| moonshine エミ |
| 2003年02月16日(日) moonshine (a part of my life) | ||||
| 日記のタイトル、「moonshine」には、英和辞典を引いてもらったらわかるように“くだらない戯言”という意味がある。 ひそやかで、日によって明るくも暗くも、あたたかくも冷たくも感じる月の光のようなイメージもして、けっこう気に入っている。 そんな感じでネット上で日記を書き始めて、おお! 2年以上になる。 飽きることなく、頻度も落ちず、しつこく続いている。 読んでくれている人は、この「エンピツ」サイトのリンクを辿って来てくれた人など、大部分がネット上でのみ私を知っている人だが、最近は恥ずかしさという美しい気持ちもなくなってきたのか、オフラインでの友だちにもこんなHPの存在を教えることがある。 そこで時々言われる言葉。 『セキララだね〜、日常とか、考えてることをさらけだすの、恥ずかしくない?』 はい、恥ずかしいです。 毎晩、そのときの気持ちをバババと書いて、寝かせることもなくエイッとアップロードしているのだから、しばらく経って読み返すと、 「・・・あー、何書いてんだろーね、あたしゃ」 と赤くなったり青くなったりすることは、ある。 でも、私がハナウタ混じりにパッパと書いてる日の文も、パソコンの前で、あーうーと唸りながら熱く書いてる日の文も、 読んでいる人のその日のテンションで、さらりと読まれているものだと思う。けっこう長文の日もあるし、偏った話題の日もあるから、興味をもってくれたところだけ、ちろっと読んでくれていることでしょう。 あまり過剰に恥ずかしがる自意識のほうが恥ずかしいものだと、最近では開き直っております。 もちろん、信頼できる友達にしか、教えてないけど。 あるいは。 『ネットだと、誰が読むかわかんないから、普通の日記みたいに本音を書けないでしょ?』 はい、その通りです。 仕事のこと、友だちのこと、家族のこと・・・守秘義務やプライバシーには気を遣っているつもりです。 そのため、ぼかして書いているところ、書けない部分は確かにある。 でもそれが、自分にとっての日記の価値を下げているとは思っていない。 日々の出来事を実名入りで、思うさま綴りたいならノートに書けばいい。 でも、そういういわゆる『普通の日記』と、このネット上の日記と、「どっちが日記らしい」「どっちが日記として正しい」なんて、決める必要は全然ない。 定義づけなんてする必要が、どうしてあるだろう? 毎日、それなりに忙しく面白く、悩みながら、過ごしてる。 その記録だ。 誰かのためにやってることじゃない。書かなきゃいけない何の義務もない。 書こうという意志は、まったく誰に縛られたものでもない。 でも、書くことは楽しく、この日記は、いつの間にか私の生活の一部になっている。 「今日も、疲れたなあ。ムカつくこともあったし・・・。 まあ、日記でも書くか。 ポンポンポン(キーボードを打つ音)、はい、今日もおしまい。 ちょこっと本でも読んで、さーお休み〜。明日も仕事だぁ」 こんな具合、毎日。 読んでくれる人がいる。素直にうれしい。 「エンピツ」以前に書いていた初期の日記と、今とを比べると、やっぱり今の日記のほうが多少、面白い気がする。 “ほかの誰かが読む”という前提があるから、日記なんて所詮、個人的な意見の垂れ流しではあるけど、ちょっとはわかりやすく、意味不明の書き方はしないようにと、やっぱり自室のノートに書くのとは違う書き方をしている。 自分の文章を上手いとはまだ思えないけれど、もっといい文章が書けるようになりたいと思うなら、何より書き続けることだ。 読んでくれる人というのは、書き続ける動機という点で、すごく支えになる。感想をくれる人なんて、もう神サマみたいだ(笑)。 掲示板に書き込みとか、メールとか、いろいろもらってきたけど、中でもびっくりしたのは 「人生経験豊富な印象。特に男性に対する優しくて寛大な眼差しが」 という感想だなあ。これは相棒・しん氏について書いてることを、指してるんだろうか? そっかー、あたしって寛大なんだ!と調子に乗りかけたけど(こういうメデタイ性格だ。)、 よく考えたら、ナイナイ尽くしでも何も求めない、という、いつの間にかできあがってた二人の暗黙の方針が私たちの長続きのミソ。 しんちゃんという人は、それこそ誰に対しても、寛大といえばものすごく寛大なのだった・・・・。 私が感想を書いてた本とか映画とかを、読んでみたよ、見てみたよ、読みたくなったよ、という人が時々いるのもとてもうれしい。 こんな日記が、読んでいる人にとって、時々でも何か小さな扉になるなんて、すごいことだよなぁと思う。 今後も欲求の続く限り、てくてく書く道を歩きます。 |
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