読書日記

2001年11月27日(火) エリザベス・ヘイドン「ラプソディ」(早川FT文庫)をちらっと読んで冒頭で驚く。

エリザベス・ヘイドン「ラプソディ」(早川FT文庫)をちらっと読んで冒頭で驚く。こんな始まり。「時間編集装置に向かって仕事を始めたメリディアンは、レンズを調節して透き通った巻き糸を調べた。過去のははっきりした太いフィルム状、未来のはもやもやした細い糸、というように密度が異なっている。」まるでコミックのような荒唐無稽な設定を笑う者はどうぞ遠慮なく笑いたまえ、私はそのSF的荒唐無稽な描写にしびれた。遠い昔「タイム・トンネル」という海外ドラマがあった。一種のタイム・マシンで「現代」にある転送装置に時間旅行者(放浪者)の存在が同調すると大画面に時間旅行者たちの姿が映像となって現れるという場面を思い出した。「ラプソディ」ではさらにとんでもないことが起きる。画面を止めてそこに映し出した人間に一種の目薬をさすのだ。最初の数ページだけでその設定に随分と驚かされた。野暮用でこの続きは当分読めそうにないが、期待出来そうな物語である。



2001年11月26日(月) 「銀の雨」「R.P.G.」「25時」の長めの感想。

銀の雨(宇江佐真理)
堪忍旦那と呼ばれる三十六歳の同心、為後勘八郎が主人公の時代小説である。堪忍旦那の由来はのっぴきならない事情があるときは罪科を堪忍してくれる、つまり見逃してくれるところから来ている。顔は悪いが人情味の厚い融通の利くやさしい同心なのである。しかし、登場人物の中で何よりもいい味を出しているのは子供たちではないか。大人顔負けの生意気な言動は爽快ですらある。人によってはむしろ癒しの薬になる。周りの大人たちの姿を見て健気に生きている男の子や女の子が見事に描かれている。出来すぎていると言うなかれ。その小さな魂の張りつめた心に素直に感動の涙が生まれてくる。やがて成長して大人になってゆく子供たち。現代でいうなら小学校6年生、中学生くらいの少年少女たちの上にも年月は流れる。主人公、為後勘八郎の娘小夜は十三歳ほどで登場し、最後の話の時点では十七歳の新妻になっている。その過程の逸話が丁寧に綴られていく。今よりもはるかに早く大人にならなければならない子供たちの全五話からなる連作集として読んだ。堪忍旦那が関わった四年間に起きた事件の捕物帳ではあるが、記憶に残るのは、子供たちである。小夜、ゆた、梅吉、みち、そして主馬。

R.P.G(宮部みゆき)
メールによる親子の会話から始まり、次に警察署内の会議室における警察官同士の何かの顔合わせの場面になり、次に事件の概要が説明される。殺人事件の捜査が始まっていることがわかる。思わせぶりな始まりで引き込まれてしまうが、この作者の作品としては期待外れと言うしかない。しかし、思い込みや錯覚を利用して読者に先読みの快感をサービスしていくのは相変わらずでその点は流石である。ネット上の家族という最近の風俗を取り入れている点でも作者の先進性が出ていて文句がない。こうして改めて点検すると不満な点はどこなのかが曖昧になってくる。逆説的にこういうところに宮部みゆき(敬称略)の凄さの一端がある。語りの見事さに引き込まれてわき目も振らずに楽しく読んでしまいました。面白かったです。と、言うしかないのは確か。大長編「模倣犯」の語り口はこの作品でも生きている。今、宮部みゆきが語ればどんな話も魅惑的になり、ベストセラーになる。ここまで書いてきて自分の気持ちがわかった。ベストセラーになってほしくないのだ。この作品が「初の書き下ろし文庫」と宣伝された時「売れる」と感じた。それは不満だったのだ。実は読む前から不満があってそれに理屈をつけようとしていたのである。適度な長さで現代日本の一面を描き、退屈しのぎに調度よい面白さ。しかし、どうせ現代日本人心の闇を描くなら踏ん張ってあの「ウィルソン・シティ」を完成させてほしかった。

25時(デイヴィッド・ベニオフ)
これはいつごろの時代の話なのだろう。刑務所に入る前日の若者とその家族や友人たちの行動や会話、独白が淡々と描かれてゆく。主人公の若者の生活や行動はもちろんしっかり説明されるが、恋人や親、友達についても結構詳しい描写が費やされる。印象的なのは、学校の教師をしている友人のエピソードである。教え子の女生徒との皮肉な落ちは読み終わってからも妙に心に残っている。最も愛情を以て描かれていると感じたのは主人公の愛犬ピット・ブルのドイルである。じっとしている姿、寝室のドアの前で寝ている姿、自由に走り回る姿、人間を描く以上の丁寧な描写である。結末については賛否もしくは解釈が分かれるに違いない。印象的な終わり方であり、魅力的な終わり方である。ハッピーエンドを求める人はそういう風に読めば良いし、シビアな結末以外説得力がないと考える人はそう読めば良いと筆者が言っている気がする。魅力的なわけはそれまでの地道な展開がビートに乗って一気にひっくり返される快感があるからである。地を這っていた蛇が突然大空の彼方に飛び去ってしまったような思いがけない驚きによる心地よさがある。それにしても小説でこう言うのもおかしいが、真実はどちらにあるのか。つまり、結末の部分にあるのか、それともそこに至るまでの物語の部分にあるのか。意外にモンティ爺さんのほら話だったりして。冗談はさておき、この結末からもう一度始めから読み直す行き方もあるだろう。殺伐たるところもある現代に生きる大人を1時癒すための寓話は何度読んでも汲むものがあるはずである。





2001年11月25日(日) 巽昌章「埋もれた悪意」を読んだ。

巽昌章「埋もれた悪意」を読んだ。アンソロジー「有栖川有栖の本格ミステリ・ライブラリー」(角川文庫)中の一編で考え応えのある短編小説である。本格ミステリ的に論理的とはこういうことかと推理に頭を悩ました後に真相を知った時そう思った。いかに先入観によって物事を正しく見られなくなっていることか。同書には他につのだじろう氏の本格ミステリ漫画「金色犬」があり、目を引く。
佐野眞一「渋沢家三代」(文春新書)は54ページまで目を通す。歴史までも簡単に消費していく現代の日本においてこういう本やさまざまな歴史関係の本を読み、忘れられた過去の姿を取り戻すことは意識的に必要なことのような気がする。
今日は2冊の雑誌に軽く目を通した。
「ダ・ヴィンチ」12月号、「月刊アスキー」12月号どちらも飛ばし読みである。
今週はずっと野暮用が続くので本はほとんど読むことができない。



2001年11月24日(土) 「日本の歴史」(岩波新書)の井上清氏の訃報記事。先程夕刊を開いて驚く。

「日本の歴史」(岩波新書)の井上清氏の訃報記事。先程夕刊を開いて驚く。ほんの1時間前に久しぶりの勉強のつもりで開いた岩波新書「日本の歴史」の著者である井上清氏の死亡記事があったからだ。これには驚いた。ご丁寧にも巻末の著者紹介の欄で1913年生まれなのを確認して過去の人扱いしたばかりだったから確実に驚いた。20年程前にも詩人の黒田三郎さんの随筆集を読んだ夜の次の朝にご当人の逝去のニュースを見てびっくりしたのと似ている。
とりあえずその記事によると、京都大名誉教授で専門は日本現代史で、11月23日の午後7時26分肺炎のため死去、87歳だった。高知県出身で自宅は京都市左京区若王子町12にあり、26日近親者で密葬の予定。喪主は妻の初江さん。1936年東京帝大文学部卒業。1946年の著書で天皇制批判を展開し、現代史研究の指導的立場になる。1961年京都大人文科学研究所教授になる。1969年の東大闘争をはじめとする学園紛争では新左翼系学生支援の姿勢を鮮明にし、政府と対立した。「日本の歴史」など著書多数。岩波新書には「条約改正」「日本の軍国主義」「部落問題の研究」「日本女性史」「戦後日本の歴史」が紹介されている。
「人はだれでも、歴史によってつくられ、歴史の中に生きており、そして何らかのしかたで歴史をつくっている。しかし、すべての人がこのことを自覚しているとはかぎらない。じぶんをつくり、じぶんがその中に生きている歴史を、自覚するとき、われわれは、自覚して合目的的に、歴史創造に参加することができる。」
これは「日本の歴史」のまえがきの冒頭である。今でも全く古びていないおもむきのある文章である。
今日も野暮用で本は読めなかった。
ちょっと目を通して続いていない本。
「新・SFハンドブック」(早川文庫)
立石泰則「覇者の誤算(日米コンピュータ戦争の40年)」(講談社文庫)
佐野眞一「業界紙諸君!」(ちくま文庫)


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