おおみち礼治のてくてく日記
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2002年02月03日(日) とろろや。雪印の事件から。

 「とろろや」という、お店がある。自然薯のとろろと麦ご飯が大層美味しいのである。
 当たり前だけど、食事をしっかりとらないと体調が良くない。元気のいい人は分からないと思うのだけれども、いちど体調が悪くなって長引くと、それが当たり前になって、体調が良いとはどういう状態なのか分からなくなっていたりする。
 ひさびさに、飯がうまいとはどういうことか実感した。
 継続するといいなぁ。

 雪印。
 要するに、儲け(という営利団体の最重要目的のために)嘘ついちゃった、ということだよね。ほかにも、いろいろな見方があると思うけど。
 彼らのやったことに対して、憤ったりあきれて見せたり、あざけったりする人はいっぱいいる。だが、そんなことをしても何の意味もない。
 雪印と繋がりのある下請けの業者さんとか、消費者団体とかが怒って裁判を起こしたりすれば、それは意味があるかも知れないけれども、一般人的には、やたらとアドレナリンを出したって細胞が痛むだけでいいことはないのだ。
 自分はどうか? という視点でものを考えないと、身の回りで起きている現象からなにひとつ学ぶことが出来なくなってしまう。自分の目的のために、筋を通さず、うそを付いて内心舌を出してやり過ごしたり、本来以上の利益を得たりしていないのかどうか?
 そうしていたらやばいことになるぞと雪印が身をもって見せてくれたのだ。もし、自分が同じことをしているのなら、改めた方がいい。雪印のようになりたくなければ。していないのなら、自分には、そういうところはないから、あのようにはならない――別の結果が待っているだろう、と分かる。
 常に自分に返して考えるべきだと思う。現象に文句を言っているだけでは、同じ穴の狢(むじな)だし、聞いていて見苦しい。もちろん、聞かなければいいので、とっとと席を外すなりテレビのチャンネルを変えるということになる。まあ、そういうものを聞かされる原因をも、自分に求めていけばいいんで、そうしていくと自分の様々が理解できてゆく。他人がどうのこうのではないし、現象そのものにも意味はない。そのことから(自分の)何が理解できるか、だ。
 多くの人が、問題を起こした当事者を突き上げるだけなのと、自分の問題としてとらえて理解してゆくのと、それぞれどうなっていくかシミュレーションすれば、どちらの選択肢がよりよいか――分析しなくても、ぱっと分かると思うけどね。
 そのような思考に慣れてくると、たとえば机の端に手をぶつけてしまった意味を理解できるようになるので、いちいちむかつかない。あ、そうか、と自由自在に動けるようになっていく。
 その方がいいでしょ?


おおみち礼治 |MAIL

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