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●「真光の業」が世界救世教から学んだものだったなんて、ありがたみが失せてしまう
たとえば、手かざしといえば、こうした教団の歩みに中には、手かざしによる浄霊で有名な世界救世教の名は登場してこない。崇教真光とすれば、それは同じ手かざしでもそれとは別のものなのだということかもしれないが、「実は岡田光玉初代教え主の足跡の中で、世界救世教の存在が意図的に隠されている」というのは、教団の内情に詳しい元会員である。
「つまり岡田光玉教え主は、もともと戦後浦和市を中心とした埼玉県下で世界救世教和光布教所長をしていたことには、一切触れられていないのです」
なんのことはない。崇教真光教がなぜ、「真光の業」と呼ぶ手かざしを売り物にしているかといえば、要するに世界救世教の手かざしによる浄霊がヒントになっていたわけである。
そのことを伏せているについては、当然それなりの訳があろう。それが「真光の業」は神から人類が賜った霊光であり、キリスト教の聖書にある「神は光なり」との教説を証明する霊術や、仏教でいう「無量光」と同じというのである。そして宇宙創造の唯一絶対神たる「主の神」は、それまではこの「真光の業」を大聖者であるイエスや釈迦にしか許していなかった。それを岡田光玉初代教え主は許されたというわけである。
ところが、自らをイエスや釈迦と同列に引き立てる道具ともいうべき「真光の業」が世界救世教から学んだというのでは、ありがた味が失せてしまうからだ。
新興宗教の正体 P44、45 早川和廣 あっぷる出版社 1987.2.2
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