曜日の会社って、仕事がはかどるんだよなあ。電話も鳴らないし。 病院に行こうと思っていたので早めに退社しようとしたのだが、 隣の部署の40歳くらいの人と雑談を始めるとつい長くなり、結局行けなかった。 こちらがずいぶん年下なので、自分から話を切り上げにくかったというのもあるが、実際のところ、なかなか興味深い話だったのだ。 オカルト映画のことから始まって、霊魂は存在するのか、とか、生命の進化論、質量とエネルギーの関係、宇宙の始まりと終わりについてまで、話は広がった。 ・・・ずいぶん、マニアックでしょ。 私は、その方面については全然詳しくないし特別な興味をもっているというわけでもないけど。 最初に、『ペット・セメタリー』とかいう、隠れた名作という雰囲気のオカルト映画のあらすじを聞いた。 私が、 「怖いものはとにかく苦手、極力見ないようにしてる、 さすがにこの年になって、『夜、幽霊が出たらどうしよう』とは思わないけど、うっかり怖い映画などを見てしまったときは、本当にその夜、眠る前に後悔する」 というようなことを言うと、 「俺の兄貴とそのちっちゃい娘は、霊感が強いのか、時々霊が見えるらhしいんだ」 とエピソードを話し出して、 「あー、見える人ってけっこういますからね、 その人たちがみんな嘘をついたり寝ぼけたりしてるわけじゃないだろうから、 やっぱりいるんだろうなあ」 なんて私が言うと、 「いや、でも俺はね、霊は存在しえないと思ってるんだ」 と彼は言う。 私は、現段階の科学で証明し得ないものを全て否定すると言うのは人類の傲慢だと思ってて、 人間がまだ知らないことなんて、この地球上にいっぱいあると思う、 そういう意味で幽霊がいたって不思議じゃない、私が見ることはないと思うけど・・・ と言った。 その人の意見は、 「人類という知的生命体の歴史は、地球の歴史、まして宇宙全体の歴史から見ると、 線香花火が燃え尽きるのよりも短いほどの時間。 人間は、母がいて、祖母がいて、曾祖母がいて・・・と脈々としたつながりの中に自分が生まれた、ということを尊んで、 祖先を供養したり、お盆になるとあの世の人が帰ってくるとかいうけど、 じゃあ霊魂というのは人間だけにあるのか? たまたま人間には知能があるけど、動物や、植物や、バクテリアだって同じ生命体であることにはかわりない。 人間に霊魂があるなら、それらにもあるはずだ。でも、植物の霊魂なんて想像できるか? 人類が誕生して200万年だけど、地球に生命が生まれたのはもっと何億年も前のこと、その頃からの生命体の霊魂がすべて地球上に存在しているなんて、想像できるか?」 というようなもの。 そう言われると確かに納得だし(もともと大した意見をもっていないので、そう理路整然と並べられると、あっさり論破されてしまう。セールスとかに引っかからないよう気をつけないと・・・^^;) 何より、 私は「霊はいる(かもしれない、という程度だが)」 彼は「霊はいない」 という、一見、反対の意見なのに、そもそもの立脚点が同じというのが、何だかとても面白かった。 私の、現段階の科学で証明し得ないものを全て否定するのはおかしい、という考えと、 彼の、宇宙全体から見れは人間の歴史なんてかくもちっぽけ、という考えは、どちらも、 地球上のあらゆるもの、たくさんの生命たちと人類とを区別したり特別視したりしない、という点で共通している。 そして、私は霊がいようがいまいがまあどちらでもいいのだが、この立脚点こそが大事のような気がするので、共通していることが少し面白いなあと思ったことだった。 自分というただ一つの人生を生きていくのだから、私だって自分がかわいいし、自分のことばっかり考えてるけれど。 自分のことを好きだと思えることも、とてもステキなことだけれど。 でもその一方で、自分のことを「とりたてて特別なんかじゃない」と認識する気持ちも、大事だと思うんだな。 それは、卑屈になるということではなくて、傲慢にならないということ。 そしてもう一つ、話していて思ったのが、 こういう、生命の起源とかについて話したり調べたりすると、 小さな小さな目に見えないような細胞レベルのことと、 宇宙はどうやってできたのか、宇宙はどこまで続いていて、その涯はどこにあるのか、という、とてつもなく大きなことを、 同時に考えることになるんだなあということ。 これは面白いことだと思って、彼にもそう言った。 「そうなんだよ。で、そういう本なんか読んでるとね、宇宙の始まりは完全な無だって考えられてるらしいんだ、今のところ。 まったくの無。空間もない。時間もない。そんなこと言われたって、想像できないんだけどね。でも、なんか、読んでると面白いんだよ」 「うーん、ほんと、そんなの想像できない。 でも、それが面白いのって、自分の想像を超えたものに触れるということそのものが、刺激になってるんですかね」 「そうかもね。俺、ほんとにそういうこと、好きなんだよね。宇宙に行ってみたいんだよね。どうなってるのか目で見てみたいよ」 太陽系が、いつの日か終焉を迎えることははっきりしていて、これは私もどこかで聞いたことがあったけど、地球は太陽の膨張にいつか飲み込まれてしまうとか? そのときに、まだ地球に知的生命体がいたら、なんとか太陽系の外に居住スペースをつくって、移動して、自給自足の生活をしないといけない。 そんなの今はほんとにSFの世界の話でしかないけれど、科学者の研究、莫大な予算をかけて行われる宇宙事業なんかが、遠い将来の一歩一歩につながっているのかもしれない。。。 そんな話もした。 もちろん、そんな気の遠くなるような危機なんかより、今この瞬間に、食べ物がなくて死んでいく人たちだっているんだってことは言える。 でも、私はここで、思い出したんだ、森博嗣の小説の中のセリフ。 『僕ら研究者は、何も生産していない、 無責任さだけが取り柄だからね。 でも、百年、二百年先のことを考えられるのは、僕らだけなんだよ』 今日話した会社の人が、基本的に薀蓄好きだってことは、何となく知ってた。 '70年代の洋楽にすごく詳しくて、そのことについて話したこともあったし、車にもかなり口うるさいらしいし、ワールドカップのときはサッカーについてすごい解説してたし。 でも、こんなことにまで興味を持ってる人だとは思わなかった。 すごく意外だった。 なぜって、その人が会社の第一人者としてやってるのは、誰でももっとも見たくないような現実に対処する仕事なんだ。社会の必要悪。破綻とか、訴訟とか、民法とか、土地の権利関係とか、担保がどうとか・・・ そんな仕事をしているだけあって、すごい理論家だし、現実的だし、仕事中のその人の会話とかを隣の部署で聞いていて、 「いや、それが正しいのはわかるけどさー、そんな言い方ってイヤミに聞こえるんじゃ・・・」 なんて思うときもあるほどだったんだ。 そんな人がね、宇宙だとか生命の起源と進化だとか、語り出すんだもん。 大の大人がそんな非現実的なことに興味をもっちゃって・・・なんて思う? 私は、思わなかったよ。 だれでも、子供のときは、 「宇宙ってどこまで続いてるんだろう? 人は死んだらどこに行くんだろう?」 て、無邪気な疑問を持つ。 でも、大人になるにつれて、そんなことを考えたって答えが出ないとわかっちゃうし、答えが出ないことを考え続けるなんてナンセンスだと思うようになるし、 「そんなこと考えたって、何の役にも立たないよ」 なんて、つまらないことを言ってしまいがち。 だけど、想像もつかないようなことがこの世には確かにあると、そんな大きな流れの中で生きていると、時に思いをはせるのは、それこそ「知的生命体」の特権だよね。 「こんなこと知ってたって、どうしようもないんだけどね」 と、話の終わりがけにその人は言った。 「いや、興味って、そういうもんですよね! 何かの役に立つからとか、そういうことじゃないんですよ!」 長くなりました。最後まで読んでくれた人、いたらありがとう。 お疲れついでに、掲示板になんか書いていきませんか? うふ。 しかし、ほんと、一週間つかれた。 今日、家に帰って1時間ほど、前後不覚の状態に陥ったよ。 というと大げさで、ベッドの脇に座り込んだまま眠りこけて、ぼんやり目があいてもしばらく立ち上がれなかった・・・てだけだけど。 ほんと疲れたよ。 なのに長い長い日記を書き始めたら、目が冴えてきてしまって、今はああ、やっぱり25時45分。寝よう。 明日は休みだ。 |
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