浅間日記

2006年05月13日(土) politeであること

新聞に、辻井喬氏の連載。

ここ半世紀ほどわが国に失われていたのは共同体だったのではないか、
というところから、氏の思索が始まる。

村落共同体などの地域共同体は、戦時中、軍閥と財閥の連合政府により権力の末端組織として徹底的に利用されてしまった。

その結果、敗戦後の社会に、共同体に対する忌避の感情がみなぎってしまったのは当然である、と氏は分析する。

共同体は個の成立を妨げ、社会を前近代的な状態に引き留めてしまう現況と長らく考えられてきた。しかし、そろそろ個人の自立を妨げない共同体、共同意識の可能性について、冷静に考える時期が来たのではないか、と結んでいる。以下抜粋する。

「この共棲思想の根本は、自分とは違った価値観をもった者の存在を認める、彼らにも存在し活動する権利があると承認するという態度、あるいは思想、哲学ではないか」



信州のこの辺りでは、まだ「自立を妨げる共同体意識」が健在で、
私をしばしば困惑させる。そんな時、だから田舎は嫌だな、と意地悪く思う。

一方で辻井氏の言うように、共に生きている、理解しあう、分かち合う、という感覚は、
現代社会に必要な幸福感として、迎え入れられるだろう、という気もする。

という訳で、すれすれの所で熟考し、辻井氏の主旨を受け入れる。



礼儀や誠意というのは、共に生きるためにある。

人との距離感が、もう一生会わないし関係ないし、などという捨て鉢のものであれば、
礼儀は不要だし、ゆっくりと時間をかけて人を理解することもない。
必要なのは瞬間的に−金や見た目で−関係の優劣だけを決める、マントリング行為だけである。

礼儀や誠意は、人間ならではの所産である。思いやりも同様である。
私達が望むのは、動物の群れか、それとも人間の社会か。



地方のコミュニティというのは、「一生会わない」などという距離感を作ることが難しい。主要都市ならともかく、町村レベルではまず不可能である。

そのことは、politeであろうとする人と、too familiarに陥る人の両方を創りだす。

幸福も不幸もその中にあるのだが、しかし、マントリング行為よりはましかもしれない。

2005年05月13日(金) どこまで東京
2004年05月13日(木) 資質と備えの話


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