2003年10月29日(水)
いつか来た道

また卒業論文執筆合宿の季節が来た。

この道はいつか来た道
ああ、そうだよ
アカシアの花が咲いてる

論文を書くということは、「この道」を見つけることだ。そして、いつか来た道をもう一度訪れ、はじめて通った時もたしかに見ていながら気づくことのなかった「アカシアの花」を見つけることだ。それが論文作法のすべてだ。

私たちはあまりにもいろいろな道を歩き、走る。だから無数の道の中から「この道」を見つけ出すのは奇跡ともいえる。にも拘らず「この道」を通れば紛うことなく「この道」と解る。それが私たちの感受性の恩恵だ、経験の力だ。計らうのではなく、自ずから「この道」はやって来る。私たちが行くというより、向うからやって来る。そして、その時、ああ、そうだ、と気づく。

しかし、それでも「この道」の「この」の在処を「アカシアの花」に見出すのは稀な出来事だ。「この」はまるでデジャ・ヴューのように、あるいは、プンクトゥムのように、秘かに、かつ、歴然と現れて、消える。この瞬間を逃してしまうと、おそらく、もう二度と「この」を掴むことはできないだろう。そう思われるほど瞬時の出逢いなのだ。だから、「この」を「アカシアの花」に結びつける時に茫然としていてはならない。また、躊躇も禁物だ。一気呵成にことをなす俊敏さが要求される。

それにしても、シェイクスピア作品を論じるということは何と楽しいことだろう。この知的作業によって無数の先人たちとの文学芸術議論の輪に交ることができる。その思いなしには論文はあり得ない。もしその思いを欠くなら、作品に注ぎ込んだ分析や解釈はただの事務的作業に終る。知的快楽。それこそが論を進める原動力だ。

去年も川場へ出掛けて行った。そして、今年も到頭、川場に行く日が近づいて来た。川場は何ひとつ変わっていないかも知れないが、私たちにとって川場はもうもとの川場ではない。決定的に差異を示すもの、それは時の流れだ。時は目の前を通りすぎながらも、決して「目の前」には現れない。時は「現前」に現れずに現前する奇跡を刻々と行っている。

そのことに気づくか、否か。それがすべてであり、たったそれだけのことなのだ。要するに、この道はいつか来た道なのだ。


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