大雨は外出の意欲を奪う

「大人は汚い」という言葉をよく耳にするが、実はあれは
負け犬の遠吠えなのではないかと思う今日この頃、
そんな考えをするのはもう汚い大人の一員になってしまった
と非難されるのが関の山かなとも思ったりする。
でも酒鬼薔薇とかの「透明な存在」っていうのもたいがい
気色が悪いと思うんだが、考えすぎだろうか?
まぁ、それを素晴らしいと持ち上げるメディア気持ち悪いが…。
そもそも透明な存在なんて存在しない。
おもちゃ屋さんの前で駄々こねてる子供を透明と言えるか?
ましてや男子中学生の頭の中なんて透明とは程遠い。
もう、あの頃の自分の頭の中は恥ずかしくて恥ずかしくて。
よく子供は天使だなんて言う人がいるけれど、それは客観的な
見方であって、主観的に子供の立場になって見てみると
実は恐ろしく残酷で、その上欲にまみれているのが事実だ。
小学生の時はまだ物欲だけで済むが中学生にもなると
別の欲も生まれてくるから性質が悪い。
しかも「透明な存在」とか抜かすヤツに限って心の中は
どす黒かったりするのである。じゃぁ、何故そんなヤツが
「透明な存在」に憧れるのか?これは単純な話、自分が怖いのだ。
自分という存在に少しでも考えを持った人間ならわかると思うが
自分の愚かさや狡さに薄々は感づいているのだ。
ただそれを認めたくないから「透明な存在」とか言って
現実逃避し始める。自分の嫌なところ、汚いところは
すぐには認めたくは無いだろうけど、
認めざるを得ないところだってある。
変えれるところは変えていけばいいし、変えれなければ
それはそれで少しづつそんな自分と向き合えばいい。
人生は長い。自分自身との付き合いは一生ついてまわるんだし
素直に自分を認めるというのも大人になる一歩なのだ。
2002年09月17日(火)

Dag Soliloquize / tsuyo