| 2002年01月29日(火) |
鈴木英治「飢狼の剣」(ハルキ文庫)を気分転換に読み始める。 |
鈴木英治「飢狼の剣」(ハルキ文庫)を気分転換に読み始める。最近時代小説といえば、佐伯泰英、鳥羽亮、宇江佐真理にとどめをさすというふうで、その他の作家に手を伸ばす勇気がなかった。それでも、裏表紙の「いやはや、対決シーンは燃える!」に始まる細谷正充氏の絶賛の言葉を無視できず読みはじめた。 冒頭は清水角兵衛という同心が見ず知らずの浪人に、人が倒れているから来てくれ、と声をかけられる場面である。清水というさわやかさと角兵衛という頑固で強さを相反するイメージを連想させる名前からおそらく主人公だろうと見当をつけて読み始めると、とんでもないことになってしまった。 期待をすかす面白さがある。最後まで読んでいないのは無責任極まるので、こうする。まず33ページまでは絶対に面白い。この後も十分期待できる。 まだちょっとしか読んでいないのに大げさである。 ところで、今日はスウエーデンのリンドグレーンの死亡記事を見た。冥福を祈る。
ついさっきテレビで大橋巨泉氏が議員を辞職したのを知った。昨日の予算委員会の模様も含めて日本がますます「読めない」国に変貌を遂げつつあることを感じる。「食えない」国になるまでもう一歩なのだろうか。
| 2002年01月28日(月) |
上野瞭さんの訃報を見た。 |
上野瞭さんの訃報を見た。最近はエッセイ集ないし意見集のような本をときたま読むだけだった。具体的には憶えていないが大病をして体力が落ちて肉体的には生活がつらくなったというような文章を読んだ印象がある。 児童文学の評論にせよ、日本社会への批評的文章にせよ、骨のある生きかたと筋の通った主張が好きだった。3年か4年おきに出る随筆集を読むのをひそかに楽しみにしていた。今、手元にあるのは、1978年の「われらの時代のピーター・パン」(晶文社)と1985年の「日本のプー横丁」(光村図書)の2冊。潜在意識のレベルで、は大げさであるにしてもだいたいいつも気になって手近に置いてある本だ。筆者が亡くなってからでは遅いが、少しずつ読みなおしたい気分になっている。 学生時代に、佐藤暁やいぬいとみこ、神沢利子、さらにイギリスの伝統あるファンタジイに出会っていなければ、上野瞭さんの作品とはかすりもしなかっただろう。 先日の、いぬいとみこさんにつづいての同時期の上野瞭さんの死去は衝撃が強かった。 改めてお二人のご冥福を祈る。
| 2002年01月27日(日) |
最近、立花隆全否定という感じの本や言葉を目にする。 |
最近、立花隆全否定という感じの本や言葉を目にする。これは何かの理由で立花隆への風当たりが強くなったことを意味するのだろうか。東大生からの反撃と単純に割り切れないものが底にあるのではないだろうか。というのは考えすぎで尻軽なマスコミの体質がその時の都合によって吹かせている風にすぎないというべきか。 立花隆否定で本が売れると判断すればその線を狙うし、そうでないと見れば逆に礼賛に回る商業主義の典型的な現象の一つ。 集英社の「青春と読書」増刊号の特集「私が選んだノンフィクションベスト3」の中では、「臨死体験」2「21世紀知の挑戦」1「田中角栄研究」2「サル学の現在」1の四冊が選ばれていた。 再び、まとまった読書ができなくなってきた。なんとかせねば。
| 2002年01月26日(土) |
「アカシックファイル 閻魔総理の正体」で明石散人が復活。 |
「アカシックファイル 閻魔総理の正体」で明石散人が復活。講談社の月刊文庫情報誌「IN☆POCKET」1月号で明石散人の「アカシックファイル」の連載が再開された。その第1回が現・首相批判・批評である。溜飲の下がる思いはするがこういう本の中で吼えても仕方がないかという思いもある。それに刊行しているのが一応大手の出版社なのだからこれでも巨視的に見たら当たり障りのない文章にしかすぎないのではないか、あるいはこれも現政権の維持に結びつく方便なのではないか、などとも考える。世の中のバランスを取るための一つの手段となっているとも思える。 この中で予測している「高卒者契約志願兵制度」は確かに最近の日本の動向から考えると決してもうくだらない夢物語とも言えない。 「編集者の学校」「向田邦子・映画の手帖」「黄色い目をした猫の幸せ」「ボトムズ」などを並行して読んでいる。 最近の新聞には毎日「警告」が載っている。ニューヨークのテロ事件に端を発して、日本が徐々にきな臭くなっているせいか。戦前と同じ状況になるまであと一歩といろいろな形をとった「警告」が存在するようになった。
|