2005年03月16日(水) 人の気分は人の気分だ付き合えねえんだ使えないんだ
何度か書いていますがまあ井ノ本的には2005年は主観的にひどい年だったわけです いわゆる黒歴史 事実は書いても意味がないと思うので書きません もっとひどい目にあっている人がいるとかそういう話は聞きたくないのです それをしんどいと思えばそれはしんどいことになるのです そう思うようになったのです そう思うようになってやっと気が楽になれたという感じなのです
なんというかそれなりに恵まれた環境に生まれてしまい うっかり小器用に勉強ができてしまったりとかするせいで 気がつけばいろんなことを期待されたりするようになっていました おもしろいもので人は期待に応えたものに対してもっともっとと思うようです そして応えれば応えるほど応えるのが当たり前だと思うようになるのです それがチキンレースになっているということには案外気がつかないものなのです
もともとそんなに想像力があるわけでもないので他人様のもちものや境遇をさして羨みも蔑みもせずにいました だって他人のものだもの ジダンは好きだけどジダンをうらやましいとは思わない 簡単に言っちゃえばまあそういうことです だけどそうではない人も多いというのは事実で 知らんうちに羨ましがられたり期待されたりするようになっていたりしました それをするなと言う権利はわたしにはないのですが そういわれるたびにわたしは落ち着かなかったわけです なんといったらいいのでしょうえーと それはわたしの望むことではないのですよということがなぜか言えなかったのです どこかでそれらの期待や羨望というのは相手がそれをほしかったのに手に入らなかったからなんだなということに気づいてしまったからなのかもしれません 相手がほしいものを否定してしまうことが申し訳ないことのように思えたのかもしれません でもここでわたしは基本的かつ根本的な間違いに気づかなかったわけです 自分はべつにそうしたくないし期待に応えるようなこともしたくないと思うことに対して自分を戒めてしまったのです 結果として口幅ったいのですがなんのかのいってそれなりに期待に応えてしまい 期待値が大きくなればなるほどに自分がしんどくなっていくことから無理やり目をそむけていました 別に勝ちとか負けとかどうでもよいのです 手の中にあるもの以上はさしてほしくもないのです だけど気がつけばもっともっとと急き立てられ できるはず、ではなく、できてあたりまえ、というところまでハードルは上がり なんというかもう疲れてしまったのです 疲れ果ててしまったのです 期待に応えるのにはもう疲れてしまいました 自分がしたいかどうかとできるかどうかがどんどん乖離していくのがこわくてたまらなくなりました できるけどしたくない だってやりたくないから やりたいことはそういうことじゃないから というたったそれだけのことがどーーーーしても言えなかったのです それでどんどんしんどくなってった
去年の秋の終わりだったかと思うのですが もうだめだなあと思ったときにわたしの口をついて出た言葉は 「耐えられない」 でした 「嫌だ」 とかじゃなくて 「耐えられない」 そーかわたしは耐えてたのか 我慢をしてたのか だったらそうだよな なんで耐えなきゃいけないのかな おかしいな もう耐えられないんだから耐えるのはやめよう 我慢はやめよう 自分がつらいと自分がしんどい 自分がしんどくないようにしたい 自分を楽しませたい 楽しくしたい 書けば単純な言葉ですが単純なことほどなかなか実感はできないものです 口にしたときにほんとにわかった ほんとーにこれまではしんどかったんだなあと
別に誰かを責めるつもりはありませんし誰かや何かのせいにする気もありません ただ自分はそうだったんだなということです そしてそうだったからこそこれからはもっと自分を楽しませたいなと思います 楽しまなきゃじゃなくて楽しみたいなあくらいの感じで
とまあだらだらと書き連ねましたがピーズとかの歌詞だと1行ですからすごいですね (と、タイトルに戻ってみる)
わたしの一生なんてピーズの歌詞にしたら1曲分もないかもしれません 時間にするとYAZAWAの10分くらいかもなー でもいいんです だってそれがわたしの一生なんだものー |
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