「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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2016年06月03日(金) 流行について

 昨日友人と、カリフォルニアの人と日本に居る人とのファッションの違いの話になりました。ここカリフォルニアでは、人々はたいてい、特に夏は、Tシャツに短パン、サンダルで歩いています。女性でお化粧をしている人もそう多くはいません。じりじり照りつける太陽からの日焼けさえもそんなに気にならない感じです。所変わって日本では、私達は外に出るとき、たいがい、家にいる時よりは整ったファッションで殆どの女性はお化粧をしてかわいいアクセサリーなんか付けていますよね。暑い満員電車で汗をかいたら化粧崩れが気になって困ります。ビーチサンダルで電車に乗る人なんて海へ向かう日でない限り殆どいないと思います。

友人はこの差について、カリフォルニアでの服装で東京の地下鉄に乗ったら、乗客の中には、この人はホームレスの人か相当生活に困っている人なんだろうかとジロジロ眺める人もいるだろうね、と言いました。私も半ば同感です。長い滞在期間を終えて日本へ帰国する人の中には、「あーもうこんな姿(短パンにTシャツ)で歩けなくなるんだ。。。」と冗談交じりにいう人もいました。

ちなみに、その友人の娘さんはアメリカ生まれアメリカ育ちの現在23歳なんですが、この春に、大学の行事で初めて日本に行ったそうなんです。その旅行から一つの謎を持って帰ってきたそうで、ある日お母さんに「マミー、どうして日本の女の子はみんな同じヘアスタイルしてて、バッグとか服とか似たものばかり持って歩いてるの?みんなが同じに見えて困った」と言ったそうです。私としては、苦笑いというか、的を得た質問というか。20年前の私を思うとよくわかるんですが、(多くの大人も)個性を出しづらい、個を生きづらい社会なんですね。本当に、20代の私はただなんとなく生活していて、自分が誰で、どんなふうに生きたいのかなんて、少しも考えられませんでしたから恥ずかしいです。(余談ですが、私の娘達は自分の将来のことなど私の同年代の頃よりもよく考えている様子が伺えて、素敵なことだなと思います。念の為に書いておきますが、そんな彼らと若くて青かった自分を比較して卑下したりはしていませんよ。笑。)


だけど、私達はどうして個性を作れないんでしょうね。もちろん、集団で生きることをトレーニングされた日本人であることは大きな原因だと思いますが、その他の原因を個人のレベルで見てみませんか?

原因はいくつかあると思いますが、その一つには自分の考え方が定まっていないということでしょうか。自分が何を感じているのか何を考えているのかがわからなくて、他の人に合わせてばかりの自分とか、自分で決めるということができなくて人の意見を頼ってばかりの自分とか、それから、自分なりの考えがあるんだけどその考えに裏付けがなくて自信が持てていない時など。自分のことが自分で決められない上に相手によって振り回されてばかりなのだから困ったものですよね。それから、もっと大変なのは、誰かの考えが自分の考えだと思い込んでいる場合ですね。

一番最後のケースは、流行を追いかけてばかりいる場合に多いと思います。コマーシャルから流れてくるタレントや女優男優さんの言葉をあたかも自分がそのように感じているかのように感じるんです。または、お店に並んでいる服を自分の好みだと思うんです。実際にはその服は、期間限定の流行として並べられてあるだけなのにね。ということは、毎年好みが変わる自分って何なんだろう?と疑問に思うことが流行りに惑わされず、私たち自身の個性を取り戻す始まりだと言えますか?

化粧するかしないか、という点においては私は、笑顔は心から、という言葉をひたすら信頼しているんです。それから、人工的に作られたパウダーやクリームでお肌を覆ってしまったらお肌が呼吸できなくて苦しそうだとも思うんです。皮膚の働きの一つには、”呼吸する”という機能が含まれているのでまんざら嘘ではないでしょう?

「でも、人と違うことしていると目立って恥ずかしい」なんて思いますか? 

本当に?どうだろう?

実は、私は折にふれて娘に(機会があれば息子にも)伝える言葉があるんです。それは、「みんなが同じようにしなくちゃいけないと思っている世の中で、あなたが自分の感じていることを大切にして自由に生きていたら、普段、人と合わせるって大変だなとかもっと自分のいいようにしたいのに思っているのにできないでいるあなたの友人や周りの人は、あなたっていいな、彼女(彼)のようになりたいなって感じると思うよ」という言葉です。

自分を基準にして生きている人は輝くんです。そしてそれが私達の笑顔になる。なぜなら、その時彼らは自分を生きていて心から楽しんでいるからです。ね、恥ずかしくないでしょう?


2016年06月02日(木) 自分の波に乗る

最近度々、社会の波に乗る、ということについて考えています。きっと日本でもアメリカでも又他のどの国でも、多くの人が、一人前になるということについて、仕事を見つけて収入が得られるようになる、という解釈をしていると思います。それは確かに正しいのだけど、この、多くの人の頭を支配している、一般的な«ゴール»は一体どこから来ているんでしょうか。なぜ私達はそう思うの?

一番の影響はきっと育った環境でしょう。私も過去には、自分の子ども達に身勝手な大人の価値観を押し付けてきた本人だったので、よくわかります。親は時に、気づかないうちに、わが子にとって最も危険な大人になれるんです。(でも、親も子も気づいたところから変わっていけるので心配しないで下さい)

それから?

子どもが大人になる過程で多くの時間を過ごす学校で? 学校の先生達にも同じことが言えると思います。

それにしても、どうして殆どの大人が同じような価値観を持っているのでしょうね。それは、彼らも又子ども時代に彼らの親にそのように育てられてきたからですね。つまり、これまで大人社会はずっと、殆どの場合、社会の波に乗るようになるというテーマで子ども達の成長を手伝おうとしてきたのだと思います。

私は、この現象は恐ろしいことだと思っています。なぜなら、もしどこかで子ども達が、または大人も、波に乗れなくなった時に辛い思いをするからです。そして、この現象の最も恐ろしい所は、辛いとわかっていてもそこに留まろうと頑張ってしまったり、又は、抜け出したくてもどうしていいのかわからなかったりして、結局その場に留まるしかないという状況に自分を持っていってしまいがちだからです。そんな状況が続けばある日アルコールや薬に手が伸びてしまったり、病院に行きたくなって、薬に依存して生きることになってしまうこともあるでしょう。たった一度しかない人生が、社会の波に乗れないというだけでマイナスに落ちていくんです。

それならば、そんなふうにならないようにするにはどうしたらいいか。答えは、社会の波に乗らない自分を育てることなんです。言い換えると、«自分を生きる»ということです。他者や社会の価値観を基準にしないで貴方だけが感じることの出来る自分の感覚をひたすら信頼して歩いていきましょうよ。そうすれば、自分の波に乗って生きる自分が育つと思います。


2016年06月01日(水) 柔らかさ その2

 前回のテーマは柔らかさについてで、自分達はどのようにリラックスしているかを観察するために、まっすぐにたった状態から上半身だけを前に倒してリラックスさせるというポーズを取ってみました。今日はその観察の結果について書きます。
床の上に真っ直ぐに立ち、上体を倒して上半身をだらりとさせ、両腕もだらりとさせて手で反対側の肘を抱えます。頭もリラックスさせて。

両手はどうなっているでしょうか?

芯からのリラックスを感じる体勢は人それぞれで違うと思うので、良いポーズとか悪いポーズとかはないんですが,
私の場合、上半身をリラックスさせると同時に両手が肘から離れて床を落ちるんです。手で肘を掴んでいることが出来ない状態になります。けれど、時には、肩も両腕もリラックスさせているのに掴んでいる肘を維持させようとして、手に力が入っていることがあるんです。この形では、私の場合、心からのリラックス状態ではないんです。

みなさんはどうでしたか?身体観察は楽しかったですか?

私は、このような観察は面白いしプラスに繋がることだと思っています。なぜなら、このように身体に細かい部分に意識を向ける練習をすることは自分の心の僅かな変化に気づく練習にもつながるからです。又は反対の言い方もできますね。自分の心の変化に気付けないくらいに忙しい時、私達はその体の変化にも気づくことが出来ないかもしれません。まさに、忙しいという字が、心をなくした上体である、というように。。。。ですね〜。


2016年05月31日(火) 柔らかさ その1

 今日は6月1日だと思って一日過ごし、夕方に、友達と待ち合わせ場所に行こうとして一日早いことに気付きました。一日中日にちを間違えて過ごしていたのに何も問題が起きなかったなんてラッキーですね!笑。そんな私、今日は Softnessについて書きます。Softness。日本語では柔らかさです。

突然ですが、私たちは普段の自分がどのように身体に力を入れて過ごしているか考えたりしないと思いませんか?しかし、少し意識してみると、いつも身体のどこかに無駄な力が入っていたりして、逆に、力を抜いて動くことの難しさを感じることがあります。例えば、肩の力を抜いてというと、肩の力を抜くために違う場所に力が入ってしまったり。私達の身体は、頑張って頑張って重力に引っ張られないようにとでもしているつもりなのでしょうか。でもきっと、力を抜こうと思えば抜くことが出来ると思いませんか?少しここで試してみたいです。

マットか床の上に両足全体に体重がかかるようにして立ちます。息を吐きながら上半身を前屈させて状態が下るところまで下げていきます。両腕はダランとして両手で反対側の両肘を抱えます。することはこれだけです。これはヨガでいう上半身のリラックスポーズなんです。

では次に、肩の力を抜いて、首の力も抜きましょう。

どんな体勢になりましたか? 今、手はどこにありますか? 少し時間をかけて自分を観察すると面白いですが、観察している間に体も少しずつ緩んできているような気がしませんか?


そうだ。この続きは明日書くことにします。私ももう一度自分の体で確認したいからです。

ということで尻切れトンボになりましたが、柔らかさの研究ができて良いのではないかなぁ〜〜と自己満足のまま終わりにします。


2016年05月29日(日) おとなの自分

 ここ2週間ばかりずっと、しようしようと思っていたことが今日やっと出来て喜んでいます。それは手作りヘアーコンディショナーを作ることです。やっと完成して嬉しかった。もともと、<できたら良いなやってみたいな>は他にもたくさんありますが、特に自分の体や心のケアに関することが実現できるときは心からの満足を覚えます。実は本当は再優先したほうが良かったんだろうな、と今思っています。だって、これは私の健康に関わることなのだから。心と体の健康は他の何よりも大切なことでしょう?

しかし、私達には本当に必要なことを先送りに出来る理由がたくさんあるんですよね。

勉強しなくちゃ、友達と遊ぶから、ちょっとテレビ観てから、ゲームにハマってて、ラインで話してたらあっという間に時間が、などなど。私達の周りには、一番大切なことを忘れてしまえる環境が整っているんです。つまり、その誘惑から自分を引き離してあげられる自分でいる必要があるんですね。
 
それではどうしたらいいのでしょう?

心と体を一番大切に出来る自分でいるためには、そのように動いてみて感じた達成感や心の満足を自分の中にキープすることでしょうか?もし共感していただけたら嬉しいですが、自分を心から大切にしていると感じられた時の満足感は、ゲームで得点を伸ばした時やテレビで笑い転げた時や友達と美味しいものを食べに行った時の満足感とは違うレベルだと思うんです。ちなみに私はそれを安堵感と呼びますが、私達は他の動物と同じように自分で自分を守ろうとする知恵/本能(?)を持って生まれているはずなので、その知恵を使えた時の歓びは、きっと本能を使って生き延びることが出来る自分への動物的な安堵感ではないでしょうか?

このように捉えると、自分で自分を守れるというのは偉大な能力だと思えませんか?

私達は時に他者の手助けが必要な状況がありますが、自分に安堵感を与えてあげられるのは実は自分自身でしょう。その、自分で自分を守ってあげられる自分を、<おとなの自分>と呼べませんか?


2016年05月28日(土) 本当の自立

若い人々、特に大学生や高校生の関心の一つに、自立するために将来どのような仕事に付きたいか?ということがあると思います。そう。自立ですよね。親は自分の子どもが、教師は自分の受け持った生徒さん達が、それぞれ自立した人生を送れるように願うと思います。ちなみに自立とは、多くの人々が知っているように、自分の足で立って生きることなんですよね。しかし、自分の足で立つということは本当はどういうことなんでしょうか?

私は一般の大人の思う自立の条件には大きく分けて3つの段階があると思います。まず、子どもを取り巻く周囲の大人が最初に目標とする自立、 ”集団生活に馴染めるか?” という部分です。それは、子どもが集団生活に入るようになった年代つまり、保育園や幼稚園の頃から始まるんです。その後、”学問の面で周囲と同じように勉強できるかどうか”が自立の項目に加えられ、殆どの子ども達は集団生活と勉学が整った中で幼少期を過ごすんです。そして、最後の自立は経済の安定。”良い就職先と経済的な安定をもたらす良い就職先につけるかどうか”です。どれも皆、人間が生きていくために必要なことですね。

しかし、よく考えてみるとその三つが自然に出来上がっていく為に最も大切なことがありません。それは<心の自立>です。

集団生活に馴染むように、みんなと同じくらいかそれ以上に勉強ができるように、そして、ちゃんとした会社に就職できるようになることを目標としている場合には心の自立はなかなか叶わないんです。その理由は、自分の足で立って、つまり自分の心で生きていけるようになるためには、どんな自分も肯定される社会に生きる必要があるからです。みんなと同じでない自分に居心地の悪さを感じる環境では、勉強が追いつかないと悲しい気持ちにならざるを得ない環境では、みんなと同じになって肯定されようとすることで精一杯になってしまうのです。

 そこで提案したいのは、心の自立をまず先に、ということです。やってみようと思ったら、方法はシンプル。今までの方法を少し変えてみるだけです。まず、「集団生活に馴染もうとしなくても良いし、皆と同じでなくても良い」という感覚を感じ始めるところから。いかがですか?


2016年05月27日(金) 声のトレーニング

 私達には聞いて心地よい音のトーンがあると思います。そして最近気づいたのですが、私にとって最も心地よいトーンは自分の声のようなんです。こんなことを書いておかしいですね。でも、本当なんです。と言っても、私はいつも同じトーンで発声しているのではありません。面白いことがあって笑っている時は口も喉元も大きく緩んで少し高めのトーンで、悲しい時やストレスがかかっている時は、声を出す時に使う筋肉が緊張しているので、声の中に空気の泡が混じっているような声が出ます。声が透き通っていないんです。怒りを感じたまま語っている時は、お腹の筋肉を使って強く発声しています。怒りを貯めたまま生きていくのは辛いですから、怒りの正当な出し方を知らないまま、発声するという行為を使って感情を発散しているのだと思います。感じていることを正しく伝える方法を忘れた時の私の、大人げない行動です。。。m(ーー)m

 話は戻って、自分に心地よい声のトーンについて。私が自分の声を自分の理想に近づける練習をしたのは20代の初めでした。きっかけは、お友達の歌声を聞いて(綺麗な声だなぁ〜。私もあんなふうに声を出せたら良いなぁ)と思ったことです。単純ですね。ですから、その練習も単純なものなんですよ。笑。

一人で部屋にいる時や自然の中に出かけた時、自分で発声して録音して聴いてみるんです。いろんな声を出してみて何度も録音して繰り返し聴いているとある時、自分が聞いて心地よいトーンがわかってくるんです。そうしたら、その声をいつも出せるように毎日練習するんです。

 練習/トレーニングというと長続きするかなと心配になってきますか?しかし、この練習には時間も場所も問いません。必要なのは誰かと語り合うことと語っている自分の声に耳を傾けることです。私達の殆どは毎日自分以外の誰かと関わりを持って生きているので必要な環境はすぐそこに。

 しかし、もしも私達が一人暮らしをしているのなら、かっこうのお友達がいつもすぐそこにいますね。自分と語り合えるんです。この場合は、声の練習をするのに最も都合がいいですね。なぜなら、相手の都合はいつも自分と同じだからです。(少し話してみよう)と思った途端に会話が始まっていて、(あー疲れちゃったな。もうやめとこう)と思った瞬間に相手もやめてくれるのです。確認も何も要りませんから仲の良い友達と話をするよりもさらに簡単です。楽でしょう?笑。そうしているうちに、自分に心地よい声のトーンが私たち自身の声そのものに成長するんです。お暇があったら試してみてください。

 余談になりますが、20歳の経験のその後、ある日家族でカラオケに行った時、私の声のトーンは姉や母のトーンと違っていることに気付きました。彼女達二人の声は似ていた(似ている)んですが、私の声はどこか違うところからやってきたような声だったんです。家族もその違いに気づいて一時期話題の一つになり、調和や同一色が求められる社会で育ってきた私は当初、家族の中で自分だけが浮いているような感覚を持ちました。しかし、家族の中にも違いがあって当然なのですからね。まもなく、私は私でいいのだというところへ落ち着いたんです。違いは個性です。


2016年05月26日(木) 考えること動くこと

 人間は考える事のできる生き物なので、「考える」という行為は私達の毎日で切り離せないことですね。何かミスをした時、よく思い起こしてみると、その少し前によく考えないで行動し始めた自分がいたり間違った選択をしていたり、ということは多くの人が経験することではないでしょうか。よく聞くフレーズには、「ちょっと立ち止まって考えてみる」というのもありますね。私達の周りには立ち止まる必要のあることがあり、例えば何か大きな決断をしなければならない時には、何かしているついでや勢いで決めるのではなく、していることを止めて、少し時間をかけて考えて決断する必要があるのです。よく考えて決めたことは例えば思ったような結果が出なかったとしてもありのままを受け入れやすいと思います。
 しかし実際に、考えている時の私達はどうなっているのでしょうか。すでに書いたフレーズの通り、考えている時の私たちはそこに立ち止まっている、ということが出来ると思いませんか? そしてもし、私達が同じことをいつも、又は長い期間考えているのだとしたら、その場合はどのように捉えれば良いのでしょうか?私は、そんな時の私達は「立ち止まっている時間が長い」と言えるのではないかと思います。
 「立ち止まっている時間が長い」ことはいいことでしょうか?仮に、私を含めた皆さんの中に実際に考えている時間の長い私達がいるとしたら、そんな私達を良いとか悪いとか決める必要はないですが、もっと楽な気持ちで「こうして立ち止まっていることは今の自分にいいことかな?」と自問することなら、人生の役に立ちそうだと思いませんか?
 そうすると、そこからどうしたいかとかどうしたら良いかということが浮かんでくるのではないでしょうか?ちなみに私の中に浮かんでくるのは「する」ということです。「する」というのは「行動する」という意味で、つまり、立ち止まってばかりいたのだから、今度は「動いてみる」ということです。何をどのように動くのかというと、もちろんそれは「ずっと考えていたことが実現するように」、又は「実現するように」です。このように捉えると「行動が変化を起こす」と言えそうですね。
 こんなことを書いている私も、立ち止まりすぎている自分に気付きます。そして、気づいたら動く。さくさく行動して変化し続ける。立ち止まっていた自分を行動に移すとき、その「変化」はきっと、「成長」となるでしょう。
 


2016年05月25日(水) 感覚

今日散歩中に、何やら懐かしい中華ラーメンか何かの香りがしてきたんです。何処で嗅いだ香りだろう〜〜と記憶を辿ってみたら、それはベトナムにいた頃によく食べていたフォーの香りでした。懐かしいなぁと思ったついでに、(あー、私はこうして感覚を利用して過去のことを思い出せるし、過去の経験を再体験する引き金にも出来るんだなぁ)と改めて思いました。
 確かに、昔聞いていた音楽が、当時の楽しみを思い出させてもう一度楽しくなったり、逆に悲しかったことやトラウマになったことを思い出させられて、再びその気持ちに巻き込まれてしまうことが多々あると思います。私も過去には、そんな自分に気付けなくて、知らないうちに何やらマイナスに入っていた、ということが良くありました。それに、今だって気づいていないけれどそんなふうになっていることがあるのかもしれないのです。個人の体験ですが、心って不思議です。楽しいことも悲しいことも体験するのに、悲しいことの方が強く私の心に残っているように感じて、私の行動にも強く影響しているんです。この現象の理由について私は、人間は本来プラスに生まれ、楽しみや喜びを感じていきる、プラスに生きる生き物だから、マイナスは修正されるべきだよ!〜〜と心が訴えているのだと解釈しています。(というより、単に生き物という視点で私達を捉えるのなら、マイナスという言葉は浮かんできませんね。例えば、カマキリやてんとう虫にはプラスもマイナスもありませんから。彼らは、プラスもマイナスもない、ただ、ニュートラルなのです。私達人間もそうである方がいい♥ ”べき”という言葉を使いたくありませんが、そうであるべきです♥)
 こんなふうに捉えると、感覚を持って生きるのは大切なことだと改めて思います。残念ながら、大人になるに連れて、社会の波に流されるのに比例するように私達の感覚は鈍っていきやすいけれど、少しでも自分を意識して、持って生まれた感覚をいつもシャープな状態で持っているように心を磨いて生きましょう。
 ところで、過去の辛さを思い出せた時、それは心の傷を癒やすきっかけになります。そして、癒せた分だけ、楽しかった時の記憶が出てくるようになる、というのが私の経験です。つまり、プラスの記憶はマイナスの記憶で潰されているということだと思います。だから、マイナスのベールを剥がせた分だけプラスが見えてくるのだと。興味深い現象です。


2016年05月20日(金) モノの整理は心の整理

 今日はシンプルな部屋というテーマで書きます。理由は思い出せないのですが、20代の頃から部屋の整理は心の整理だと思うようになりました。ごちゃごちゃした部屋の中にいるのが苦手で、気がつけば何かと小物の整理のために工夫をこらしていました。特にトイレ掃除をした時の爽快感を味わうのが好きでした。今思えば、実家の母はキッチンを綺麗にできない人で、そのごちゃごちゃしたキッチンで母親から受けたトラウマに、当時の私は巻き込まれていたのかもしれません。しかし理由は何であっても、物が少なく、整理整頓されている部屋は落ち着きます。

 とはいっても、物質社会に生きていて、ある程度の収入があるとストレス発散も手伝ってついつい買い物にも足が運ぶのが現代人の生き方ではないでしょうか?ある意味、物を持たない生活が難しいのです。すでにモノに溢れている部屋の中でどこから整理したら良いんだろうというような。。。

しかしがっかりしないで下さい。そんな時は、あるものを整理することから始めるといいんです。すると、今の生活に明らかに不必要か、または頻度の少ないものが出てきて、それらをどこに閉まっておけばいいんだろうという問題が出てくるんです。そう思えたらチャンス到来で思い切って処分してしまったほうが良いんです。なぜなら、今の生活には必要ないからです。いつかどこかで又必要になるかもしれない事は確かだけれど、そう思って残してあるものの幾つを実際に使ったでしょうか。私の場合その頻度はとても少なく、無いに近いほどです。それならば、処分してしまったほうが良いんです。

 ということで、私の部屋に溜まっているのは学校のテキストや読んだ本、または読みたいと思って買った本です。テキストには、たくさん勉強した証が詰まっているし、中には高すぎてお金を払うのを渋りたくなったテキストもあるので、いつか誰かに使ってもらえればという熱い思いが。読んで残してある本はどれも感銘をうけた本で、いつか読み直したいと思っている、いわば特別扱いの本です。読んでいない本はそれこそ、読むまでは捨てられない、という心境です。

 しかし、この週末にそれらを意を決して処分する予定です。理由は、物が少なく、整理整頓されている部屋は私の心の落ち着きを手伝うからです。部屋に入った瞬間に目に入るものがより落ち着きを持ち、自然との調和があり、自分にやさしいものであったら、その心落ち着く部屋の中でゆっくりと自分に耳を傾ける時間を持てます。


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