| どうせ誰も見てないので |
桜の写真がある。 データには2005年4月14日という日付になっている。 大学院時代、神戸で入社試験の面接があった時に 灘駅付近から異人館を抜けてフラフラと スーツ姿のまま撮りに行ったものだ。 その後グラジャガのライブがあったので フラフラしていたのだと思うが、 この写真は自分がダメになりそうな時に ずいぶんと支えてくれていたように思う。
神戸は自分が生まれた街である。 母の実家が神戸だったため、生まれてから 少ししか滞在はしていないが、 特別な街であることに変わりはない。 そのことを差し引いてもこの街の文化、 景観、雰囲気、懐かしさ、人々の優しさなど 色々な面で愛する街である。
そんな愛する街が桜の開花によって ピンクに染まっている。そんな写真をさっきまで眺めていた。 日本人の原風景には桜の満開になる風景が刷り込まれている とかねてから思ってはいるが、愛する街と桜の組み合わせは なかなかに私の心を揺さぶるものがある。 そしてその写真の中にまだ残る桜の蕾を見て ふと落涙しそうになった。
いずれは開花し散る運命にありながらも 健気に蕾を膨らませて花を開こうとしている。 それに比べて自分の今の状況の何たる情けないことか。 ただ日々の忙しさに流され、休日は強制的に連れて行かれる やりたくもない運動で疲れ果て、残りの時間は寝てばかり。 確かに自分は社会人としては蕾なのかもしれないが、 しかしこの蕾は咲く気配が全く無い。 花が開く前に枯れてしまいそうな状況である。
青臭いことを書いてしまうかもしれないが、 今の自分が生き生きとして自分らしく生きているか? と聞かれれば間違いなく首を横に振るだろう。 日々疲れ果て、心が締め付けられていくような感覚に 日ごと襲われている。特にここ最近はそうだ。 もうボチボチ限界が近付いてきたのかもしれない。
昨年の後半から久方ぶりに会う人からは必ず 「苦労が顔に表れているよ」 と言われるようになった。 無理しているのは自分でもわかってはいたが 目でわかるようになったのは問題だ。
確かに社会的に見れば「甘え」かもしれないが しかし、その社会の根幹とはいったい何なのであろうか。 社会人として働くことも大切ではあるが、 一人の人間として生きることも大事である。 別に社会の歯車のひとつにならなくても世の中は生きていける。 そう考えるようにも最近なってきたのは 心のどこかで救済を求めているからであろう。 それは何よりも自分のような歯車がひとつ抜けても 変わりは幾らでもいるということに気づいたからでもある。
だからこそ、今、早い段階での修正が必要であると そう考え始めたのである。 向いてないことをいつまでも無理して続けなくても 別の方法を考えればよいのである。 窮屈に生きるよりも思うままに生きればいい。 あの写真に写っていた桜の蕾のようにいずれは 花を咲かせるために少しの寄り道を経て もう一度やり直せばいい。 あの街の写真がそう語りかけているような気がした。
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2007年02月25日(日)
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