イブの流した涙
▼▼▼今回の一言▼▼▼
財布の中身(レシートとかカードの類ではない)がみるみる減っていく

○そのうちに、2003年12月27日(土)「注文をとらない料理店」を完成させる予定

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感想専門の日記です

▼▼▼森博嗣▼▼▼
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完結編だそうです
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◎オススメは「MATEKI−魔的−」(詩集、PHPより発行)です
というより僕が好きなだけ

宝生出演の舞台観ました!(7/26)
詳しいことは月曜の日記にて
・・・と思ったけど
やっぱり水曜の日記分に書きます
と言ってて、未だに書いていない
そのうち書きます
それにしても、もうすぐ一週間経つのか
・・・もうすぐ三週間か
・・・もうすぐ四週間か
・・・一ヶ月越えたな
・・・それどころか二ヶ月経ったな
・・・もうすぐで三ヶ月だよ
・・・経ったな、三ヶ月
そして四ヶ月が過ぎ・・・
半年が過ぎ・・・
七ヶ月が過ぎ・・・
そして八ヶ月(一年の2/3)が過ぎ・・・
驚いたことに十ヶ月が過ぎ・・・
もうとっくに一年経ち・・・
一年と二ヶ月が経ち・・・
二年と二ヶ月が経ち…

2001年09月19日(水) 絡まる糸

今日の中居君の番組(「中居正広の家族会議を開こう!6」)を見て思った。
ヒトは、お互いをいかに幸せにしていくかを考えるという知的活動を取り組んでいけば、それだけ障害物の少ない道を歩いて行けるんだろうって。
人の為は自分の為とはよく言ったもんで・・・
自分の為を思うだけでは、自分さえも前に進めないのだろうね。
でも、そうは思っててもうまくはいかないもので・・・
うまくいったとしても、また次はうまくいかなくなったりして・・・
それでも、そういう努力をしようと思ってしていたら
またいいものを自分の胸にどんどん詰め込んでいけるんだろう。

結局、人間って何で生きてるかなんてわかんないだろう。
だからね、結局どんな風に生きていけばいいかなんてものもアヤフヤなんだよね、考えてみても。
で、やっぱり個人個人の感情というものを素直に受け入れていく事が大事なんだと思うね。
これに尽きるね。
感情を解き放して・・・
そうすれば、自分が見えてきて
相手の事も見えてくる
どうすれば自分の感情に素直になるかを考える過程として、他人の事を思いやるという事も必要になってくるんだろうね。

だからね、例えば一家心中とか、テロとかって、無責任なものでね。
そういう事件を起こしたら、その首謀者及び犯人は、世間に冷たく思われるんだろうね。
特にテロなんて犯したら、冷たくされるってもんじゃないよね。
でも、本人がもし死んでたら、今回の米連続多発テロのハイジャックした犯人なんて、もう苦しむ余地ないもんね。
という事は、人は、突き詰めて考えていくと、死ぬ前に、死んだあとの事を考えていかなくては駄目なんだね、きっと。
死後の名声というか・・・
要は、死んだ後、こんな風に思われたいなぁ・・・ということを考えるべきなんだろうね。
心から悔やまれながら死んでいかないと駄目なんだなぁ・・・と思うね。(悔やまれる度合いはまぁ考えないととして)
・・・という事が、気になる人にならないといかんのかなと思ったりもするね。
でも、それは理屈上のことであってね。
そんな事考えなくても、例えば人に優しい人はいる。
家族とも、友人とも世間ともうまく付き合っている人はいると思う。
人に優しい人は、自分にも優しい。(甘えるということではなくて)

一番大事なのは、<人は変わる>ということなんだろう。
不幸のままにも、幸福なままにもならない。
だから、もし不幸になっても、幸福になる事ができる。
だから、人は他人が不幸でも、その人の気持ちを汲み取る事が出来る。
なぜなら、自分が<不幸>というものを知っているから。
で、結局、人は、物事を<知る>ということが使命になってくるんだと思う。
<芸術>というのは、相手に自分の気持ちを伝えるのに、この世のニュアンスを伝えるのにいいツールだと思う。
人は、絶対誰もが幸福になれるなら幸福になりたいと思うに決まってる。
だから、半ば本能的に相手にも幸福に成ってもらいたいと思う事が出来るんだと思う。
妬みは、自分の弱い部分が形に成ったものだ。
人を妬んでも、何にも成らない事を、たまに僕は人を妬み終えたあと、落ち着いた時に気づく。
そんな弱い部分を強くするためにも、人はいろんな事を知って、経験していかないといけないんだ。

だから、僕は、その一つとして、そろそろバイトの一つでも始めたい。
彼女が出来れば、自分の弱い所が強くなり、
ひょっとして相手のそんな部分も強くなるかもしれない。
なんで男と女が互いを求め合うんだろう?
それを言葉で表そうとすると、実に抽象的で遠回しな言い方になってしまう。
でも、簡単にいうと、さみしいんだろう。
1人では、さみしいんだろう。
なんでさみしいんだろう?
ただ、子供を次の時代へ送るために一緒になるのか?
なぜ、性別が二種類あるのか?
二種類であるのに意味があるのだとしても無いのだとしても
僕たち私たちは(中学の卒業式じゃないんだから)、違う性を持つその存在に興味を持つ。
そして、次第に自分には無いものをそこに見出す。
神様は、なぜ1人の人間に男と女の両方を詰め込まなかったのか?
なぜ、いわゆる<2人で1人>という形をとったのか?
疑問だらけだ。

しかし、なんとなく感じるのは、人というある一定のレベルを持った存在は、他の動物よりも、不完全な部分が多いと思う。
色んな面で。
ああではない、こうではないと、様々な意見を交わしながら僕たちは世界を動かす。
そこなんだ、人の凄い所は。

偶然にも宇宙のある一点に生まれたこの地球には、様々な生命体が繁栄している。
人は、地球に住んでいる。
地球は、何の為にここにあるのか?
たぶん、ただあるだけだと思う。
人は、偶然にもこの世に繁栄している。
どんな動物よりも、知的な生命体として。
おそらく他の動物には到底思いもつかないような事を今までに成し遂げている。
それは、目に見えるものとして今もこの世に存在している。

ならば、人は、今までにしてたあらゆる事を、何の為に行ってきたのか?
それは、人類が繁栄するためにしてきたのか?
我らが地球の為にしてきた事なのか?
自分を幸福にさせるためにしてきたのか?
そのどれもがそうであって、そうでもないともいえるだろう。

結局、戦争は、それを統率するものを中心としたグループが、その他のものをコントロールするためにそうしている。
自分の言う事を聞かせるために、そうしている。
全てのヒトが、自分の思うがままになって欲しいと思う。

宇宙中のどこを探しても今のところは似た場所がないだろうこの地球という僕らの住処を愛する人は、地球と接していくだろう。
自分を愛するもの達と、自分が愛するもの達と、一緒に暮らす人がいる。
どんな規模の事でも、それが自分の為になるだろうと思う事を、みんなは実行していくだろう。

簡単にいうと、自分の欲望を叶えていきたいと思うのが人間だと思う。
欲を節するのも、自分の為にやってることだろう。
自分の思い描いたイメージ図を、現実と照らし合わせて僕らは進む。

そんな事を考えていると、なんで男と女がこの世にいるかなんて、バカバカしくなってくる。
そこにいるんだから
その事実は否定できないんだから
相手に興味を持つ。
どことなく違うものに興味を持つのは、それも<欲>の一つであって
まるで(というか、実際に)違う世界観を体験するかのように、相手という存在を知る。
それが男と女の在り方か?

自分に無いものを知り、自分というものを知る。
自分って、こうなんだ
それを掴む手がかりとして
男と女は引かれ合うのか?
人は、嫌がおうにも比較する。
あの人とこの人はココがこう違う
そんなこともある。
そして、例えば男がある女を見る場合、既に今までにもそこにあったような感覚に陥るほどまでに、その女性(ひと)を自分の中に取り込んでいる時がある。
それは至極当たり前であって、あまりにも感覚的過ぎて何の根拠も無いような、理屈では到底語り尽くせないものによって、その人を特殊な存在であると思ってしまうのだろうか?
そしてきっと、それがその一瞬に起らないとしても、いつのまにかそうなっている場合というのも同じくらいにありえるだろう
それと一緒で、男が女を知る事で、逆に自分を知るのではないか?
1人の女を深く知る事で、自分をも深く探っていく・・・
そして、ますます絆は深まっていく・・・のか?

別れる男と女っていうのは、お互いが、または片方が相手の事を気に入らないということなのだろう。
不倫は、離婚の原因の一つになる。
他に自分を求め、相手もそれに答え
1人ポツンと残る女
それが、別れの一つのパターン
その男は1人の女を裏切ったのだろうか?
なぜ、その男は不倫をしたのか?

自分の為にも相手を求めるなら、その期待にこたえてくれる相手は、自分にも期待を求めるだろう。
そして、お互いが自分と相手を知り合いながら、自然と絆は深まっていく・・・
失恋というものを味わい、悲しみに暮れる人は、孤独というものを超えた狂おしいほどの自分という存在を味わうのだろうか?

もう、細かい事は置いておこう。
人は、皆孤独なのである。
孤独を分かち合う相手を、より自分の深い所にまで入ってきてくれる相手を求めている。
それは、友達であったり、彼女であったり・・・
人は、恐怖という虚構ととなり合わせの現実の中をさまよっている。
ただ、そんないつ沸いてくるかワカラナイ恐怖を1人で孤独に味わいたくない!
そう思い、きっと知を求め、知って知って知る事によって、恐怖に打ち勝とうとでも思っているのかもしれない。

恐怖、孤独、孤独を慰める相手(知)
これが、この世の全てであると言えるかもしれないと思うのは、僕だけであろうか?
そして、その三つをどうバランスよく操るかによって、人はそれぞれに感じるものに変化をもたらすのではないのだろうか?

因みに、恐怖とは<想像、先入観>であり、孤独とは<自分とこの世にある距離を思う事>であり、孤独を・・・というのは、その他の何でも、例えば自分の生命を維持させる生活必需品は、<死>という孤独から逃げるものでもあるし、芸術というものも、心に何かを感じさせる事によって自分の存在をよりはっきりさせ、それをこの世に結ぶ付かせ、来たる<死>に突入する為の準備をし、やはりこの世での居場所、あの世での居場所を見つけるんだぞ!というものであるように思う・・・
(一つ参考になるのは、EARTHという単語の先としっぽのアルファベットは、それぞれ
E・・・Eden(楽園、大地)
H・・・Heaven(天国)
であり、その間には
ART(芸術)
の文字がある。ということで、
<大地と天国を結ぶのは、芸術だ>
という、洒落た発見がEARTHという単語にはある。
しかし、これを侮ってはいけない。
この世にも、あの世にも孤独を感じる僕たちは、(実際には僕は<死>というものにはこの世から存在が亡くなってしまい、ただの固体になってしまうと捉えているので、その後の世界はもうないと思っている。そう覚悟している、今のところは。なので、この世と離れてしまうという意味で、孤独だなぁと思う。)ARTというもので結んで、何とそれはすばらしいんだろう!と慰めているんだろう。)

他の全て、例えば暮らしを快適にする類のものは、それに幸福感を求めているといえる。
と、考えると、やはり、恐怖(先入観)と、孤独と、孤独を慰める相手(恐怖は、慰めようがないような気がする。)が、この世の全てであるような気がするのである。
恐怖と孤独の違いは、会社で言えば、上司に起られる前と、その最中とその後に説明できる。
前には恐怖を感じ、最中とその後には、他人と自分との間に隔たりがあるかのような孤独を感じないだろうか?

うーん、人間って一体・・・

人は、孤独を拭うために欲望を持つ。
人は、自分の為にヒトを好きになる。
そういうことなのか?
結局は。

−THE END−


 < シーラカンス  everyday history  光の射す方へ >


ダーZ [MAIL]

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