読書日記

2001年07月31日(火) 辻仁成「海峡の光」読む。山田風太郎、逝く。

 辻仁成「海峡の光」(新潮文庫)を読む。
 小さなエピソードの積み重ね方、挟み込み方が巧みだ。この人はどんな人なのかと考えるようになっていて、そう考えていると具体的な話が、結構刺激的な話が出てきて、それに釣り込まれていく。
 エドガー・アラン・ポーの「ウイリアム・ウイルスン」を思い出した。他者を鏡とする自己との戦いの物語。他者にも自己にも敗北したことを認めたくないのだが、既に負けたことはおのれがよく知っているのだ。
 作者は細かいところまでよく取材している。三十代後半の年齢の人が書いた物語とは思えないところがある。五十歳程度の人の経験が必要と思われる内容と語り口である。主人公の年齢が三十歳前後だから問題ないといえばないのだが。妙に老成した小説と感じた。 また、その話そのものもどこかで読んだような見たような知っているようなという思いが常にあった。主人公の考え方というか感じ方もこういうのはどこかであった。人間関係の描写も。具体的には何も浮かばないのだが、そんな感じがつきまとって離れなかった。 盗作というようなことではなくある種の模倣ないし勉強の成果ないし読書の記憶なのだろう。だから「海峡の光」は過去の文学作品の成果から導き出された一つの模範解答というべきなのだ。作者の従来のイメージを打ち破る伝統的正統派文学の結晶である。
 山田風太郎が死亡した。七十九歳。病気のせいで最近は作品を書いていなかったが、先だってインタビューを元にした本が出版されたばかりだった。忍法帖もの、幕末・明治開化もの、柳生十兵衛ものなど独創的な物語作者だった。
 R・D・ウィングフィールドの「クリスマスのフロスト」(創元推理文庫)を本棚の奥から探し出す。シリーズ3作目「夜のフロスト」が先ごろ出たからである。未読の2作目「フロスト日和」を味読しようと思ったのだが、1作目は読んだはずだよなあ、となった。はずだが、内容をまったく覚えていないし、内容を忘却しているのはいつものことだとしても読んだか読んでいないか、または面白かったか面白くなかったかくらいはおおむね覚えているのに、「クリスマスの」は最低のそれすらわからない。そこであらためて読んでみることにしたのだ。思い出したらやめる。
 「始祖鳥記」はしばらくおあずけとなった。



2001年07月30日(月) 北村薫「リセット」読了。森鴎外「独身」を読んでみた。

北村薫「リセット」読了す。
 1995年の「スキップ」、1997年の「ターン」そしてこの2001年の「リセット」と読んできて、なんといっても「スキップ」が面白かったと思うが、複雑な気分でもある。「ターン」は「スキップ」とは雰囲気や設定に相当の違いがあって、さわやかさはあったが、意外性に乏しいぞ、「スキップ」を超えていないぞ、と言いたいの我慢して面白く読んだ。今回の「リセット」は当然「スキップ」を凌駕しているにちがいない、と余裕で臨んだ。至福の時到来!物語神降臨!信じて読み始めた。
 「盤面の敵」の作家がたくらむ大きな仕掛けを期待した。
 しかし、少女趣味的な語りで始まったセピア色した時代の物語は、たいしたうねりもないまま途中で語り手が変わり、変わっても話は予定調和的にしか展開せず、終わってしまう。残念ながら、達者な語り口のおかげで飽きずには読めたが、はずれだった。「盤面の敵」の凄さがあれば、と思った。
 最近似たような話を読んだと「ライオンハート」(恩田陸)を想起した。「スキップ」も連想した。
 「スキップ」は過去と現在の途中が消える話。「ターン」は現在の時間が過去と連環する話。では「リセット」は、死んだ人間のこころ(?)が別の人間の体に転生して愛を成就する話。愛は時間を越える話というべきか。やはり「ライオンハート」に似ている。
 取材や参考文献の多さで時代背景については十分説得力を持ち得た。が、その分遊び方を間違えた作品になった。もちろん、それでも十分面白いのだが。
 森鴎外の「独身」という短編を読んだ。甘口の文章のあとにちょっと辛めのをと岩波書店の「鴎外選集第二巻」(石川淳編)の冒頭の作品を読んだのだ。
「小倉の冬は冬といふ程の事はない。」で始まる、明治四十三年発表のものだが、現代的である。要するにいい年をしていまだ独り身の男たちのそれなりの当たり前の話で文章以外に取り柄があろうとは思われない。食事などもまともに用意できないので友達を家に呼んで酒を飲んでも酒の肴はうどんになってしまう。「饂飩」「饂飩」とこの字面がやたらに出てきてそれが印象的だった。今から九十年程前の小説で描かれていることが今とそれほど違わない点も妙だ。



2001年07月29日(日) 小森洋一「英語で語る『日本文学』」を読んだ。

岩波新書「英語とわたし」から小森陽一のエッセイを読んだ。
 収録二十三編の中からその「英語で語る『日本文学』」を選んだ理由は単純。「小森陽一、ニホン語に出会う」を読み、さらに「文体としての物語」と「漱石を読みなおす」などを拾い読みしたことがあるからだ。言動に悪いものを感じない。
 日本文学について話す時、ほとんど英語を使っている。これが題名の意味である。日本文学を研究する者がその研究のことを語る時、英語を使う。一見矛盾するようだが、聞き手が日本人だけとは限らなければ、決して奇異ではない。ただ筆者はそういう外的条件以外に、日本語の時には問題を感じなかったことが英語に置き換える作業を通して曖昧だったことに気づかされ、明確になっていく。畢竟、厳密にならざるを得なくなるというような意味のことを言って、英語で日本文学を語る意義を積極的に認めている。
 アメリカの大学でゼミの院生との議論が激すると、筆者が英語を使い、相手の院生が日本語でまくしたてるという話は面白い。今日は選挙の日だからじゃないが、国際化を連呼しながら実際はその逆の道を進んでいるような国の文学がそんなふうに語られ、研究されている。それは正しい国際化である。
 文中に「限定された知的枠組でしかないということに自覚的になるべきだ」とあるが、「枠組」の中に自分がいることに気がつくのはほとんど困難だ、と全く関係ない感想をもってしまった。
 以下、今日覗いた本。
「続・死ぬまでになすべきこと(やっぱり自分だけが頼りです)」角川書店文庫(式田和子)
「百人一首」講談社文庫(大岡信)
「父・こんなこと」新潮社文庫(幸田文)
「ティーターン」東京創元社推理文庫(ジョン・ヴァーリイ)(訳=深町眞理子)
「世界の秘密の扉」東京創元社推理文庫(ロバート・チャールズ・ウィルスン)(訳=公手成幸)
「始祖鳥記」小学館(飯嶋和一)
「本の雑誌」八月号
 今日は「始祖鳥記」を半分は読むはずだった。読めず。
 



2001年07月28日(土) 読書日記にならない、重症?

重症?本を読む気が起きず。断片的な読書しか最近していない。この日記も三日坊主にならなかっただけで、もう風前のともしび。
 ただ、本を買う方はまだ大丈夫。書店の本棚を前にすると変な読書意欲が沸き起こり、衝動買いする。
「英単語スーパー“語源”記憶術」宝島社新書(小池直己)
「英語とわたし」岩波新書(岩波新書編集部編、筑紫哲也・有森裕子・鴻上尚史・佐渡裕・引田天功・幸田真音・河合隼雄・鷲津名都江・遠山顕・上野健爾・杉村隆・明石康・小森陽一・藤井省三・清水真砂子・吉田ルイ子・船橋洋一・米沢富美子・貫戸朋子・伊藤比呂美・姜尚中・河野太郎・小林陽太郎)
「フォト・ジャーナリストの眼」岩波新書(長倉洋海)
「新・ペットはかわいがるほど早死する」ごま書房(南毅生)
 以上四冊。
 ただし、読める当てがない。積ん読の果てに。


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