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2005年01月21日(金) 暴れだす・・・(『救命救急24時』)

トータスって天才かも。って、今、PV流れたとこしか知らないけど、c/wは「大丈夫」なんだね。あ、ウルフルズの新譜タイトルです@暴れだす

暴れだす・・・と、口にすると、さだまさし氏の「あれば出す」の法則を思い出し、にんまり笑ってしまう私は、シアワセと思いながら、一方で、どれだけ自分が上手に人とつきあえないか考えてしまってカナシクナル。

暴れだす・・・暴れだす・・・

私のココロが暴れだす。この時期はツライのです。何も手につかなくなるのです。思いばかりがあふれて重くて、そうだ、まさに暴れだす・・・。

忘れようとしても忘れさせてくれない。テレビも新聞もブログも世間も「今年で10年」と教えてくれる。

私は、直接震災にあったわけではない。昨日の『救命救急』を観たら、違う意味(ある意味、世間と同じ意味)で心が痛む。恐怖を感じる。思い出す。

うちも大阪だから、ずごんっっ!!!と、それまでに感じたことがない衝撃が襲った。私は何故か、ほんの数秒前に目が覚めた。なんかくる・・・と感じた。慌てて布団を被ったら、ベッドの頭の方に飾ってあったものが、全部落ちてきてた。陶器が割れてて、一瞬の判断、というより自動的な感じで布団被ってよかった〜。と、思う暇なく、隣室の母を見る、さすがに目をさましていた、無防備な感じで・・・。あの人、頭のとこに和タンスとその上にガラス扉の飾り棚を置いてた。揺れの方向が逆だったらと、考えたら恐ろしい。とりあえず、足側に寄って布団被ってなさいと言って階下へ。祖母は布団の足側にテレビがあるが、幸い1階だからか、テレビ台のガラス扉が開いていたくらいだった。かなり恐がっていて動けないので、テレビをNHKにして、祖母の布団の横で、こたつ布団ひっぱってきて被って様子をみた。

うちは築十年強の軽鉄造亜鉛メッキ鋼板屋根二階建。建て替えを夢見つつ、積もったら建て替え金額を越しそうだから、屋根も壁も一部床も何もかも修理してなかった。やっと建て替えた時、知り驚いたが、地盤も決して優秀ではない。(今は補強したけど)
家の中のものを置く方向で、近所でも何が倒れた、どのくらい食器が割れたと食い違いが出た。うちは、私の頭の上に降ったもの以外は、ズレただけだった。運がよかった。

だが、そのうちテレビで流されはじめた情報、映像に驚愕することになった。母は、自転車通勤の距離なので、出勤した。私は、私鉄は動きだしたが、祖母が怯えるし、自分も具合が本調子でなかったので、有給休暇を取った。午後5時まで、同じアナウンサーがニュースを伝え続けた。我が家では、いまだに彼は「地震の日のアナ」と呼んばれている。(失礼ながら何故か名前が覚えられない)あの日、テレビで、繰り返し映さざるをえない神戸の映像は、空爆にでもあったような信じがたい、しかし現実の光景は、余震はあれど、安全と思える我が家にいてすら、恐怖で、なだめる祖母がいなければ、冷静でいられなかったに違いない。


うちの家に被害はなかった。連絡がついていき、親戚にも被害はなかった。兵庫の友人とは、しばらく連絡がつかなかったが、みな、命は大丈夫だった。

そんな私が見ても『救命救急』の医局のテレビが映した映像は、大泉が屋上から見た街は、まざまざとあの映像にリンクし、体が震えた。まさに体験した人は、誰かを何かを失った人は、果たしてこの映像を見ることが出来るのだろうか。

2話でもすでに、どう医療活動をすべきか?被災者同士が集まる中で、どう助け合うのか?政治力は、何故機敏にいかせないものなのか?問題があらわになってきている。中越地方は、あの震災よりはるかに余震が激しいが、ドラマでは、恐らく余震は、今まで常識とみなされていた範囲でおさまり、現実に時の経つことで、問題がシフトしていく様を描き、体から心のケアへ、医療、政治(国、自治体)、個人、それぞれへの問題提起、いくつかの解決例などを盛り込んで人間ドラマとしてすすんでいくのだろうか。

震災被害にあった人も納得できるドラマになればいいなと思う。本放送は無理でも、全話終わったあとに、再放送はみて見ようか・・・、そう思えるドラマになればいいと思う。


私は、そんなわけで、直接被災していないのだから、映像に恐怖を思い出すだけでよかろうもん、と思うんだ。早くそうなればいいと思うんだ。でも、まだそうはいかないらしい。
私はあの日、必死で連絡を取りたい人がいた。電話が混雑していただけで、その人は無事だった。だけど、その人にとって、必死で連絡を取りたい人リストの上の方に、私はいるだろうと誰だって思う立場(状況)だったのに、その人にとっては、違った。私は、ショックだったけど、テレビの映像があまりにショックで、家族や友人、人との繋がり、情、絆、それがどんなに大切か、どんなに支えになるかばかり考えて、間違った選択をした。人は変わるし、人は成長する。特に人との関わりで、重い出来事で特に。私はそれを信じたかった。

それは、あてもない期待ということがわかり、あの日のショックが正しかった、変わらない人、変わらないところもある。それでも努力したかった。あんな恐ろしいことが地球で起こるんだから。でも、どうにもならないこともあるのだ。私は間違いを正した。

軌道修正した日について、覚えているが、それ自体が私にはよいことだったので、その頃は大丈夫。あまり成長しない自分に苛立つ、情けなくなるけど、大丈夫、平気。
ただ、私がシアワセを求めてみる決意をした日の方はまだダメみたい。キツイ。ココロが暴れだしそうなのを押さえなくていい日がくれるのかな。


「あれから10年がたちました」

地震そのものは、非難袋の中身の賞味期限がきれたり、ラジオつき懐中電灯がきれてたり、大事なものがいまいち整理されなかったりしたままで、喉元過ぎてないし、熱さ忘れたくないし、と、思っても、秩序だててない。ぼーっとしてるかも。


「あれから10年がたちました」

10年、もし・・・。
もし、あの日、大地震がなかったら、私は違う選択をしていたかもしれない、そうしていたら?
もし、あの日、大地震があっても、あの私に起きたショックを、家族の絆について、恐がらず、将来に期待しすぎず、あの時、声にして問い掛けていたら?(数日後、あまりに笑顔が嘘なんで、問い掛けたけどね、まだ私は期待したかったんだな。信じたかったんだな)

もし、信じたような方向へ私が・・・。


今は、仕合わせ。

ただ、こうして時々後戻りする。あのカナシカッタ日々はどうしたら報われるのか。私の望んだシアワセは、私にはもともと一生手に入らないものだったのか。普通のことなのに、どうして私には無理なんだろう。

災害は恐ろしい。悲しいことが山ほど起きる。そして引きずる。でも、当たり前に過ごしてる、文句なんかも言っちゃう、家族や人との繋がり、絆について、自分がどれほど弱く、強くなれるとすればその絆のためだけかもしれない、と考えさせられる。


なんか、わけわからないこと書いて(いつものわけわからなさと異質な)すみません。ただ、そんな理由で、私はこの数日、ある意味一月くらいが、なかなか上手に生きられないでいます。地震とか豪雨とか自然災害の前で生命の危機を感じている人には、ちっぽけにうつるでしょう。大規模な誰かと共有できるものでもない、ただ私個人の平成7年1月17日から数年の出来事です。


もっちゃん |M@IL( ^-^)_ヲタ""日常こんな劇場( ^-^)_旦""

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