読書日記

2001年07月19日(木) 講談社の宣伝雑誌「本」7月号に倒錯的感動を

 講談社の「本」(読書人の雑誌)7月号に変な感動を覚える。城山三郎の「毎日が忘年会」三木卓「宿望のバトル」と来て、次が逢坂剛「近藤重蔵を探して」を読み、ふーん鬼平と同時代の人なのかなどと思いながら、後ろの方の新刊紹介76ページを開いた。三木卓が「宿望のバトル」のなかで新作の「錬金術師の帽子」にふれていたので、値段を確かめようと思ったのだ。2500円かとその左側のページ、つまり77ページをなにげなく見ると、これも先程読んだ逢坂剛の「重蔵始末」の紹介欄があった。その短文を読み、急に「重蔵始末」が読みたくなった。そこにはこうあった。
 博覧強記の江戸の官僚・近藤重蔵。その知られざる破天荒な障害を現代に蘇えらせた、著者の新境地を示す魅力あふれる江戸捕物帖。
 この文言で俄然興味を抱いた。読みたくなった。しかし、さっきのエッセイにそんなこと書いてあったかなと読み直してみるとやはり何の言及もない。
 「知られざる破天荒な障害」とは何だ。「破天荒な障害」とは何か。逢坂剛の隠し玉か、などと暫くのあいだ首をひねっていたら・・・。
 閃いた。誤植だ。「障害」ではなく「生涯」の間違い。しかし、「重蔵始末」という作品がそのあいだ物凄く、それこそ魅力的に思われた。でも、もしかしたら・・・



2001年07月18日(水) 佐藤賢一「二人のガスコン」は天才の仕業

 佐藤賢一「二人のガスコン」を読んでいるところ。二人称でぱしっときめた渋い語り口の歴史小説と思いきやあのシャルル・ダルタニアンとこちらもまたあのシラノ・ド・ベルジュラックの独白が交互にあるいは入り乱れて地の文を侵略し放題でまるで長編落語のようである。または、講談調で文章が絶好調という趣きで紡がれてゆく。上・中・下の全三巻で多少長いが、言葉がことばあそびのようにどんどん浮かれ騒いで先へ先へと走ってゆく。シラノもシャルルも悩みはするが、作者または語り手は明るく絶好調である。作者の年齢の若さを考えるとたいしたものと感服するしかない。



2001年07月17日(火) 小林信彦「出会いがしらのハッピー・デイズ」は愛読書

 小林信彦「出合いがしらのハッピー・デイズ」(文藝春秋)は怒りの書である。 言葉の使い方に怒り、政治に怒り、映画に怒り、と怒り爆発であるが、一番腹立たしいのはどうやら日本がどんどん悪くなっていくことらしい。政治については絶望意外何物もないという態度。日本という国にハッピー・デイズが訪れるのは「出合い頭」意外に期待はできない。いや、「出合い頭」だからいっこうにやってこない。やって来ても「出合い頭」は実に痛そうだ。どちらにしても良いことは全くありそうにない。目をつぶって静観できない筆者の面目躍如の政治評論である。
 今、政治を語ると最も鋭く面白い筆者の最新エッセイ集。昨年2000年度、1年間の収穫である。



2001年07月16日(月) 辻仁成「そこに僕はいた」を読み始める。

辻仁成「そこに僕はいた」(新潮文庫)は筆者の十代の記録である。正統的過ぎるというか伝統的というか革新的なところは全くない。意外にまともな「青春エッセイ」といった感じ。筆者の文学的素養がすべてに反映されていて、新奇なことや独創に満ちたことはゼロ。確かにそうだなと感心する反面、筆者ならではの視点がなく、その意味で期待外れである。しかし物珍しさはいらない、まっとうな落ち着いて読めるエッセイ集を求める向きには良質のエッセイ集として薦められる。
「おく手でかつ、ひねくれ者の恋の行方」「砂糖菓子の中身」「僕は彼らのことを憶えている」「Xへの手紙」全18編。好みの題名を選んで好きなところから読むのが良い。なかなかいいエッセイ集である。


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