大人と子供を分ける要素として「スパン」を考える。 つまり、どれだけの単位で先を見る事が出来るか、である。 それはミクロな場面でもマクロな場面でも通用する。
まず、子供には先を見る能力がない。 それは性格だけでなく、経験が足りない事も影響する。 つまり、どんなに先を見ようとしても、経験や知識の不足から自分の未来を見る事が出来ない人間を子供と呼ぶのが妥当ではないだろうか。 先を見る、未来の自分を予測する、という行為はやろうとして出来る事ではない。 予測力という能力は養って初めて、その力を付ける事が出来ると考える。 例えば普通の高校生が10年後を語ることは単なる空想に過ぎない。 10数年しか生きていない彼らにとって、10年のスパンで将来設計する事は未知の領域であり、未知である以上は将来設計をしたところで空想の域を脱しない。 彼らにとってのリアルはせいぜい、高校卒業後の進路までであるから、その事について真剣に悩むべきなのである。
しかし、世の中には明確な目標を持った人間がいる。 僕が最近、触れ合ってきた人の中では「絵」で飯を食っていきたいという人がいる。 僕自身も「文」で飯を食っていきたいと思い始めている。 そういう人間は「一生」というスパンで物事を考えなければならない。 少なくとも、10年単位で物事を考える必要がある。
例えば、僕の場合は「文」で一生を過ごすためには、あと10年が勝負であると考える。 父親はすでに60才前。 あと10年もすれば働けなくなるか、あるいは他界してしまうかもしれない。 そうすると僕は帰る場所を失う。 失敗すれば実家に帰ればいい。という保険があるのは今だけだ。 保険が切れ、失敗したときには、生きるために働かなければならない。 僕には資格も職務経歴もないから、職を選ぶ事は出来ないだろう。 だから、30歳を超えるまで、少なくとも10年後の自分を考えて今から動かなければならない気がする。 でなければ、自分の目標は果たされないままに終わる。
だから、明確な目標を持ったものは長いスパンで物事を考えなければならないと思う。 それをしないのは「甘え」だと考える。 「今」を大切にするのは当然だ。 しかし、その「今」やるべき事の中に長いスパンを持つ事も含まれている。
簡単にまとめると、 長いスパンを持つ=目標へ到る道程を明確にすること。 という事である。 それをしないのは夢見がちなお子様だけで十分です。
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