治療(獅子鷲)


 Past : Will 2006年05月02日(火) 



愛されることは幸福ではない。
愛することこそ幸福だ。

(ヘルマン・ヘッセ)




目が覚めて、時計が止まっていることに気が付いた。
電池も取り替えてそれほど時が経過しているわけでもないのに、針は動く気配がない。
ちくちくと、この部屋の静けさの邪魔にはならない程度に進んでいた時計が、今は停止している。

─── 壊れた。

その言葉の響きと、それが指し示す事実が、どうしようもなく厭だった。




岳がインターホンを鳴らした時に、応答する声は何もなかった。

「あれ」

昨日の夜電話した時は、家にいるって云ってたのに。
玄関先で岳は独りごちる。

予想される選択肢は3つ。
1.まだ眠っていて気付かない。
2.岳が来るという事実を忘れて、出かけてしまった。
3.気付いてはいるが出られない。

まぁ、2ということは無いだろう。たぶん。
1と3は……十分に有り得る。
 能天気お気楽なヤツであるが、何かが気になりだしたら時間を気にせずに考察にかかったり、本を読み終えるまでベッドに入らないなどということも、日常茶飯事だったり。
 睡眠はきちんととらないと、と保護者のようなことを考えつつも、時折は自分が睡眠不足の原因となっていたりもするので、何も云えない。
 ああそんなことはどうでも良いんだ、と首を一度横に振る岳は、走が応答しないと云う事実に少し、動揺しているようである。と、動揺している自分に気づいて、きゅっと動いた心にも、気づいて。
なんだ俺、結構走に逢いたかったんだなぁと再確認をする。

そして、その手に取ったのは、鈍い銀色をしている鍵。
ちゃり、と差し込んで回せば当たり前に音を立てて鍵が開く。
靴を脱いできちんと揃えて、その時に走の靴がちゃんとそこにあることを確認する。

「走?」
 眠ってるか、と云いながら部屋に入って、岳はうわ、と驚きの声を微かに漏らす。
 こげ茶色のフローリングに合わせ、アンティーク物のキャビネットや、コンソールデスク、航海用箪笥。エキゾチックなファブリック。見慣れた走の部屋。そして、彼の一番のお気に入りであるらしい、船室用のライティングデスク。
走はそこに向かって、何かを一心不乱にしている。
もう入ってきた自分になど、全く気付かないほどに。
そして、机の上には螺旋や発条などの部品が散乱していて。

「走」
 
もう一度岳は声を掛ける。
…気付かない。

「走」

今度は、声を掛けながらそっと彼の肩を叩く。
叩くと云うよりは、触れると云った方が正しいくらいの強さだったが。
これでも気付かなかったらどうすれば良いだろう、と思案を巡らしたところで、走が振り返った。

「岳」
 
何で此処に、とでも云いたげな訝しげな視線を一度岳に遣って、それからあ、と僅かにバツの悪そうな顔をする。

「ごめん」
 もちろん、岳が来ることを忘れていたわけ、ではない、んだけど…と途切れがちに言葉を紡ぎながら、その声は段々と小さくなっていく。

「うん、俺もそれは理解ってる」
でも、それ、何やってるんだ?
 
そう、岳が机の上を見遣りながら問えば、これは、と走が答える。

「岳から貰った時計が、朝起きた時に動かなくなっているのに気付いて」

電池の交換はしたばかりだし、壊れた、と思ったんだ。
云い訳をしている、という思いがあるのか、その言辞にはまだいつものような滑らかさは戻らない。

「それで、直そうとしてたってワケか」

で、途中で仕組みの方が気になって、分解したってトコか?
そう苦笑混じりに訊いてやれば、ん、と頷く。

「好きなんだよね。こういうの。小さい頃から、ラジオとかも全部分解して、元に戻したりしてた」

だから必要な道具や部品は家にあったし、やり方も大体は理解ってたし。
あの頃は細かな仕組みまでは理解らなかったから、と云って、もう一度、気づかなくてごめんね、と走は謝る。

「や、全然構わねぇけど」

俺にだってそう云うのが楽しいって気持ちくらいはあるし。
ほら、専門じゃねぇけど、機体の整備とかもするからな。
と云ってやれば、そう?と走が首を傾げて岳を見上げる。
そんな仕草が、無自覚に可愛いと思って、そうだよ、と表情を緩めながら岳は頷く。

「でも、何処がおかしかったかはもうわかったし、もうすぐ直せるよ!」

 岳が笑ったのが、自分が出来ていないことに対してだと勘違いしたらしく、不意にムキになってそんなことを走が云い出す。
 そして、此処の歯車の噛み合せがおかしかったのが原因だから……と机の上に暫し齧り付いて、やがて直ったぁ、と満足げな声がする。

「本当?」
「うん」

 ほら、と云うように差し出された時計は、確かに自分が走にあげた時のように、きちんと規則正しい動きをしている。

「凄いな」

 流石、お医者さん、と軽く走の髪を撫でてやり。
 
 「道具、片付けてくるね」
 と、未だ散らばったままの歯車などの部品を箱に入れて、部屋を出て行った。残された岳は、何とはなしに今し方直ったばかりの時計を手にとって眺めてみる。

「一度分解して、また組み立て直すっていうのはそんなに難しいことじゃねぇとは思うけど」

 でも故障箇所を的確に探し出して直すのは、やっぱり誰でも出来るわけじゃないよな、と苦笑する。
 やっぱり、あいつって…。

「岳」

 戻ってきた走が名を呼ぶのに、穏やかに答えて。

「本当に、岳が来るのを忘れてたワケじゃないんだよ」
「それは、理解ってるって」

 何を今更、と岳が云えば、そうじゃないと走が首を横に振る。

 ただ、これが壊れた、と認識した瞬間、どうしても直さなきゃって思っちゃったんだよね。
 折角岳から貰ったものなのに。と云う走の顔には、僅かに朱が差している。

「ああ」
直してくれて、サンキュ。
そう云いながら、岳は不意打ちのように触れるだけのキスをする。

すぐに離れた唇に、走が驚いたように目を丸くして、でも、すぐに柔らかく微笑んで。
ふぅ、と息を吐いて岳に凭れ掛かる。

「どうした?」
「細かい作業、し過ぎ」
目が疲れた、と呟く走に、岳は笑う。

「少し休憩した後、散歩にでも行くか?」
 
その提案に、そうしようと走は岳に凭れて目を閉じたまま頷いて。
ごろりと二人してベッドに寝転がる。
会話をせずとも満たされた部屋の中には、こちこちと、規則的な時計の音だけが聞こえていた。


---------------------------------------------

時計が壊れたよ!でも直ったよ!記念。

獣医はとっても凝り性です。
鷲ちゃんは時々、犬属性の獣医をみて、可愛いなぁと思ってしまったりすることもあるようです。
鷲ちゃんも獣医大好きだよ!(病)
そしてそんなときに獣医は甘えまくればいいよ。



Index