読書日記

2002年01月02日(水) 舞城王太郎「煙か土か食い物」(講談社ノベルス2001.3.5)を読む。

 舞城王太郎「煙か土か食い物」(講談社ノベルス2001.3.5)を読む。主人公「俺」のしゃべりや思考をそのまま文章にした文体なので最初はとまどうが直に慣れてくれば今度は随分だらだらとおしゃべりの尽きない奴だなと呆れてくる頃に本筋と思われる事件とは全然別個に「俺」の一家の恐るべきエピソードが次から次へと披露されて特に四人兄弟の次男の二郎(「俺」は四男で四郎)と超封建的父親の暴力的葛藤の物語は本筋以上に面白く事件などどうでもよくなるような賑わいと暴力の世界で目をそらすのが困難な求心力があって「俺」の過剰なしゃべりももう気にならなくなっているし、この超犯罪的一家の前にはこのサイコ的犯罪についての推理もどうでもよくなっている。事件よりもこの一家のことをもっと語ってくれという気持ちになっている。
前に読んだ「ドゥームズデイ(審判の夜)」もそうだったように講談社のメフィスト賞受賞作は無慈悲で暴力的破壊的なものが多いのだろうか。確かに独創性はあるが、刺激が過剰である。そして、過剰なわりに漫画的である。読んでからあの永井豪の「あばしり一家」を思い出した(大分違うかもしれないが)。漫画的というのが褒めているのか、けなしているのか、自分でもわからないのだが。
既に続編が出ているらしい。過剰な才能を感じる不思議な小説だった。
準・準・傑作。
今、思い出したのは、「ケイゾク」というテレビドラマ。あれと同じような仕組みの犯罪を描いた話だっのかな、と。



2002年01月01日(火) 逢坂剛「重蔵始末」(講談社2001.6.29)を読み終える。「釣りバカ日誌12(史上最大の有給休暇)」

逢坂剛「重蔵始末」(講談社2001.6.29)を読み終える。
準・佳作。(これは勝手な言い種で、客観的な評価ではない。目印のようなものである。)
全五編の連作短編集で「赤い鞭」「北方の鬼」「七化け八右衛門」「茄子と瓜」「猫首」から成る。あの鬼平と同時代の近藤重蔵という火盗改与力が主人公である。鬼平に仕えていたわけではなく別の組に属し二十一歳の若さながら鬼平と共通する凄味と智略で事件を解決していくという物語になっている。とても二十一歳とは思えない風格が感じられるので大酒飲みで色好みらしいのに加えて学者でもあるという特色を持っていても、鬼平二世のようにこちらが読んでしまう。しかし、鬼平にはない趣向の「茄子と瓜」という博識がひとつのみそになっている話もあり、運動系や人情系だけでない文系の要素が今後もっと増えてくれば独創的な時代小説になりそうだ。
「猫首」はちょっとぞっとする話で重蔵含めて関係者がみなぶるっと震えた。
ビデオで映画を見た。今日は「釣りバカ日誌12(史上最大の有給休暇)」。
準・駄作。(割と楽しんだので、「準」)
ずっと続けて見ているのでいつもそれなりに楽しんでいるが、結末がないような終わり方であった。次の13に続くなら続くとはっきり示してほしかった。ないということは続かないのか。などと今でも考えている。人騒がせな終わり方。



2001年12月31日(月) 柴田よしき「紫のアリス」(文春文庫2000.11.10)を読んだ。中井じゅん「母娘練習曲」(ハルキ文庫2001.1.18)を34ページまで。

柴田よしき「紫のアリス」(文春文庫2000.11.10)を読んだ。題名の通り「不思議の国のアリス」のアリスのように主人公が不思議な事態に巻き込まれ、殺されそうにさえなる。そして、その主人公は中学生時代の学校祭でアリスを演じていた。
ルイス・キャロルの創造した「アリス」の世界のイメージが過去と現在の事件をつないで主人公を追い詰めていく。優しくしてくれる親切な人々と知り合いになりそのおかげで事態が好転するかと思いきや彼女は時間の渦に閉じ込められたかのごとく最悪の方向へ導かれる。
最後の一ページまで少しも気の抜けないサイコ・サスペンス的ミステリーである。一気に読めたが物凄く面白いというには微妙な結末である。「保留」としておこう。読む前に明るく軽快なミステリーと勝手に思い込んだせいもある。
よく考えてみるとこの作者は一筋縄ではいかない小説家だったのだ。こちらの期待するような安易な物語を作るわけがなかった。
とりあえず勝手ながら、準・佳作としておこう。
中井じゅん「母娘練習曲」(ハルキ文庫2001.1.18)を34ページまで。「紫のアリス」よりも読み出したらやめられなくなる「エビセン」本である。そう感じて早々に読むのをやめた。「ちゅらさん」本と名付けても良い。はまったら大変だ。そんな達者な感じの面白くないわけがない本と見た。
「似ている!」である。



2001年12月30日(日) 芦辺拓「時の誘拐」(立風書房1996.9)を読んだ。谷沢永一「紙つぶて(完全版)」(

芦辺拓「時の誘拐」(立風書房1996.9)を読んだ。トリック重視の普通の本格ミステリーなのだろうと読み進むうちにそれが速断または偏見だったことに気がついた。トリック重視だけではない大きな特色に気がつかざるを得なくなった。作者は大きな冒険を二つしている。一つは、謎の部分の工夫である。それこそトリックに関わっている。現代的な道具、地理的なもの、時間的な結びつき、人間関係、人間の生き方などをモザイクのように配置している。二つ目は、作者の哲学に関わる部分である。部分といってはまずいかもしれない。作者の哲学なり考え方が語りや登場人物に託された形で物語世界を特徴あるものにしている。小説だからそれはあくまでも物語の語り手や森江春策の思想にすぎないという考え方も正論だとは思うが、これだけ色濃く現れていると作者になぞらえてしまうのだ。
そういう意味で骨太且つ重厚な本格ミステリー小説として重要な作品である。
おまけ。犬が登場する小説としても買いである。(ただし出番は少ないのが惜しい)
吉田健一の名前からの連想で、谷沢永一「紙つぶて(完全版)」(PHP文庫1999.3)を久しぶりに手にとった。1970年代から1980年代中盤ころまで本や読書についての本や文章が特によく好まれ読まれていたような気がする。個人的には丸谷才一の「梨のつぶて」(晶文社)が始まりで、終わりは篠田一士の死去である。吉田健一は英国文学の名翻訳者としてだけでなく個性的な名文家、読み巧者、さらに奇妙な幽霊話作家としても注目を浴びていた。(ような記憶がある。だいぶ忘れてきているのであしからず。朝日新聞の文芸時評もしたかもしれない。集英社文庫にもあったし、その集英社から「吉田健一著作集」も出した。)谷沢永一の「紙つぶて」も吉田健一の書評もそういう時期に集中的に読んだものだ。今出回っているもので面白いなと思うのは「ミステリマガジン」の都築道夫さんの文章くらいか。継続的量的には「本の雑誌」の北上次郎さんの文章を一番読んでいることになる。かつて「小説推理」を定期講読していたことがあるのも北上次郎の連載があったからである。(今は買っていない。)
書評の文章に熱気がありそれがなんともいえず面白かった時があったのだ。



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