Sun Set Days
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| 2002年05月22日(水) |
森の動物たち�ァ 〕イ靴い�まの見分け方 |
昔々、あるところに1人の旅人がいた。 世界中を旅したいと夢見たその旅人は、灼熱の砂漠を、あるいは凍てつく雪原を、その足で踏破しつづけた。 世界を巡る広大な海も、天高くそびえる山々も、昼なお暗い森さえも、彼にとっては魅力的な宝石のように、ぜひ近づいていきたいものだったのだ。 旅の途中、彼はある山奥の小さな村で歓待を受ける。 その村の長老の娘は美しく、彼の心を一目で惹きつけた。 2人は恋に落ち、毎日のように森の中で愛を語らい、旅人は娘が知らなかった世界について話して聞かせた。 純朴な娘は、男が語る世界の様子に聞き入り、まるで自分がそれらの景色を通り過ぎてきたかのような気になったのだった。
娘は言う。 「私はそうね……くまのことしかわからないわ」 「くま?」 「そうくまよ。私たちの村では、くまは山を一緒に使わせてもらっている相手なのよ。私たち人間と、森の動物たちを束ねるくま。だからくまには2種類いるっていうことを知っているの。ひとつは優しいくまで、もうひとつは悪いくま」 「優しいくま? くまに優しいも悪いもあるのか? はじめてきいたな」 男はそんなふうに言う。様々な場所を旅してきた自分でも、そんなことは知らなかった。 「あるのよ。優しいくまは、私たちを助けてくれるわ」 娘は、信じきったまっすぐな瞳でそう言う。 「見分け方はあるのか?」 「やさしい熊は実は言葉が通じるの。そして、心の底から頼んだことを受け容れてくれるわ。悪いくまには言葉が通じないの。だから、くまを見かけたらこう言うの。『ナリディアの村よりきた』って。そうしたら、動きを止めて話を聞いてくれるわ」 「言葉が通じなかったらどうなる?」 「それは悪いくまだから、私たちは逃げるか、戦うかするのよ。そうしないと襲われてしまうわ」
男はそんな話も、たくさんの時間の中で忘れてしまった。
永い冬が終わり、春が訪れる頃、男は自分の中から宿命的な影のようになくなりはしない旅への希求が再びもたげていることを知る。 娘に向かってたくさんの場所の話を、世界の話をしているうちに、逆にそういう外の世界への憧れが強くなってしまったのだ。 そして男は娘に告げる。 「来週には旅立とうと思っている」 男は慎重に言葉を選んだつもりだった。娘が自分を愛していることは分かっていた。もちろん自分も愛している。しかし、それでも自分の中の旅への強い気持ちを押さえ付けることはできなかったのだ。 娘は男に行かないで欲しいことを懇願した。いつまでもずっと側にいてくれることを心から頼んだ。それでも男の決意は固かった。 ずっと側にいると交わしたはずの約束も、そのときの男の中では随分と薄まったものになってしまっていた。 娘は男を黙って見つめた後、悲しみに耐え切れないかのように、その場から走り去っていってしまった。
男は娘の後姿を見つめながら、自分を納得させるように仕方がないんだと呟いていた。
翌日、男が目覚めると森の中の牢屋にいた。 以前、かつて裏切り者を入れておくためにつくったと話していた牢屋だった。 一瞬、自分の置かれている状況がよくわからない。 牢屋の外側には娘と村人たちがいて、まるである種の動物を見るように男を見つめ、取り囲んでいる。
男を取り囲んでいる村人たちの中で、まず長老が口を開く。
「旅人よ、お主はふみにじってはならぬものをふみにじってしまった。それがどういうことかをよく考えることじゃ」
「お主はお主の一番大切なものを奪われなくてはならない。もう、自由に旅をすることはできないのじゃ」
「一生、この森の中の牢屋で暮らすがよい。食事でも、必要なものはちゃんと与えてやる。ただ、どこにも旅立つことができないだけだ」
同じような顔をした長老たちがそう言う。
そして、男が何を言おうとも村人たちは聞く耳をもたず、そのまま歩き去っていく。娘だけが何度か後ろを振り返りながら、それでも長老たちの後をついていく。 男は1人森の中の牢屋に取り残された。
男は、自分の置かれている境遇をゆっくりと、少しずつ理解しはじめる。 長老たちが言っているのは、もう自分はこの小さな森の中の牢屋から永遠に逃げ出すことができないということだった。
1日2度の食事は娘が持ってきた。男はそのたびに愛の言葉を囁きまたあるときは恫喝し、何度も何度も繰り返し自分をここから出すように懇願し、怒鳴った。 けれども娘は感情のない目で男をただただ黙って見つめるだけだった。 それはまるで、男が「旅立とうと思っている」と言ったときに、娘の魂の方が旅立っていってしまったみたいだった。
娘はいつも牢屋の隙間から食事を差し入れた。そのときに男が娘の手を握ることもあった。「出してくれるまで離さないぞ」と。 そんなときには、しばらくすると村人たちがやってきて、男を殴りつけ、娘の手を離させるのだった。 かつては愛を確かめるために触れ合っていたはずなのに、その意味は随分と異なってしまっている。 娘は食事の時間以外にも、牢屋から少し離れた場所にある切り株の上に腰を下ろし、ずっと男を見つめていた。 あるいはその切り株の上で編み物をしたり、リスと戯れているときもあった。 そしてときどき、深い海の底のような目で、男をじっと見つめるのだ。 じっと。
男は、自分が何をしてしまったのかがよくわかってはいなかった。 そしてわからないからこそ、男の感情は暗い憎悪へと変わっていった。男は日に日に娘へ憎しみを向けるようになった。 罵倒するようになった。 娘はそれでも毎日同じ場所に来て、男をただ黙って見つめていた。 まるで過去の楽しかった想い出をなぞろうとでもしているかのように。太古の記憶が詰まった遺跡の柱に指先で触れるように。
季節が巡り、秋が訪れるようになった。 森の木々の色は移り変わり、風の匂いは複雑なものへと変わっていく。けれど男には自分の周囲の移ろいや変化は目には入っていなかった。 狭い四角い折の中で、ただただ、かつてめぐった様々な国や土地のことばかりが思い出された。そして自分の閉じ込められている牢の余りの狭さを見ると、悲嘆にくれた。 いまでは牢屋の中から切り株に座っている娘を見ても、どうしてあんな素朴そうな娘に惹かれたのだろうと、そんなことばかり考えるようになった。 娘を愛した自分を呪いすらした。 それでも、いつも娘は自分の近くにいた。
冬の間は、男は村外れにある建物ののなかの牢屋に入れられた。 そこでなら少しは寒さをしのぐことができた。 そして永い冬が終わり、男はまた森の牢屋に移される。 そんなふうにして、2度目の春が訪れた。
娘は、この2年の間に美しく成長していた。 毎日、同じように男を見つめている。 そして、以前にはまだ少女のようだった体つきも、ふくよかなそれにかわっていた。
ある夜。 村の方角が真っ赤に燃えている。叫び声が風に紛れて聞こえてくる。何かが起こっていることだけは男にもわかった。でもただ牢屋のなかでぼんやりとしていることしかできなかった。 しばらくすると、足をひきずるようにして深い手傷を負った娘がやってきた。
「どうした? いったい何が起こっているんだ?」 「……帝国軍が攻めてきたのよ。みんな殺されてしまったし、村にも火をかけられたわ」 娘は血を流しながら牢屋の鍵を開ける。 そして娘は倒れこむ。 「お、おいっ」 男が問いかけても、娘は返事をしない。肩に触れてみるが、微かにしか反応はなかった。 何が起こったのかがまだうまく理解することができない。 それでも、一際高い劫火の音が聞こえるのを合図にするように、男はその場から逃げ出した。
夜の深い森の中を、ただ闇雲に逃げ続けた。
そして、ようやく空気が白んでくる朝、男は自分の体が長い牢屋での生活のために、すっかりなまっていることを知る。 うまく走ることができなかった。 自分は急いでいるつもりなのに、ほとんど思っているようなスピードでは進むことができないのだ。 何度も何度も茂みにはまりこんで、体中が小さなひっかき傷だらけになる。 それでも逃げ続けた。悪名高い帝国軍に殺されることはごめんだった。 ようやくつかんだ自由の身なのだ。
そう思った刹那、男はその場に立ちつくしてしまう。 獣道の目の前に、身の丈2メートルはあろうかという大きなくまがいたのだ。 グレーと黒の混ざった毛並みのくまで、動きはゆっくりとしたものだったが、男も旅人だっただけあり、くまの敏捷さはよくわかっている。 このくまの手にかかれば、自分などひとたまりもないことはよくわかった。
ふいに、男はかつての娘の言葉を思い出す。
くまには言葉が通じのよ。
「……な、なあ、助けてくれ。私はナリディア村から来たんだ。お、お前たちは言葉がわかるんだろ」
男はようやく空気を吐き出すようにしてそれだけを言う。そして、二歩、三歩後ずさりながら懇願するようにくまの方を見る。
くまはその小さな深い瞳で、男をじっと見つめる。その姿にはどこか愛嬌すら感じさせる。もしかするとまだ子供のくまなのかもしれない。 そしてくまはゆっくりと口を動かす。その声は空気を震わせはしない。まるで、魂に直接響いてくるように感じられる。
(やさしい人間とわるい人間がいるんだ。見分けるためにはその人間の言葉に耳を傾けろってママから聞いたよ。 どうしてなんだろう? お前の言葉は、全然理解できないんだ。)
くまがそう言い終わると、ゆっくりと目の色が変わっていく。それまでのどこか幼い雰囲気から、凶暴そうな表情に変化する。目つきが変化する。男にも、危険なことはわかった。 ふいに、くまが周囲に響き渡るような唸り声をあげる。そして、男に飛び掛ろうとする。ものすごいスピードだった。男は慌てて身をかわすと、転げ落ちるようにして逃げはじめる。 どうして、自分がこんな目にあわなければならないんだ。 男はそう思う。 自分はただ、この目で世界を見たかっただけなのにと。
そう思いながら男は山の中を逃げ続ける。 そして、ついに足を踏み外して、崖を転げ落ちていってしまう。 男の体は地面に打ち付けられ。かろうじて仰向けになる。まだ早朝の白んだ霧がかかっているのが見える。霧はゆっくりと右から左の方へ移動している。 それでもなんとか体を起こして逃げようとするのだったが、激痛が走り動くことができなかった。 雲間から朝日が差し込んでこようとしていた。 朝日は、周囲の濃霧をかき消していくようにその勢力範囲を広げていく。
男が思い出したのはかつての娘の言葉だった。
「私はこの山から出たことはないけれど、でもあなたが来てくれたからよかった。あなたがいれば、もう他は何にもいらないわ」
女は確かに自分を愛してくれた。 自分も女を愛していた。 ただ、それ以外のことを求めることはいけないことだったのだろうか?
男は、深い手傷を負いながらも、自分を牢屋から出してくれた娘のことを思い出した。 そして、自分が娘を見捨ててきてしまったことを知る。 どうして、一緒に逃げなかったのだろう? そう思って、どうしようもないくらに大きな後悔の波が押し寄せてくる。 自分が追い込まれてはじめて、男は自分が何をしてしまったのかがわかったのだ。 それは、自分でも押しとどめることのできない感情の奔流だった。
男が仰向けに倒れていたのは長い時間ではなかった。 娘と過していた最初の頃の記憶が溢れるように思い出されてならなかった。 自分が何を得ようとして、何を失ってしまったのかがわかった。時間の針が自分の中でだけ逆に回る。
男はついに痛みに耐えながらゆっくりと立ち上がると、娘のところに戻るために歩き始める。 どこをどう歩いたのかはわからなかった。 ただ、山の遠くの方に煙の出ている地域があり、おそらくそこが燃やされた村だということはわかった。 そこに向かわなければ。 男は、ある種の使命にも似た気持ちで、そんなふうに思うのだった。
そしてまたくまがいた。さっきのくまだった。 男は言う。
「も、もう少しだけ待ってくれ……俺は娘を助けに行きたいんだ。だから、助けることができたら後はどうなってもいいから。そこに行くまで待ってくれ」
くまは男を見る。 永遠とも思えるような長い沈黙。 そして、くまの目の色がゆっくりと変わっていく。
「ボクに乗りなよ。連れっていってあげるよ」
くまの声が心の中に直接聞こえてくる。その目には子供っぽい光が宿っている。 男は何が起こっているのかわからなかった。ただ、恐る恐るくまに近づくと、ゆっくりと背中に手をかける。くまは最初の数歩を男がずり落ちないかどうか確かめるようにゆっくりと進むと、それからものすごいスピードで駆けはじめる。 風景が、まるで粒子のように背後に流れて溶けていく。 くまがこんなに早く走ることができるなんて知らなかったと男は思う。 あるいは、私は長い夢を見ているのだろうか……
気がつくと、男は牢屋の近くに立っていた。 くまがつれてきてくれたのだ。
牢屋の入り口の近くには娘が倒れていて、男は娘を抱き起こす。 娘は、かろうじてまだ息をしていた。 「どうして……戻って……きたの?」 男を見ると、娘はかぼそい声でそう言った。 「すまぬ……」男は、ただただそう言うばかりだった。 帝国軍はすでに撤収していた。
男は娘を抱き起こすと、くまに乗せてもらい、山のふもとの別の村につく。そこで看病を受け、娘はなんとか一命をとりとめた。 娘の回復を待って二人はその村で一緒に暮らしはじめる。 そして男は眠っている娘に向かって言う。
私がお前にしたことは許されないことだ。ただ、これからはずっとお前の側にいるよ。
最初はまだどこかで心を閉ざし、距離をおいていた娘も、男の変わらぬ態度に少しずつ距離を縮めていく。 それに、信じることができるのが最初からずっと娘の強さだった。 男は、自分のうちに良心の呵責の塊のようなものを抱え続けることにはなるだろうが、2人は、出会った頃とはまた違った意味で、愛し合うようになっていく……
それから、後に男の妻となった娘は言う。
くまは鏡なのだと。
私たちの森で、くまは森の精霊なの。
くまは自分の心を映し出す鏡だって言われているわ。
だから、成人になると、みんなかならず森に1人で行かなければならないのよ。
そうして、くまに認められて、つまり、よいくまに出会うことができて、はじめて村の一員になることができるの。
その話を聞きながら、男は思う。 自分が出会った2匹のくま。 それは同じくまで、私を映し出していたに過ぎないのだろうと。 男は、くまに言葉が通じて――やさしい方のくま――に出会うことができて本当によかったと心から思った。
男は、いまでも夜になるとときどきあのわるいくまの鋭利な瞳の光を思い出す。 あれが鏡ならば、自分の心の中に、いったいどんな影があるのだろうとと……
いまでは、2人の間には小さな子供たちもいる。 狭いけれども畑もある。 一度は失いかけた分、その幸福はより明るく思えるのだった。 男は自分が弱いということがわかっているからこそ、よい父親によい夫になることができた。 脆い気持ちを自らの内に抱えているからこそ、強くもなれるのだと、そう信じることもできた。 男は思う。 誰の心の中にもわるいくまはいて、でもやさしいくまもきっといるはずで、そのバランスをとるのが誰かのことを思う気持ちや、意思の力なのだと。 あの森の中で仰向けに倒れた朝、朝日の光が霧をかき消していったことを思い出す。 あんなふうに、自分の中の悪いくまを、優しいくまが打ち負かしていくことができるようになっていこう、男は心からそう願うのだった。
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「うう……人間って弱いのね……」お気に入りのミッフィーハンカチを濡らしながらうさ子が言う。「それにしても、情けない男が最後に改心してよかったわ」 「でも、男はどうしてもどこかに行こうとするのよね。ずっといればいいのに」 さる江が言う。 「まあ、女だって行くだろ。性格の問題だよ」 とウルフィー。 「ま、これは一つの言い伝えなんだよ。もちろん多くの言い伝えがそうであるようにある種の糧が含まれているがね」 と話をしていたくま吉が言う。 今日は森の動物たちの月に一度のお話の日だったのだ。 人生経験豊富なくま吉が森の動物たちにいろいろな話をしてくれる、みんなが楽しみにしている<お話の日>だ。 モグたんもワッシーも、みんなが集まっている。
そして――
「いや、でも、それにしても」とSun Setさんが口を開く。森の動物たちがみんなSun Setさんの方を見る。 「あのとき男が改心していなかったら、本当にくまったことになっていたよね。本当にくまったことにさ」
「……」
「……」
「……」
とまあ、森の動物たちの毎日は、比較的のんびりしているのです。
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お知らせ
次回、森の動物たちシリーズ�Α 宗戎垢�1ヶ月――は初夏から夏に更新予定。
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