浅間日記

2004年08月05日(木) 合体ロボットの歴史

夏の休暇の準備を整える。

Hと簡単な昼食を済ませながら、サッカーの話題。
いっそ日本のサポーターは、よい機会であるから、
中国チームを応援して「正しい中国チームの応援の仕方」を
教えてあげたらどうだろうか、
と、どうも間の抜けた会話。



日本の山国では、
中国からみればせいぜい猫の額ぐらいの関ヶ原に集まるのが
「天下分け目の決戦」だったと言われている。
「峠一つ越えれば言葉も文化も違う他国」の感覚の下で、人々が
万障繰り合わせて、山川越えて参集するのは大変な作業なんである。

現代社会ではそういう困難さはなくなってしまったが、しかし
「人が一同に会して群集となることは、(あるいはその群集から外れることは)、その個々人に、何かの目的やモチベーションがあるはずだ」
というのが、習慣的に日本の判断常識となっている。

全共闘とか、宗教活動とか自然保護運動でも何でもよいが、
その本来の目的だけでなく、異性にモテるとかお金が儲かるだとか、
何か個体としての自分のプラスになるものがあるはずなのである。

しかし、私が思うに、中国という国は、違うのだと思う。
とにかく集まって群衆になっておいて、その後何をするか考えよう、
自分に徳か損かは、さらに後で考えよう、という、
日本のそれとは全く逆のプロセスになっている気がする。

まるで子どものアニメ番組に出てくる合体するロボットのように、
簡単に何万人、何十万人による人間の集合体を成立させ、
別の人格やうねりを作り出すことができる。

長い歴史の中で、群集になることに慣れているのだ。
これは、民度が低いという一連の出来事に対する批判とは
別のところにある、中国という国の、底力である。

そこには日本人には理解できない群集心理や
群集としての生態というのが、きっとあるのだと、私は推測する。

そこを上手く弄れる「群集使い」のような部分が、
彼の国の指導者には資質として求められるのだろう。


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