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1975年12月28日(日) a

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岡田光玉氏の霊的系譜

注) 「>」で始まる文章は、N氏に対する質問等や他の書き込みからの引用を示します。

八幡博堂(顕正)
内田良平の弟子で大日本生産党の幹部だった人物。 大正期から始めは東京の神保町や神楽坂を舞台に左翼政治活動をしていたが、その後左翼運動から右翼に転向し、内田良平の大日本生産党に発展解消されその幹部として活動していた。

昭和十一年以後、持病の気管支喘息が発病し十年の間病苦に苛まれるが、戦後の昭和二十一年に生長の家に入信して宗教活動に入った。昭和二十三年夏に知り合いから誘われて、始めて心霊研究団体「千鳥会」の交霊会に参加した事をきっかけとして、千鳥会の組み手になって自宅の藤沢で支部をやっていた。

昭和二十七年「千鳥会」は宗教法人「まことの道」に改称したが、昭和三十年の「まことの道」が事実上解散後、元千鳥会の医学博士、塩谷信男(信和)、陸軍軍人、大久保弘一(智明)、映画製作者、中田武雄(華風)と共に山梨県甲府で「まことの道宗像道場」(まことの道協会)(聖和教会)を舞台に、独自の活動を始めている。 後に、この軍人グループから薫陶を受けたのが、S界真光文明教団の教え主、岡田光玉や、富士宮瓊光(ふじのみやたまみつ)である。

昭和三十五年六月、岡田光玉の審神をしたのは、中田華風と言われている。

八幡博堂に付いて記載が有りました。
http://www2.justnet.ne.jp/~jingu/mediaron-daitojuku.htm

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