東京在住時取引先だった人が癌なのだと知らせが入った。 売上ランキングで行くとさして上位ではない相手だったが、 人柄を非常に尊敬している人だ。 母と同じ年なのもあって父親のようにもどこか思ってた。 鼻筋の通った顔立ちで最後にお会いした時もかっこよかったので、 お若い頃は相当もてたと思われる。 亡き代表の納骨を明日に控え死というものを考えさせられる時間だ。 死が身近に迫った人は皆君のところに救いを求めていくねと知らせてくれた人が口にした。 癌であるその人は私には癌であるとは今現在は言わない。 何ができるのかと自問自答した結果、 日々の出来事を語り合う以外に何もできはしない事がわかった。 距離がある上私自身も目指すものがあるからである。 莫大なお金ともてあます時間があれば飛んでいってもかまわないが現状そうはいかないのだ。差し迫ったならばそれでも飛んでいくかもしれない。 何もかも抱え込んで癌である事を家族にも言えないその人に、 私は一度でも多く笑って時間を過ごして欲しいと願うからである。
人の悲しみや苦しみをなぜか子供のときから察知してしまう私はなんなんだろうと思うけれど、結局それが私なのだろう。 なぜ他人にそこまで入れ込むのかと亡父は不思議に思っていたようだが、感謝されたいという思いからではなく自分は精一杯やったという満足が欲しいだけなのかもしれない。ようはモトを正せば自己満足なのだ。また、意志を貫き通した人の幕引きに崇高なものを感じるからそれに触れたいという思いが強いのかもしれない。 感謝されたいなどと思うのは人に期待をしているという事で、それが思ったように感謝されなければ頭にきたりする。色んな人に出会ってきたけど人に感謝を期待してはずれ、相手を責める様な事を愚痴る人が多い。そういうのはみっともないと私は思うのだ。自己責任というやつなのだろうか。
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