Sun Set Days
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2004年07月23日(金) 話し続けた二晩+この木はどんな色を作るの?

 一昨日の夜には、本社からきた先輩と一緒に食事に出掛けてきた。
 店舗で新しくはじめる仕組みの打ち合わせのためにやってきた先輩は、僕が新入社員だったときに一緒の店舗で働いていた人で、それ以降も何度か会ってはいたのだけれど、それでも久しぶりではあった。そして、久し振りだからということで一緒にご飯を食べに行く約束になっていた。
 その先輩はいま僕がいる町で大学時代を過ごしており、当時よく訪れていたステーキ屋に行きたいと言った。僕は助手席に先輩を乗せて、ナビを使って目的の店を目指した。ある中学校の近くということだったので、その中学校を目的地にして。

 夜の細い道路を進み、ようやくナビが目的地周辺と伝える。先輩が「あ。あそこだ」と指をさす。電灯がほとんどない薄暗い路地にその店の明かりだけが淡く輝き、まるで田舎の山道の途中にある宿屋のようだった。
 そこは随分と小さな、けれども混み合った店で、店の前にある数台分の駐車場も半分ほどが埋まっていた。先輩が言うには「10年前と何も変わっていない」とのことだった。
 内装も、メニューさえも10年前と変わっていない。マスターも同じだよ。店内を見回した先輩はなんだか随分と懐かしがっているようで、メニューをどれもおすすめだよと言いながら見せてくれたりした。そして僕らはステーキを食べながら(ご飯はかなり大盛りだった。学生だった先輩がよく訪れていたのにも納得ができる)、いろいろな話をした。会社の話、仕事の話、昔の話、昔一緒に働いていた人の近況……たくさんの話はあっという間に時間が過ぎて、気がつくと店には僕らだけしか客が残っていなかった。
 先輩はおごってくれた。かつてよくおごってくれていたように。店を出るときに、先輩に「ごちそうさまでした」と言う。最近は先輩にならって若いメンバーにおごったりもしているんですよとか思いながら。

 帰りは駅の近くのホテルまで送った。先輩は窓から街並みを眺めながら、「この辺は変わってないな」と言った。かつて暮らした場所を10年後に再び訪れる。そういうのって、どういう気持ちになるのだろうと思う。懐かしさと、感傷と、思い込みとは異なっている現実と、きっといろいろなものを見ることができるのだと思う。そして、僕も久しぶりに見てみたいなと思わされた。自分が、かつて暮らしていた場所を。


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 昨日の夜は、後輩を部屋に呼んだ。ドライブスルーで買ったモスバーガーを食べてから、仕事の数表の見方をゆっくりと教えて、それからいろいろな世間話をした。前に店で数表の見方を教えるのが途中になっていて、その続きをする約束になっていたのだ。それで、ご飯でも食べながら教えようと思っていたのだけれど、結構熱く語ってしまいそうだったので部屋に来てもらうことにした。ファミリーレストランで熱く語るのはちょっと恥ずかしいし。
 部屋でゆっくりと教えるというのは個人的にはものすごく新鮮だった。職場で教えようとすると、途中で呼ばれたり、他にやることがあったりなど、結構慌しいしまとまった時間を取ることができない。いわゆる重要じゃないけれど緊急の仕事という差込の仕事に忙殺されてしまうのだ。けれども、仕事が終わった後に、ゆっくりと面と向かって質問をしたりされながら説明できるというのは随分と理解の質が異なることのような気がした。少なくとも、昨日教えた後輩は、ニュアンス的な部分も含めて、僕が見ているやり方のようなものを、ある程度以上吸収してくれたと思う。もちろん、一回では難しい部分もあるだろうから、それはまた今度は現場で機会を見て繰り返し伝えていけばいいのだし。
 その後もいろいろな話をして、気がつくと1時を回っていた。興味深い話をいろいろと聞くこともできた。明るい後輩なのだけれど、様々なエピソードは楽しかったし、感心させられた。学生時代に大変だけれどやりがいのあることをやってきていて、そういう経験がしっかりとした地力に繋がっているのだなと思わされた。
 教えている時間も含めて、なんだかんだで4時間以上話していた。そんなふうに長い時間をちゃんと話したのは久しぶりで、ちゃんと集中して、相手のほうを見て話を聞いて、言葉を返すことは大切なことなのだとあらためて実感させられた。
 ちゃんと集中して、コミュニケーションをすること。簡単そうで、意外とそういったことができていなかったりするような気がする。もちろん、普段から人の話は聞いているし、言葉を返してはいるのだけれど、それでもやっぱりコミュニケーションの密度のようなものはこの2日間程濃くはなかったような気がする。もちろん、常に密度を濃くということが現実的に難しいということもわかる。けれども、意識はしていないければならないのだとは思わされた。ちゃんと話を聞くこと。そして言葉を返すこと。コミュニケーションをとること。
 それは簡単なようでいて、なかなか難しいことなのだなと思う。
 けれども、やっぱり大切なことではあって。


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 今日は休日で、朝10時台の『スパイダーマン2』を観てきた。1よりずっとよいと評判の続編だ。
 感想としては、面白かったけれど期待しすぎてしまっていたというところ。かなり泣けると聞いていたのでそういう気持ち満々で観ていたのがいけなかったのかもしれない。
 もちろん、アクションは相変わらず派手だし、手に汗握ってしまうようなシーンもたくさんあるのだけれど、印象的な台詞や、主人公の葛藤のようなものもわかるのだけれど、それでもツボにははまらなかった。ストーリー的におそらく3もあるはずなので、それに期待しよう。
 でも、トビー・マクガイアはやっぱりよい俳優だと思う。


 それから、今日は車で山の中にある遊歩道まで出かけ、山道を歩いてきた。
 駐車場に車を止めて、ゆっくりと歩く。参道があって、その両側に饅頭やみやげ物などを売っている小さな店が立ち並んでいる。観音像があるので、それ目当ての観光客がいるのだ。
 せっかくなのだからと、観音像を見る。賽銭箱にお賽銭も入れる。平日の昼過ぎという時間だったためか、ほとんど人の姿がなかった。僕はそこから遊歩道の方に向きを変えててくてくと歩いていたのだけれど、歩いている間、店の人とかチケット係の人以外に、最後まで誰ともすれ違わなかった。不思議なことに、鳥の鳴き声も虫の鳴き声も周囲を包み込むかのようにたくさんするのに、誰の姿もないのだ。
 両側を生い茂る木々に囲まれた遊歩道を歩いて、途中で吊り橋に出る。山の案内図を見ていたときから、絶対に見てみたいし渡ってみたいと思っていたのがその吊り橋だった。案の定そこにも誰の姿もなくて、ちょっとだけ驚いた。大きな吊り橋だったから、途中に観光客がいて写真とかを写しているのではないかと思っていたのだ。
 けれども誰もいなくて、誰もいない吊り橋は渡ったら落ちてしまいそうに見えた。たとえば、それは店で棚に残っている最後の1個の商品だとちょっと買うのを躊躇してしまうことに似ていたかもしれない。吊り橋は誰も渡っていないと、妙に不安をかきたてられてしまう。
 とは言っても、吊り橋なんてそんなに渡った経験があるわけでもないので、浮かれていたのも事実。「すごい」と思いながらさっそく渡ってみた。僕一人だけしか渡っていないのに、軽くみしみしと揺れる音がする。途中、左右のてすりに触れながら下を覗き込んでみた。結構高さがあって、下のほうにも木々が植わっているのが見える。意味もなく、吊り橋を支えている太いロープに手を伸ばして触れてみる。その間も鳥の鳴き声が遠く近く聞こえる。空を見上げると青空に雲が点在していて、随分と暑い。周囲には緑の稜線が続いている。足元にも緑の森が広がっている。誰もいなかったから、結構長い時間吊り橋の上で過ごしていた。吊り橋の上に長い時間立っていたのははじめてだった。ただ、その山に行こうと思ったのはきまぐれだったので、デジタルカメラを持ってきていなかった。それが残念ではあった。写真に撮ったら、印象的な感じの光景だったのに。

 吊り橋を渡って少し歩くと、染色工芸館という建物に出た。せっかくなので中に入ることにする。そこでは、日本染色文化史などの常設展があり、様々な染色品が並んでいた。そして、やっぱりというかどうしてなのか、その常設展の会場にも、他には誰の姿もなかった。館員の人だけで、客はいないのだ。なんだか貸切みたいで不思議な感じだった。
 印象的だったのは、色の名前だった。延喜式の中にある縫殿寮(ぬいどのつかさ)の雑染用度条(ざつせんようどじょう)にある色を再現した布を展示しているコーナーがあったのだけれど、そこにある色につけられた名前が色見本と印象が重なって魅力的だった。
 たとえば、


 浅滅紫(あさきけしむらさき)
 深緋(ふかきあけ)
 深支子(ふかきくちなし)
 次縹(つぎのはなだ)


 とか、あんまり見たことのない色名が並んでいるのだ。浅滅紫とは別に深滅紫(ふかきけしむらさき)という色もちゃんとあって、その違いなんかも見ていると結構新鮮に感じられた。
 館内を出た後は、そのまま染料植物の道という散歩道を歩く。これは名前の通り、染料に使う木を、遊歩道沿いに並べている道だ。
 クヌギや百日紅やヤブデマリなど、様々な木が植えられている。そして、それぞれの木のところに小さな案内板が立てられていて、その木からどんな色が採れるのかを色見本を使って説明しているのだ。たとえばヒサカキなら藤色というように(そして、たいていの木が2色以上の色を作ることができた)。新鮮な道だった。たくさんの種類の木を植えている遊歩道はたくさんあるけれど、この木からはこんな色が生み出されますという色見本がある道はなかなかにないからだ。
 だから歩いていて、何度も立ち止まってしまった。この木はこういう色を作ることができるのかと見入ってしまったのだ。草木染という言葉があるように、木から色を作れることは知ってはいたけれど、そんなふうに木と色をダイレクトに繋げて眺めることはいままでなかった。ただ歩いているだけでも気持ちのよい遊歩道が、そのためにさらに興味深いものとなっていた。
 また、山間にある遊歩道だったから、途中から自分のいる場所が他の山々に囲まれている場所なのだということがよくわかった。天気がよくて、気温も高く、虫の鳴き声は異常なほどだった。ホーホケキョという鳥の鳴き声も聴こえていた。ホーホケキョって聞いたのはあらためて考えてみると、随分と久しぶりのように思えた。

 遊歩道の途中には、温室もあった。2階建ての小さな建物で、冷房の効いた休憩室と、沖縄や南国の木や花を集めた温室があった。
 テーブルと椅子がいくつも並んだ休憩所にも、やっぱり誰の姿もなかった。染料植物の道を歩いているときにも誰もいなかったのだけれど、14時頃前の休憩室にも誰の姿もないのは、さすがに不思議には思えた。
 温室も誰もいなくて、ちょっと警戒しながら引き戸を引いて中に入る。
 イージーなイメージだけれど、南洋植物がたくさん生い茂っている温室って大きな虫なんかがいて、しかも誰もいないとホラー映画に出てくるような大きな蜘蛛なんかが出てきて食べられてしまいそうな気がしてしまうのだ(もちろん、現実にはそんなことはあるはずもないとはわかっていても)。
 温室の中は暑く、不思議な格好をした木々が脈絡もなく並んでいた。ベニヒモノキという木があったのだけれど、どうしたらこういう花が必要になるのだろうと思うような形をしていた。また、モクマオウやガジュマルの木なんかもあって、モクマオウが漢字で書くと木麻黄なのだということや、ガジュマルが榕樹なのだということをはじめて知った。イメージとしては、やっぱりカタカナのイメージなのだけれど。
 そして、染料に関する場所だけあって、そこでもちゃんと色見本はあった。たとえば、琉球藍は水縹色になるとか。

 それから、遊歩道を1時間くらい歩いて、再び吊り橋を渡って、観音像を通り越して駐車場まで戻った。観音像のところには他にも観光客が増えてきていた。吊り橋を渡るときにはやっぱり一人だった。途中、みやげ物屋で饅頭を買った。せっかく来たのだからと思ったのだ。客がいないので僕が店に入るまで携帯メールをやっていた店番のおじさんは、「試食用のおまけです」と言って僕が買ったまんじゅうを1個別に手渡してくれた。「ありがとうございます」と言って、それをもぐもぐと食べながら坂道を降りる。
 駐車場から車を出して、急カーブの山道を越えて部屋を目指した。
 気持ちのよい休日の午後だった。


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 お知らせ

 百日紅の花がちょうど咲いていて、薄い白っぽい紅色がきれいだったのでした。


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