Dynamite徒然草
Dynamite徒然草

2022年07月31日(日) 理想と目標。

私の母方の祖父は山で不慮の事故にあい頭部に大怪我を負った。
以降老後は介護が必要な状態となった。
そしてこれを機に祖父母は不便な佐賀の田舎から、息子や娘たち家族の住む福岡市内に居を移した。
介護は祖母や当時まだ未婚だった息子たちが受け持っていたが、仕事のある日中は祖母ひとりが対応する。
はじめはトイレや食事等は介助があればできていたし、歩行も可能だったが、ある日事件が起きる。

徘徊だ。

頭部の外傷だけに記憶が混乱してか「ここはどこか」「家に帰る」と訴え始めたのだ。
祖母はそのたびに現状を説明していたが、混乱している祖父は「家に帰る」と執拗に訴えては祖母を困らせていた。
そして祖母が目を離したすきに家を出ていってしまった。

浴衣姿で徘徊する祖父は、街中では目立ったことだろう。捜索開始後まもなく見つかり、無事に連れ帰られた。

だがまた同じようなことが起きる可能性がある。
祖母たちは玄関に鍵をかけ、なおかつつっかい棒(心張り棒)を設置した。

そこから祖父は一気に寝たきり状態となり、私たちは二度と起き上がった姿を見ることはなかった。
祖父はベッドでただいつもニコニコして横たわっている。
祖母もいつもニコニコして、楽のみでお茶を飲ませたり食事をさせたり薬を飲ませたり。体を拭いたりおむつをかえたり浴衣を着替えさせたりしていた。

何か話しかけると「うんうん」と聞いている。
祖母は他愛もない話をしている。

やがて衰弱した祖父は自宅で静かに息を引き取った。

みんな穏やかに見送った。
みんな花畑にでもいるような、それは穏やかなやさしい顔で見送った。
「じいちゃん煙になって天国にいきよっちゃねえ」と、当時はまだ火葬場に煙突がある頃だったので、たなびく煙を叔父さんたちや従姉妹たちと見送った。

これが私の「はじめてのひとの死と、そうしき」だった。

祖母が一人になってから、私はよく家へ遊びに行った。
じいちゃんがいた頃とは違う全く違う祖母だった。
買い物に連れて行ってくれたり、映画館へ連れていってくれたり、ケタケタ笑って元気で行動的でおちゃめで新しいもの好きのばあちゃんになっていた。
変わらないのは、いつもニコニコしていること。
ケタケタ笑うとこはうちの母に似てるなと思ったかな。

やがて祖母はぜんそくを患う。トレードマークのノーシンだけでなく、祖母の薬箱は病院から貰ってくる薬でいつもパンパンだった。
やがて叔父夫婦と同居することになった祖母は、いちばん小さな孫の世話ができると喜んで楽しそうに転居していった。同居のお嫁さんはとても優しく、祖母とも仲良しだった。

ある日の深夜、祖母はぜんそくの発作を起こしたため、叔父叔母は近くのかかりつけ医に連絡した。医師はすぐに身内を呼ぶようにと指示し、同じ市内に住んでたほとんどの身内はみなまもなく駆けつけた。皆が静かに看取る中、私の母だけが「おふくろっーー!」と泣き崩れていたのには驚いた。

じいちゃんは静かに看取ったのに、ばあちゃんのときは泣き崩れるんだ。
そこに何か違いのようなものがあるのだろうか、などと考えていた。

私はその夜、ひとり祖母の寝ずの番をひきうけた。
話すことがたくさんあったので、線香が消えないように気を配りながら、横たわる祖母と思い出話をし続けた。もちろん心の中で。

私はきっとそのときニコニコしていたと思う。
楽しい思い出しかないから、寝ずの番は嬉しかった。
たくさんのありがとうばかりが朝まで続いた。

ああ、思い出がある人はこうやって送るものなのかなと感じていた。


さて、
そうでない別れが自分の身に起きたことを知ったとき、私以外の人たちは驚愕し私に同情し心から心配してくれた。
けれどなぜだろう。
私は穏やかだった。
その死を知らされず葬儀にも呼ばれず既に納骨された父のことを従妹から聞いたとき、そうなのかとただ静かに聞けたし穏やかでいられた。

私は知っている。
私の父は誰を恨むことも責めることも望んでいないと。

役所で調べたり身内から聞き出して、命日と墓地等を知ることができた。
私は土日と命日や盆を避け、墓地を尋ねては父がこよなく愛した孫のことを報告する。
息子が戻ってくれば必ず墓地まで足を運ぶ。

我が家の仏壇に父の位牌はないが勝手に線香をあげ思いを乗せる。
この後母が亡くなっても私には知らせてこないだろうことも承知している。

それでも私は恨まないし泣かないし悔やむこともないだろう。
私は祖父の葬儀のときまわりがしていたように、静かに穏やかに送りたい。
そして祖母のときのようにただ感謝とありがとうだけを伝え続けて過ごしたい。

私は夫もそのうち見送るだろう。
まだ死ぬ死ぬ詐欺のくせして「さんざん迷惑かけて申し訳ない」とか「お前がいてくれて幸せだ」とかそれはもう生前懺悔に余念がない彼は見ていて面白い。

ときどき謎のダンスを踊り出して笑わせてくるんだが、転倒が怖いからやめていただきたい。そのダンスの記憶だけ残りそうでヤバい。思い出すたびに吹き出しそうになる。

ワイドショーとニュース禁止は恐ろしい程記憶に残ったらしく見なくなった。とてもえらい。褒めて差し上げる。

「そんなこと言うけど絶対さみしくなるんじゃないの?」と誰がか言った。

断言しよう。
それはない。

私はいつも自分ができる限りのことを最善を尽くし、よく考え、自分の限界まで全てやりきっているので、それはきっとない。
祖母がいつもニコニコと穏やかにお世話をしているのを見ていたので、これに「いまできる限りの最善を尽くす」をプラスすることで、やりきった感を常にマックスにしているのだ。いつ終わりがきてもいいように。

祖父を見送ったあとの、あの新しいもの好きの好奇心旺盛で行動力のある、いつもニコニコと楽しそうだった祖母のようでありたい。

「私の老後はねー、ばあちゃんが目標やったとよー」と話したい。
「うちのじいちゃんと違ごーてあんたの旦那さんな大変かったろーに、まあよーがんばったねー、えらかよー」という声がしそうで笑える。

よし、明日も頑張ろう。
ロンズデーライトの如き強固な心でニコニコとしていよう。←ワイドショーにチャンネル変えたら秒で大魔神なのは忘れるなよ?ああん?←そこはたとえ後期高齢者相手でも譲れないかな☆(*ノ>ᴗ<)テヘッ


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書いてる人 : Dynamiteおかん