クリスマスも無事に終わりました
息子のイブは所属する剣道クラブのイベントで楽しみ その後、家族でいきつけの寿司屋でまわらない寿司を堪能 (こちとら大出費) 翌日は塾の冬期講習があるのでしっかり勉強したのち 日帰り温泉とまたもや寿司を堪能 (こちとらまたまた大出費)
翌日も日帰り温泉を堪能したのち 「そーいやまだクリスマスプレゼントを貰ってない」とゴネるので ホームセンターに連れていき 欲しい物を持ってくるように言うと
二ノ国とかいうゲームソフトのデカい箱を持ってくる
なんだこりゃ?
「いーじゃん買いたいんだから。それにとーちゃん好きな物買っていいっていったもんっ」
見れば巨大なコクゾウムシのようなものと少年が冒険とかするお定まりRPG
まーたそんなんかーい。
まあ、いいのです そのコクゾウムシと冒険ゲームもきっと 遠い遠い昔 幼児期の頃の私にとっての 「おさんぽダッキー」や「お天気みどりちゃん」ぐらい 息子にとっては欲しくてたまらないものなのでしょうて
.....。
私が子供の頃のクリスマスは それはそれは残念なものでした
家に小さな子供の背丈くらいあるクリスマスツリーはありましたが それは母が全自動洗濯機を買ったときについてきたオマケ
出して飾ってワクワクしてみても 我が家にサンタなど来るわけもなく
みんな「枕元に靴下置いておくんだー。靴下の中には欲しい物書いて入れて置くんだよ」などと楽しそうに話していますが 私は知っているのです サンタなどうちみたいな余裕のない家には来やしないことを
全自動洗濯機やピアノは買っても 子供が喜ぶプレゼントなど絶対両親は買ってくれないことも また 私がねだったとしてもそれは所詮無駄なことであることも 知っているのでねだりはしませんでした
が ある年のイブ 私はふと
もしかしたら枕元に靴下をおいていたら こっそり父母のいずれかが それに気がついて何かプレゼントしてくれるのではないか
世間でこれだけ子供に「子供はこの日、クリスマスプレゼントを心待ちにしている」という情報が氾濫しているわけであるからして もしかしたら安い物でも、菓子のひとつでも 靴下にそっと入れてくれるのではないか
などと 自分らしくないことをうっかり期待してしまい ベッドの端に 目立つように 靴下を下げてみたのでありました
が 翌朝
その中には当然何も入っているわけもなく
私は自分の行為を顧みて猛省しました
うちの親にそんな心の余裕など あるわけがないのに 何を子供らしく期待などしてましまったのだろう
情けない
幼稚園児じゃあるまいし 小学生だのに 何をそんな夢みたいなことを考えているんだ私は
毎日忙しい親に 三度三度飯を食わせてもらっていて それ以上一体全体何を期待しているんだ
無駄な期待などは すればするだけ 抱けば抱くだけ虚しくなるのは自分だというのに 何度経験すればわかるというんだろうか
で 私はそれきり自分の中でクリスマスを封印したのでありました
だけど 一度だけ 母がスーパーで お菓子の入った赤いブーツを買ってくれたことがあり そのときは ああ 人生、たまにはサプライズもあるんだなと 素直に嬉しく感じたものでしたが ブーツをあけてみて
「これは購入額に見合わぬ内容である」 と知ったときは 菓子屋のクリスマス商戦にひっかかってしまった愚かしさを 残念に思ったりしたものでした
それ以降 私はお菓子のブーツに対しても喜ぶことのできない すっかり身も心も冷めた メルヘンとはほど遠い児童となったわけでございます
物語や童話を嫌悪し遠ざかりました 読む本は全てノンフィクション、または自伝、歴史本、辞典、図鑑
事実だけが知りたい子供となったのです
サンタクロースが存在するなどと非科学的なことを信じるような低学年児童であるのは恥であると思うことで プレゼントとは縁のない境遇である自分を肯定してきたわけです
私の歪みの礎となっているクリスマスですが 息子はそれなりに欲しい物を手に入れたり楽しく過ごしたりしているので 羨ましくも思います
だけど 私のような経験も 精神的「耐性」をつける意味においては 悪いものでもないように感じてます
人は人 自分は自分
人のうちにはサンタがきても 私のうちにはサンタはこない
だからといっていちいち妬んだり羨ましがったり恨んだり凹んだりする必要はない サンタだってちょっとひっくりかえせばサタンになるわけだ そんな未確認のものは寝入っている私の枕元に近寄らなくとも良い
欲しい物があればサンタなどに頼まずとも自分が大人になったら働いて買えば良いだけのことだ
自分の願いを叶えることができるのは自分だけなのだから。
私がクリスマスに学んだことはそれ。
息子は容易く手に入れるけれど きっと大人になって苦労するだけだ
サンタが来たりて苦労する。
ほほほ。
まあ、わざわざ私のように歪んだ大人になることもないかw
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