ドラマ!ドラマ!ドラマ!
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全然別の話を書こうと思っていたのだけれど。平たく言えば、「もっちゃん日常こんな劇場」。今日の私の1日のこと。だけど1日の終わりに、今日届いた本を音読してみて、そして一日の終わりにもう一度、大好きな藤木直人さんの声、ヴォイスメッセージを聞いてから眠ろうと思って・・・せっかくぱなこさんをあけたから、・・・日記と例の「マイラブ」の続きを書こうとして・・・だけど、先に直人くんのメッセを聞いてしまった。ので、方向を変えます。(今日は直人くん、と呼んでみたい、そんな感じの文章でいきます)
短い、短い10秒以下のヴォイスメッセです。でも、彼はその10秒以下のメッセを生真面目に読んでいる。きっと本当に気持ちが伝わりますようにって思って読んでいると思う。直接会うことも話すこともない、メディアを通して、役を通して、一番素に近いかもしれないけれど、ライブパフォーマンスを通じて、だけど、きっとそう思う。「お仕事の一つ」と思ってはいるかもしれない、でも、生真面目に気持ちを込めてくれている、そんな気がして、とても、とても、あたたかい気持ちになる。
ヴォイスメッセの前に、この冬、覚えたてのウクレレを弾いてくれているのだけど、またそれが、心地よい。繰り返し、繰り返し聞いていると、はじめは直人くんの声が嬉しくて、一語一句聞き逃さないように、ブレスの音も、トーンも覚えよう、そんな感じで聞き入るのだけれど。繰り返し、繰り返しているうちに、聴いているのはウクレレだったりする。両方なんだけど、20秒ある分(ウソです、長さではありません)ウクレレの音に心が反応して、心地よさが倍増していることに気がつく。もちろん、その覚えたての(とはいえ、既に楽曲で弾いてCDになっているけれど)ウクレレも、とても生真面目に弾いてくれているのだから、直人くんの人柄もプラスに違いない。
でも、実は、ウクレレの音そのものに心が反応しているのだろうと思う。肩凝りがひどかったり、腱鞘炎みたいなものだったりで、今のところ無理なんだけど、ウクレレ弾きたいなぁ、と実は密かに思っていたのです。4弦(実際は8弦か)楽器やってたことあるし。ハワイアンって、きっと子供の頃から、どこかで耳にしていたりするものだろう。でも、大人になって民族音楽的なものに惹かれるようになってからも、私はアラビックだったり、タンゴだったり、セビジャーナだったり、ちょっとだけガムランだったり、もちろん子供のから興味があった三味線だったりでした。ハワイアンは選択肢になかった。 ところがある日、もともとフォークロックっぽい音楽をやっていたけれどそれをやめて、1年のほとんどをハワイで過している、そんなミュージシャンが、ある人の企画で小山卓治さんメインとはいえ、ジョイントぽくライブをするということになりました。私は、その日までその人を知りませんでした。(一番メジャーになった曲、っていうのは、ギターで演奏してくれたんだけど、女性シンガーに楽曲提供したものだったので、びっくりしました。私のカラオケの定番でした。)彼は山口岩男。もちろん、メインの卓治のライブに心満たされつつ、ライブハウスを出た私は、そこで岩男さんに遭遇。握手をしてもらったりしたことを思い出します。普通の人で、街ですれ違っても、私、気づけないかもしれないけれど。フォークロックのままの岩男さんだったら、いい声だくらいに思っても、ただ見送ったかしら?・・・そして速攻「ウクレレクリスマス」など出ているCDを購入。ハワイアンといえば、日系のハーブ太田氏、最近では、サザンを辞めてハワイアンにのめっている関口さんが有名かと思いますが、なかなかいいです。(これらのCDの何曲かに関口さんも参加してます)「癒し系」という言葉があまりにはびこってしまっているので、それは使いたくない、それほど、1/f揺らぎな感じの、ほっとする、でもわくわくもする、そんなウクレレ音楽。
そして夏が来て、丁度この日記をはじめた頃に私が一番生活の時間をさいていたお芝居「VAMP SHOW」コメディじたてとはいえ、物語の悲惨な結末や、途中のスプラッタな描写を思うと、何故に?だけど、客入れがハワイアンなんです。そのCDをも購入しました。今、残念ながら手元のストックにないんだけれど・・・(聴きたい、聴きたい)それが、全然物語りにかすりもしないハワイアンが、妙に記憶に残っているようで・・・。それは、自分でも思ってもみないくらい残っていたようです。
その次の夏でしたか、春でしたかに、私がずっと月に2度ほどかよっている場所がありまして、そこでは数年前からいつも控えめに音楽が流れています。ビートルズやポールの時が多かったのですが、カーペンターズ、エルビス、「グッバイイエローブリックロード」などが入ったコンピレーションなどがその日によって流れてます。その、夏でしたか春でしたか、ハワイアンでした。それが耳にはいったとたん、心地よさとともに、ちょっと涙が出そうになりました。「VAMP SHOW」の夏は、そのお芝居に通った熱情が主といえ、その時期のことが込み込みでで去来して、懐かしいような、そして何故だが少しだけ悲しいような、そんな気持ちがしたのです。今も冬ですが、そこで時々ハワイアンを聴きます。涙が出そうにはならないけれど、心がちょっとわくわくして、そして切ないけれどほぐれます。それがどういう経路か回答を探したりはしないけれど。
そんなこんなで、ウクレレっていいかも、って思っているところへ、直人くんがマウイのレコーディング時にギタレレからウクレレマンへ。さきに発売された10thマキシシングルの中の「生きなくちゃっ」はマウイレコーディング、ウクレレ主体というだけでなく、マウイな空気、時間、を感じるよいものになっています。もちろん、お気に入りです。ここしばらく、内向的に思考を閉じるというか、思考は開いているけれど、私自身を閉じるというか、そういう傾向にあった私。「あなたを抱きしめたら心がちょっと軽くなる」と言うフレーズを繰り返し繰り返し。マウイな空気のその歌に包まれて、老後はコスタ・デル・ソルか京都と思ってたけど、マウイね?なんて思いながら笑う。
なんだか本当に、心がすっと軽くなる、そんなウクレレつきヴォイスメッセをありがとう。
他にも昨日今日で盛りだくさんです。自分でそうしたもの(昨日のお芝居「BEGGER BIZ」ほんとは今日の予定が取れなかった)偶然そうなったもの(アマゾン.コムで予約していたヒュー・グラントのDVDと発送を重ねた吉野朔美先生の本がいくつか届いた。申し込んでいたライブのチケットが届いた。)そして何よりも嬉しい、自分ではどう策略しようもないありがたき友達のラブ(カードやメッセたち)サプライズ(これはまだ秘密かな?)。
また年をとる、とかそういうことでなく、人がたくさん関わって生きている社会で、どうしたって出てくるどうしようもない出来事。私は、ずばずばモノを言うところもあり、常識とかモラルが欠けているのではなく(知らない事は山ほどあるが)人は人、って「違う他人」が存在することを、それが正しくないのでは?悪影響は?信じられないできごとでは!と、思っても、「そういう人もいるんだから、仕方がない。そういう考えをもってしまう人っていうのは、出てくるものなんだから」と、認められないけれども「あぁ、いるんだ」って悔しくても憤っても受け入れるようにしている。(それを常識とかモラルが欠けてるとか言いたい人は言えばいいさ) でも、建前と本音の違う人で、当り前に微妙に「違う他人」に対して存在自体を否定する人と関わると、私は時々不具合を起こす。まわりに振り回されてしまう。小説や映画の中だけで起こることだった暴力事件が起きた時、ニュースで見て憤る、答えはわからなくても「何故?」と思う。だけど、「そういう人もいる」っていうことなんだな・・・と、あきらめでなく、現実としているんだよ、って思う。そこまで恐ろしい、劇的な問題は早々起こらないけれどね。小さな私のいる社会では、今のところ。 人と違うから関わらないなんて思ってない。違う人の方が明らかに多勢なのであるからして、普通にやっていけばいいのに、と思ってる。だけど、どうも村社会的というんだろうか、「一緒でないと」「だって人生ってこういうものでしょ?」本音すらそうであるように、建前をさぐりさぐり、その小社会のボスのなんだか仲良しクラブ的な関係のもちかたを強要されるのは、私はついていけない。勝手にやっていてくれー、で済むことならそれはそれでいいのだけれど、そうもいかず、だからといって「私は異なる意見です」と言う方がある意味楽なんだけど、言うと更ににやっかいなことになるのが見え見えで、今の私はそんな面倒にまきこまれている時間も体力もなく、気がつくと人と人の建前と本音のはざまたちに振りまわっているのは私・・・。へとへとである。(かなりワタクシゴトですね・・・マイナスな感じのことはあまり書くつもりはなかったのだけれど、これってちょっと「リンmyラブ」を書こうと思ったけど、なかなか書けないことに関係かるかも?ないかも) 孤立が恐いわけでない。ある程度仕事とかってチーム力が必要だから、人と無理して合わすのでなく、すりあわせ、っていうのは、していく必要はあると思うのです。でも、時々私は、限度がわからなくなって擦り減る。消耗する。
そしてなんだか、焦ってしまうのだ。「自分探し」などというたいそうなものはもうしないようにしようと思うけれど。私ってどこにいたかしら?どこにいくのかしら?どこにいきたいのかしら?一番になりたいわけでも、比較対象になった場合も、別に優位にたちたいというわけでもない。ただ、私は、私の本分をやり遂げられればいいなぁと、望むだけなのだ。願わくば誰かの役にたてればいいなぁと。そこに私がいるということが、いつか誰かの役にたてればいいなぁと。でも、私って誰かの役にたつほどの器なんだろうか・・・。そもそも、最近の不具合ばかり起こしている私って情ないし。本分て?まあ、そんなこんなで、年もとるし、体力なくなってくるし、焦ったりするのだ。
でも、どうでもいいか・・・って。ウクレレサウンドと、その空気感を思い出していると、「色んな人がいる」と私が思うのに、私をいれてあげればいいのではないの?「こんな私もいるんだわ」って・・・。なんだ、いまさら?いや、時々不具合を起こしては、そのことに気づくんだけど、どっちかって言うと、そのときは、強気モードが復活している時で、繰り返す。また繰り返すかもしれないし、この思いも明日まで続くかすらわからない。けれども、今、決して強気モードに戻っていないのに、まぁいいよ、って思えているのは、いいコトなんじゃないかと思うのです。世の中は、あわただしい。ラッシュ。せせこましい。生き馬の目を抜く。色んな言葉が浮かんでくる。そしてもっと大きな世の中は、戦争なんて恐ろしい悪魔の足音すら聞こえてきている。大きな戦争はまだ起こってない、回避してもらいたいけれど、あちらこちらで紛争は起こりつづけている。 私は何も変わらない。変わりたいと思うトコロは、自分が望むんだから多少努力して変わっていくべきだと思うけれど、それが中々できやしないのも、私。ま、いいか、ウクレレサウンドとずっと昔に行った、マウイの空や湿度や温度や風、それから、岩男さんと握手した日の某大橋を渡る時に感じた初秋の風、「VAMP SHOW」を見てはまって熱くて切なかった夏の夕方、そして今、パソコンから聞こえてくる、直人くんの弾く生真面目でやさしいウクレレ、そして「楽しくて素晴らしい1年」という声。本当に、心がちょっと軽くなって、肩の力が、抜けた・・・かな?
大切なのはまず、私のハッピネス。誰の役にたてないとしても、私はここにいる。それだけ。それでいいのかも。・・・そして。
音読していた本は、吉野朔美先生の「プレゼントをあげる」。毎日きちんと暮らしていた女の子。のほほんと一見しあわせそうにぼんやりと、一人ではあるけれど暮らしている女の子。ある雪の朝、間違えて宅配便が届く。近所だからと届けたら、新しい住人がいた。困りつつ、初めて歩いた近所に公園があったことを楽しんだりしつつ、でも困ってしまってベンチに置き去りにしようかとさえ思う。でも、それはとても「重い」ものに感じて、先住者を探し、届けようとする。不在。向こうから電話がかかってくる。送り主を告げると「今すぐ取りに行く」という。そして「開けるなら、人がいるところのほうがいいので」と、彼女の前で開けたいと申し出る。彼女は開けないまま夢から覚めてしまった福袋の中身でも見れるように、そして当然、届ける作業をはじめた時から、思い込んでいた「プレゼントを見たときの喜ぶ顔」を見たくて、快く承諾する。しかし、彼は最終的には顔を手でうめて、ひっそりと泣き出してしまう。水色の包装用紙で包まれ、黄色いりぼんをされた箱の中身はばらばらになったドライフラワーの花びらと、使用の痕跡のある黄色い手袋。それは彼が恋人にあげたものでした。「その人と私のいらなくなった思い出」そう言ってそれを持ち帰ってしまった彼。彼女は1人思う。
「幸福の記憶が人を泣かせる。 痛みが人をうつむかせる。 純粋な悲しみを受け止めるしかない残酷を、私は羨ましいと思う。 黄色い手袋とドライフラワーの詰まった宅配物。私はそれが欲しかった。」 「退屈ではない。 寂しくはない。 私はただ孤独だった。 人の悲しみを羨ましがるほどに。 孤独が私を傲慢にすると知る。」
そしてある朝、キャロットケーキとひなぎくをもって、彼がお礼にやってくる。彼は色々な話をする。「言葉に出来ないことを言葉にしようとする。そして黙る。」・・・帰ろうとする彼に「また遊びに来て下さいと、言えばよかった・・・」彼女はひまわりの種を植える夢を見る。ひまわりの種は見つからず、クロッカスを水栽培することにする。帰り道、偶然彼に出会う。荷物はまだ箱ごと置いてあるという。「捨てたくはないんです。でも、そのうちいつか知らない間に、何処に行ったか解らない事になっていて欲しいんです」という彼に「会わなければ良かったと思いませんか?」と尋ねる。彼女の死んでしまった犬たちの話を少しして「私も思いません。その人に会ったことは、私の人生のとても大切な時間だったんです。あの人もそう思ったから、思っているから、送り返してきたんです。」「解るんですか?」と問うと、うつむいていた彼は「解りません、ほんとはね」顔をあげて笑う。彼女はだんだん彼が好きになる。「クロッカスが咲いたら見に来ませんか?と言えばよかった・・・」そして、ある日、クロッカスに根がはえる。クロッカスの花を黄色にするんじゃなかった・・・と、後悔。
その次のページからの言葉がまたとてもよい。退屈ではなく、寂しくもない、ただいつのまにか人の悲しみすらを羨ましがるほど傲慢になるほどに孤独ではあったけれど。日常をちゃんと生きていたはずの彼女、朝食のりんごはそろそろキウイが苺に変えよう、生活はきちんと送っているのだ。クロッカスの根にステップをふめるほど喜びも感じられるのだ。しかし・・・。 「誰かに会いたかった。 会ってクロッカスやひまわりや犬の話がしたかった。 間違って届いた宅配便や自転車の話がしたかった。」 「ひとりで考えるそれらは いつも過去形で語られる夢のようで 夢のようで 私は悲しかった。 悲しくて悲しくて悲しくて悲しくて」
そして、彼女は家中のものを洗濯する。だけど、花の花弁や春のちり、緑の吐息といった春のものが洗濯物を汚す。洗っても洗っても、汚れてしまう。春なのに「私は悲しかった」。春だからこそ?そんな彼女は、手袋やらクロッカスやらがデッサンの狂った息苦しくて苦しくなるような夢を見る。「あんまり苦しくて生きていることを切実に実感する」そんな夢。
「水。 水が欲しいと思う。 だから、誰かに水をあげたいと思う。 あげようと思う。 『欲しい』と『あげる』は一卵性双生児のようによく似ている」
クロッカスが間違えて白い花を咲かせた。彼女は青空をバックにクロッカスに黄色いりぼんをして出かける。
「今 一番好きな人に、あげたいものは何ですか?」 1999年に発行された本です。かわいらしくて切なくて、とてもやさしくて悲しくて、でも、心がそっと軽くなる。1999年に出会っていれば、私は・・・・?すんでしまった時間は取り戻せない。
大切なのはまず、私のハッピネス。誰の役にたてないとしても、私はここにいる。それだけ。私がここにいる、そして私がまずほっとする。・・・そして。そして、プレゼントをあげたい好きな人が悲観していたよりたくさんいる喜び。だけど、あげたいものは思い浮かばないけれど。もしくはあげたいものがあっても届けられない人もいるけれど。でも、心をこめて「プレゼントをあげる」言葉を贈ります。
あなたがいてくれてよかった。 あなたに会えてよかった。 あなたがいつも笑顔でいられますように。 心から本当に願っています。
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