世を忍ぶ仮の日記
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2005年11月02日(水) 創作です

 久しぶりに会ったその人とは、もう口もきけない。


 偶然会ったのは銀座のクラブだった。取引先の東京証券取引所一部上場を果たしたばかりの会社の専務がひたすら自分の苦労話ばかりをしては、ママからの心無い合いの手で喜んでいる。俺は慣れない標準語と「僕」というへりくだりだけで既に疲弊していた。もともと下戸なのでウーロン茶を頼んだのが余計に専務の機嫌を損ねたようで「酒の飲めない奴に出世は出来ん」と話の隙間に必ず俺を責める。
 どうせ実力で出世したんじゃない。
 そう言いたいのは分かっている。
 親が一代で築きあげた会社はまだ到底一部上場など望めなかったし、俺自身、出世を望んでいる訳じゃなかった。親父は子供の頃から俺に逃げ場を無くしては跡を継がせるように仕向けた。俺は親父から逃げて逃げて、失敗した。それだけだ。
 出世したい人間に出世したくない人間の気持ちなど分かろう筈が無いし、逆もまたそうなんだろう。彼と俺には根から違う。
 それなのに何故こんなに長時間拘束されていなければならないのか。
 大阪に本社があるのに、東京の支社に飛ばした親父を恨んだ。恨んだって逆らいはしなければ、好きなだけ恨めばいい。親父はきっとそう言うだろう。30代で勝手に取締役にまでされて知らない街に来たばかりで、帰る理由も何処にも見当たらなかった。接待は立派な仕事だ。こなさなければならない。「そうですね」の相づち一つ、関西の言葉が入ると嫌な顔をされるので注意しつつ、こんな俺相手に話しても楽しくはないのだろう、お互い不毛な時間だけが過ぎていく。
 いかにも値段の無い味のウーロン茶が苦い。
 隣のテーブルは楽しそうに笑い声が絶えない。
 笑い声につられてふと見てみる。
 懐かしい顔があった。
 高校の頃によく行っていた喫茶店の店員。
 いつもよく行っていた喫茶店は小汚くて人もいなくて、だからよく行っては悪友と帰りたくない時間を楽しく潰していた。喫茶店の店員のIさんは、客にも店長にもぞんざいな態度な割には、人からよく懐かれていた。いつも悪い事を考えついた時に、更にあくどい手段を教えてくれたのは彼だった。いつも「ホンマにオレがやってんやから大丈夫やて」と言っては悪そうに笑っているつもりなのだろうか、人の良さそうな笑みになっていた。
 お互いに目が合った。思わず立ち上がる。向こうも俺を覚えてくれていたらしく、歩み寄った。
「久しぶりやないか。こんなとこで何しとんねん」
 肩を叩いたら、Iさんの両脇にいた男性二人が立ち上がった。Iさんがそれを制す。
 俺は何があったのか分からないままに、専務を思い出した。振り返ったら専務が手の甲を見せてひらひらさせていた。あっちに行けと。もう、今日の仕事、そして今後の取り引きについても、終わった。
「俺の方は大方察しついとんやろ、Iさんこそ何しとんねん、これ俺の名刺や、出来たばかりやけど受け取っといてえな。Iさんの名刺はあるんか」
 Iさんはバツが悪そうに笑う。笑顔は相変わらず人が良さそうだ。
「あるっちゃあんねんけどな」
「なんや、もったいつけよって。なんや昔から良いこと以外は何でもやる奴やったけど案外出世しよったんやろ」
 今日俺がいるのは、銀座の中でも座っただけで十万円の店だった。Iさんが来ているスーツも靴も時計も、俺とは比べものにならない値段の張るものばかりだ。
「昔の事は言うなて」
 Iさんはしぶしぶと名刺を出した。
 俺は名刺を見て、硬直した。大阪で知らない人間はいない○○○だった。
「まあ、そんなんやわ。せやからもう、話出来へんな」
 Iさんは笑って、席を立った。
「元気そうで何よりや。体に気ぃつけえな」
 去り際に肩を叩いて、Iさんは笑顔で出て行く。
 俺は、無言で、御辞儀をした。
「せや。見せたはええけどその名刺あったら問題出たらあかんから、処分しとき」
 俺は、首を横に振った。
「あかん」
 Iさんは厳しい声で、俺が持つ名刺を取り上げて破り捨てた。
 そして俺は、昔より数段大きくなったIさんの背中を、ドアの向こうに消えるまで見ていた。
 


 それから数年が経った。
 俺はあっさり大阪本社に戻され忙殺されている。暖かい家庭に憧れては見たものの居所は相変わらず見当たらず、馴染みのクラブでウーロン茶で時間を潰している。暖かい家庭を知らずに育つと暖かい家庭に憧れてもどうすれば馴染めるのか皆目見当がつかず、家に帰る度に息苦しくなっていく。
 親に譲られた土地は、住み慣れた土地ではあったが、同時に子供の頃の苦しい思い出に苛まれるのもしばしばだった。全てを忘れたくて仕事をした。気がつけば望みもしない出世街道を進み、やっかみで心を許せる人は無いに等しかった。酒に逃げる事も出来ず、逃げ道は何処にも無かった。誰か助けてほしい、心許せる人が一人いればそれでいい。誰も助けてくれない。ただひたすら仕事をする、仕事だけが逃げ場になっていた。体は蝕まれていた。夜遅く帰ると枕元にバナナだけが置いてある。帰らない夫に対する当てつけか。バナナに文句を付けたら、次の日はバナナとチョコレートだった。気付けば暖かい家庭では無くなっていた。親父からしつこく言われた跡継ぎの息子は俺に似て反抗期が激しく、家には滅多に居ない。偶に警察のお世話になるようだが、手を差しのべはしなかった。甘えさせるな。親父から教わった。俺はそうやって育った。実践していたら、暖かい家庭は崩壊していた。暖かい家庭を知らない人間は、暖かい家庭を築けないのだろう。
 住み慣れた筈の土地だが、開発で見慣れぬ街へと変化しつつあった。勿論、思い出の喫茶店など何処にも無い。
 今日も家に帰らず、遅い時間、繁華街の中にある食事が出来る接待用の店で、一人でコーヒーを飲んでいた。
 好みでは無いコーヒー。コーヒーだけじゃない、クリームの種類も気に入らなかった。昔の、Iさんの喫茶店は、コーヒーには拘らないくせにクリームには拘っていつも濃厚なクリームを出して、砂糖をたっぷり入れたコーヒーを混ぜながら濃厚なクリームを浮かせて飲むのが好きだった。
 繁華街にいると、どうしても色んな知り合いに会う。知らないけれど知っているというような人に会う。知らなくても「どうも。お久しぶりです」と笑顔で知っている人の振りをする。覚え切れない。それはお互い様なのか、全然知らない人同士だったというのもよくある話だ。
 疲れた。
 煙草を吸いながらぼんやりしていたら、ひとかたまりで誰かがやってきた。
 Iさんだった。
 Iさんも大阪に戻ってきていたようだ。
 また、お互い目が、合った。
 俺が立ち上がろうとするのを目で制す。その凄みは、昔には無かった強烈な目の力。
 噂には聞いていた。彼が、その世界で上まで上りつめたと。
 Iさんはコーヒーを頼み、一息で飲み干すと小さく御辞儀をして去っていった。
 俺の、大阪証券取引所に上場した会社の取締役という立場は、彼と知り合いであると、関係があると思われるだけでも、ましてや口を聞くのももってのほかなのである。上場した会社の株主総会に、総会屋の疑いがかかると、法律にひっかかるだけでなく、下手するとマスメディアにすら乗ってしまう。
 Iさんは去り際、俺の方を見る事すら無く、店を出て行った。


 俺が会計を済ませようとしたら、既にIさんが払った後だった。
 せめて「ありがとう」と言いたかった。
 せめて「元気か」と、訊ねたかった。
 もう、叶わない。
 俺が今の立場を捨てるか、彼が今の立場を捨てるまで。
 きっと、お互い、捨てられない。
 だから、ずっと、口もきけない。


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この話はフィクションです。実際の人物・団体・事件(?)には一切関係がありません。
て銘打ってみたものの、文字で検索されるのを防いだ為に随分ぼかされてしまって、
未消化な感じがすっげえします。
あと自分の力不足を痛感しました。
自分の力量不足に涙出そう。


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