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2017年07月06日(木)

九州北部の豪雨大変だ。被害がでませんように。

私は二歳くらいの時に父や母や兄たちと、父が運転するスバル360に乗って、晴天の日にみかん山と呼ばれるところに行ったと思う。

あの時私は幸せな子供だったように思われる。

そんな幸せな子供ばかりではないんだろうな。

父は幸せな家庭を作りたかったと言っていた。僕のお母さんはとても不幸な人だったので、と父は言った。
そんな父親ばかりでもないんだろうな。

しかし、おばあちゃんはそんなに不幸な人だったんだろうか?
父におとうさまはお前が憎くてお小言を言われるわけではないと諭した祖母が祖父を愛していなかったはずはない。息子や夫を愛していた祖母が不幸だったろうか?父が祖母をとても不幸のひとだと思ったのはどうしてかな。
一つには、彼自身は自分のお母さんを介護はほとんどしていなかった。おばあちゃんが
倒れた時も、息子である彼はすぐには飛んで帰れなかったな。
私の母は祖母が気に入ったひとではなかった。
だから私も仮に私の息子がめでたくパートナーを得ても、私がこうであって欲しいというひとではないだろうと思う。
しかし、母は祖母の介護の最後の頃、祖母を我が子のように愛していたと思う。
一つには手伝ってくれる姪があった。
それにきっと私が生まれた時に、祖母は新潟まで母を助けに来てくれたんだ。部屋の暖房を効かせすぎて私の顔が真赤になったにしても、母が休み辛かったにしても、祖母は
決して母を虐めにきたわけではなかったと思う。きっと私が生まれたことを喜んでくれたんだと思う。慣れないところでそんなにスムーズには事は進まない。母が爆発したか何かで、祖母はあまり関われなくなったのではないか?だから九州に越しても、
家に新聞も電話もなくて、だから、父の母が倒れるまでなかなか連絡も通じなくなったんだろうな。
もう一つには、あの時母が亡くなった後で、私が実家に戻されて落ち込んでいた時だったからかな?
だから父は、自分は幸せな家庭を築けなかった、という悔恨を感じて祖母を思い出していたのかもしれない。二十歳の頃終戦だから、きっと戦争中に沢山積もっていた理不尽を、自由民主主義の精神で、もう両親のいう事は聴けなくなっていたのだろう。それでなくても小学校で家出したわけだから、結構聞かん坊だったんだろうな。母親が気にいるようなお高く止まった才媛はぴんと来なくて、喧嘩の言葉を沢山知っていた母のような少女が好きだったんだろうな。

私は経済制裁は好きじゃない。
どんな制裁も好きではない。
だが私はどうするつもりなのだろう?
私は傷を負ったままなのだろうか?
イエス様は私達の傷を個性として愛されると渡辺和子さんは言われた。
わんのお墓は父が家を立て直した時に無くなった。
祖父の墓も無くなった。モーツァルトのも不明だから?
ミイはどこへ行ったんだろう?愛護協会に連れていかれた。
出戻ってそのままでよかったのに。ミイのせいで傷ついたわけではなかったんだから。
なぜミイが連れていかれたんだろう。私はミイを愛護協会へ連れていってくれなんて
頼んでいない。

でも、私の飼い犬が自分の手に余った時に、愛護協会に頼むと叫んだことはある。


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