| 2006年01月27日(金) |
短歌:目視の事実に限るなら |
癒しの森900
ここで何回も記述するが「なぜ癒しの森を書くか」と問われれば答えは明確で「対話の題材」の提供なのである。この本来の目的が叶いそうな気配となってきた。学校の先生OBグループと2003年8月以降の癒しの森を題材とする懇談会を開く方向の話が進んでいる。もう一件は短歌の会で同じく癒しの森を題材とした懇談会を開くか・・との話である。こんな話が出ていることもあるので1997年3月17日に書いた「短歌:目視の事実に限るなら」引用したい。
「3月17日 短歌:目視の事実に限るなら 3月17日の朝日新聞で沖ななも氏(歌人)の『短歌を読む』が載っていた。『短歌は1人称であるが故に、作品と作者が同一であるという考え方が幅をきかせてきた。そして私たちはあまりに長い間事実・現実・本当にあったことにこだわりすぎてきた。これが風通しの悪い作品を生み出すことになったのではないか。・・・創作というものを排除したことから短歌が面白くなくなったといっても過言ではないだろう。・・・読者に届いた時にどのように受け取られるかということで、事実であったかどうかではない。要は読者を感動させる力があるかどうかという事だ」とあった。
私がここで書き進めている短歌(31文字)は「事実・現実・本当にあったこと」という短歌の基本を無視して書いている。強いて言えば一定の概念をいかに分かりやすく伝えるかに軸足を置いている。短歌が目視の事実・現実・本当にあったことに限るのであれば、感動させる歌は少ないのが当然だろう。私が綴る31文字は、「こうではないか」と言う認識が多いような気がする。次の31文字はその典型である。
・人なるは 人の間で 人となり 人がなければ 人にならずか (1997年2月24日の日々の映像から)
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