潔 ノ 森

2008年06月12日(木)

覚書

ニジンスキー  石福恒雄 著 より

初心者にしても虚心坦懐に稽古に励むのと、虚栄と野心から訓練にうちこむのとでは大きなへだたりがある。前者は<その物自然と出す事>を心がけていれば、技術が完成の域に達するとき、彼女のおどりは存在の発露としてのおどりに生れ変る可能性がある。後者に対してはやはり世阿弥の<初心の人思うべし、稽古に位を心掛けんは返々叫ふまじ>の一言で十分である。そればかりか技術に熟達したときでさえ、この<初心>は忘れてはならないものなのである。最も救いがたいばかりか、後進のためにも、観衆のためにも害毒とさえなるのは<おどり屋>である。彼ら(彼女ら)は素晴らしい技術ゆえに、一見それと分らぬ仮面をつけ、見るものをあざむき、いつしかおどりの本質までゆがめてしまう。


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