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おおみち礼治のてくてく日記 DiaryINDEX|past|will
10年前の自分にどういったら楽になっただろう、と考えてみた。
前提として、実はそれが自分にとって(周りの人にも)ベストだということがある。 どんなに不都合に思えても、ベストなのである。 だから「そのこと」をとやかく思うこともなければ、自分や周りの人の都合に合うよう、無理に矯正(?)することもない。 そのままでいいのである。 罰ではない。 なぜ、それでいいのか――そうなったのか、そのように生まれてきたのか、一生かけて理解していけばいい。焦ることはない。 まずは、自分にとって快適なことをしていくこと。それで道が見えてくる。頭で考えることをやめ、生まれながらに持っている自然な感覚に任せたい。大事なのは、自由であるかどうか、快適であるかどうか、だけだ。もし、不自由なら――つらくて身動きがとれないようなら、それは頭でやろうとしている。 さまざまな想念がでてくるだろうが、想念を追いつづけても何も意味はないし、何も解決しない。想念は過去の遺物――ゴミである。ゴミは捨てるのがよい。具体的には、相手にしない。でてくるものはでてくるに任せておけばいいのだ。 つらい思いをしなくては何も成せないという思いこみ。 それは違う。さまざまな情報を受け入れてしまったことにより頭脳で作り出してしまった「つらさ」にとらわれている。 もともと、人間は快適にしていくこと――きれいな部屋にいて、からだをきれいにして、きもちのいい服を着て、うまいメシを食い、よく出し、やりたいと感じること(頭で計算して導き出した、こうしていけばうまくいくだろうという考えではない)をしていくことで、うまくいくようにできている。 だが、普段から感じるということをしていないと、自分のしたいと感じること、といわれてもわからない。感じようとして、つい頭を使ってしまう。煮詰まって身動きがとれないときは、なにもかも放って、歩くのがいい。とにかく、自分のために歩くのだ。 血流が良くなって、内蔵の働きが活発になり、骨に適度な刺激が加わって丈夫になる。さらには自分のバイブレーション――波長が調うので、自分というものがしっかりとして、ちょっとしたことに影響されなくなる。 歩くことによる刺激はかかとから仙骨、背骨を伝わり蝶頸骨に達する。すると、蝶頸骨に乗っている脳下垂体からエンドルフィンやドーパミンといった快楽物質が放出されるので気分も優れ、自然治癒力が100%発揮される。気分がいい、楽になる、自由な感じ、というのは、それが(短期的だけでなく長期的にも)正しいことであると示している。 家に閉じこもっている人が、いきなり1万歩歩けといわれてもできない。肝心なのは「続けること」であって、時間や質ではない。5分でよい。最初は5分でいいから歩く。できないときはできないでもいい。歩くのだ、という意識を切らなければ休む日があってもいい。それは仕方がない。 いきなり良くはならない。悪くなるのに時間がかかったように、良くなるのも時間がかかる。何もしなかったら、これまでと同様の日々がずっと続くが、歩くというだけで違ってくる。良くなった、と実感できるまで3ヶ月かかるか半年かかるか、それとも3年かかるかそれはわからない。 どのようなことも、自分にとって必要なことであり、それがあるから良くなることができる、良くしようとして、その現象があったのだとわかるまではつらいこともあるし、わかったってつらいものはつらいのだが、わかってからのつらさと、わかる前のつらさとではぜんぜん違う。そうであること、そうなったことの自分の必然的な意味を理解していく。(たとえば)顔の整形をして異性にちやほやされるようになるのが救いではない。理解がなかったら、ただ生まれました、生きました、死にました、で終わりだ。何の進歩もない。 焦らなくてよい。 坦々と生きていくことだ。
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