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| 2003年12月27日(土) |
藤木様@おやかた様「太閤記」 |
ふっふっふっふっふ。 心配していた通りだったらどうし様かと思ったぜい、べいべ! つか、本日、アルコン、秋ツアーファイナル、例によって大阪城ホール!! 藤木様シリーズなのに、家にいませんでした、いいのか私。
あー、余計にどきどきやね。ほんまに。鬘やメイクが数種類あって、秀吉と出会うシーンはいいんよ。その次がね、記者会見?おぼっさまに見えてしまう。そして、ぷぷぷ、どうしてもなれるまでは笑いが・・・・・このひげはなんだっ!ちょっと太秦の皆様、他の人のひげはいい感じだったじゃん、口ひげも、藤木様のもなんとかしてほしかったわ。おサルの店長さん以下じゃん!!
でも、藤木ファンの間では、ドラマとしては・・・・かもしれないけれど、とにかく直人クンは頑張ったし、新境地も開けたかもだし、とにかく楽しかったって言ってたから良かったんじゃない?って感じなのです。もちろん、私もファンですから、甘いです、もう、彼がうまくやっていれば、全体のドラマはどうでもいいとはいいませんが、というのも、できれば出来のいいドラマに出て欲しいからね。
でもね、何が言いたいかというと、さらっと見た感じ、私が大河を見ない奴だからなのか? ええんちゃうん?と思ってん。このドラマ。テンポもいいし、そこかしおかしいっていうのかな?急ごしらえでつくった感は否めないというか、合戦シーンなんかでも、おいおい、CGで増やしてくれよみたいな、もしくはあまり引きの画はやめるように、みたいな。でもね、フィクションですから、史実とあまりに違うことをやったら、びびりますよ、それなりの説得力っていうのが更にいりますよ。例えば「本能寺の変」はなかった。とかさ・・・・。でも、これは一応の歴史の流れというか歴史モノの流れと、流れは一緒なわけで、問題とされているのは、秀吉像、ま、もしかしたら藤木がすることによって信長像なわけでしょ?記録としてどういう風にどのくらいまで残されているのか私は知らないんだけどさ、そういう記録っていうのも、後から作られたり、大げさに語られたりするじゃない?そういう意味で、「もし秀吉がこんなだったら?」っていうのを描く事によって、すごい、現代の、ほんと今の今、日本や世界が参戦しちゃうんじゃないかっていう、もしかしてえらいことになるんじゃないかっていうときにね、作り手の人が、時代劇、戦国の世だったんだよっていう時代を借りて、言いたいことが有った、その時代だからこそ、逆説的に浮き彫りにされるんじゃないか?みたいなテーマが、秀吉はお人よし、ってことじゃなくて、だからこそ出てくる言葉や、まわりのついていきかたや、出来事が有って、それは、今、この世の中に問いたいこと、だったんじゃないかなって思ったの。
もしそれが、「そうか、そういうことが言いたかったんだ。考えなくちゃな。やっぱ、これ今おかしいよ」って思えたら、2時間半であの歴史モノを語るのは無理だったんだよぉ、とか、大河とかとは比べ物にならないね、とか、軽すぎる作りだ、とか若い俳優つかえばいいってもんじゃない、とか、そういう「時代劇かくありき」論でなく、それを通して「伝えたかった事」それが、あるような気がして、私はこのドラマは作られてよかったんじゃないかと思う。
オフだった脚本家福田靖が、企画を聞いて、乗って、でも、オフを過ごしていた場所で書いたのが良かったのかもしれないね。そう、それはニューヨーク。本人のコメントとしては「日本にいたら、色々資料とか時間無いなりに読んだかもしれないから」ってことだったけど、特に秀吉が「オヤカタ様は人を斬り過ぎます」って諭すところで、「斬られた敵にも妻や子がいるのです。かたきを討とうという気持ちになります。憎しみは憎しみしか生まない。天下を統一し、平和な世をつくるなら、オヤカタ様、もっと人を斬らない方法を考えてください」みたいに言ったとことか、どうしても今の世を思うじゃない?しかも、本能寺の変と言えば、火の中舞う信長が有名らしいけど、本当に言ったのか知らないけど「かたきはきっと秀吉様が」という蘭丸に「秀吉はそうしない、でも、それでいいんだ」と言って、割腹する前に笑う。はじまりはもっと昔だけど、アメリカという社会に打撃があったことで、全世界的になった気持ちとか、結局極東で戦争が続いている事とか考えたら、この始まりはニューヨーク。そこで書いたってことは、多少は影響があるんじゃないかと思う。
これは、戦国時代を描いた時代劇で、その中で秀吉が、こんな人だったら、っていうのが「今までと違うつくり」ってことで、若い俳優もつかい、言葉も現代語を使い、若い人間にも時代劇を見るチャンスになったり、固まってるイメージに「ん?」と投げかけるっていう「時代劇」の試みであったのかもしれないけど、そういう姿を借りただけで、本当のメッセージっていうのは、この時代だからこそ投げかけたいもの、そして、それをまるまるそのままやるんじゃなくて、そして、年齢層を広げるためにこういう形をとったっていう、そういう感じがしたので、これは、すごい成功じゃないかと思う。見ててそう思ったし、そう感じると、普通の時代劇や、今までの戦国を描いたもの、その人物像、ましてや大河と比べる事自体が、全然、意味のないことのように思えた。
特に、短い時間しかないところに、秀吉の百姓時代から描くのに、なんでストーリーテラーとしての中井貴一のとる時間が長いんだ?って思ったかもしれないな、って思うんだけど、上述した考えでいくと、彼が師範として教えている若者達、最初は血気盛んで、武士とは!戦で巧妙を上げるには!ってことしか考えられなかった彼らが、話を聞いていくうちに「共感」していって、本当に天下を取るような人、束ねる人っていうのは、そういうもんじゃないんだ、とか考えるようになる。っていうのを前半はいい感じの間合いで挿入し、後半は〆的に使ったっていうのがは、この物語としてはある種、軸なのかもしれないな、と思った。 でも、これもそれも、私が歴史を知らないからこそ、言えることかもしれない。フィクションとはいえ、ちょっと・・・って、思うことはあるのかもね。例えば、最後に「いいえ、あなたは何も変わりません」と、「金に替えていい、って言った仏像」を持っていることなども含め、言うんだけど、確か、秀吉って後期、安定してくると千利休を擁護しすぎたり(文化のない国や、文化の廃れる国は国として良くないから、いいんだけど)金満主義に走った人じゃなかったっけ?じゃ、「全然変わっていない」ことにはっ?て思ったからさ。
さておき、藤木信長は、「どうしよう・・・もう時代劇のオファーこなかったら・・・」ってドキドキしてもいたんですが、すごくカッコよかったです。もちろん、ところどころ、この科白の言い回しは、誰か直してあげてくれれば良かったのに…とか思うところがあったんですが・・・。「きゃー、恥ずかしい、照れるぅ」的な。いいんだけどね、それはそれで。でも、もっとおぼっさまになるかもと思っていた信長、藤木様のインタビュー通り、策略家の面が出てるシーンもあり、そこはかのマルクス・アウレリウスも書き記したように「本当に強い武将は勝機を待てる武将です」というようなシーンで、そこを荒いというのかな、乱暴な感じじゃなく、本当に智恵者という感じでいったのは、良かったな、と。うつけもの時代も普通によかったし、威圧的なとこも出てたし、威圧的でありながら、サルは許してしまう、ジレンマとか、その本能寺での「それでいいんだ」の笑いとか、この作品の信長は成功していると思う。落馬することもなく、撮影も終わったし。
ただ、藤木ファンとしては、せっかく太秦にいったんだから、もっと作法とか勉強する時間があったらよかったのになぁとか、時代劇俳優としての訓練を受けるということは、俳優として、現代モノをやるときでも、年齢や暮らし振りやなんかが立ち居振舞いで現れる時、口先の科白まわしだけじゃなく、態度、一挙手一投足でわかるものなので、いい勉強になると思ったんだけど、短すぎだよね。だから、かっこいいー!って見ながらも、座り方は違うから気をつけるじゃない?でも、歩くとこ・・・これってスーツの時もこういう動きするよね・・・。他の現代劇の俳優さんもそうだけどね。もったいないね。教えてくれる先輩の役者がいたとしてスケジュールが重ならなかったみたいだし。京本さんに電話やメールで相談していたらしい。京本さんて現代劇では、かえって浮くけど(そういう役が多いんだけど)やっぱり、時代劇のスタイルを身に付けた人だもんね。草履もちゃんとはけるとこまでNGで撮り直してほしかったなぁ。
そんな感じ。
終わって彼は、ミュージシャンモードかな?アルバム制作か・・・でも、ドラマも出たいって来年の抱負に言ってたようなので、期待しまSHOW!!
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