東京にいる間からちょびっとずつ時間を見て勉強していたのが功を奏し、 思いのほか着実に進んでいる。 まぁ着実とか言っても朝から晩までお勉強しているような気合の入れ方でもないので決めた量をこなすだけである。 後はリズムのある生活スタイルをする事。 少しずつらしさを取り戻して生きたいと思う。
まぁ今だから振り返って言える事もたくさんある。 睡眠をとる為だけに帰ってた家に居てもロクに眠れずにいた。 休日という名の公休はいつお呼びがかかるかという強迫観念との戦いだった。 その一回の電話を見逃したらもう終わり!みたいなそら恐ろしい日だった。 上昇志向が強くて人に雇われてるのなんてクソくらえだと思っていた。 なんのコネも持たない人間がとても小さくみっともないものに見えていた。 結局世の中金がなきゃなんにもできやしないし、金がなきゃ惨めなだけだといつも思っていた。 だからボンボンとかお嬢様とか呼ばれる人種に出会うと自分の力じゃなんにもできない奴等と締めくくっていた。 こういう思考の元はどこにあるのか今ならわかる。 世の中の不公平さに腹を立てながらも嫉妬していたのだと思う。 じゃあやってみろとチャンスをもらってがむしゃらに時間を惜しまず働いたけど、 仕事はそれなりに楽しかったところもあったけど、そこに自分求めるものは決してない事を思い知った。頑張って頑張って胃薬に睡眠薬に鎮痛剤に点滴にアレルギーの薬に胃潰瘍にもなって月のものも止まったし結構ぼろぼろだったと思う。体を引きずるように仕事に行く日々が大半を占めていた。起きたら顔を洗うのが当然だが、そういう教育も受けてきているのに体がしんどくてぎりぎりにならないと顔も洗えなかった始末だった。帰ってきて睡眠薬を飲んで風呂にもはいらず化粧も取らずそのままベッドに倒れこんで寝るのもしょっちゅうで、今から思えば性別うんぬんより人間としてヤバイような気がする。本人が気づかなかっただけでほとんどビョーキだったんじゃないかと思う。 自分の自由を殺す事と引き換えに見た世界は、それはそれですごいとは思うが、死んだらモトもコもないなと思うようなもので命をかけてまでやりたいと思えるものではなかった。
究極、人間の死亡率は100%と綾小路きみまろも漫談で言っているがその通りである。 誰かに認めてもらわなくても地位や名誉がなくてもたいしてお金を稼がなくても自分が目いっぱい生きたという自己満足でいいと思う。 明石家さんまが自分の子供に生きてるだけでまるもうけという意味でいまるちゃんと名づけたのはもっともだと思う。親にとって子供とは自分のDNAを継ぐ者。自分が生きた証である。その子供の存在が自分の存在を肯定するのだからそりゃまるもうけだと思う。 私には子供もいないし婚暦もないので子宝の意味を身をもって知る事はないけれど、生産性のある人間だと肯定されるのだからそれはすばらしい事だなと思う。
すばらしい事はごたいそうな世界よりもごく日常にこそたくさん存在するものだと身をもって実感した。
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