「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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2007年09月02日(日) 心の成長

 「丁寧にする」ということを実感しました。私が今していることは全て自分のためにしているから、私は私のために、もっと丁寧に動いてあげます。以前空手の館長からお聞きした言葉ですが、「基礎が違っていたら、後になって又もとの位置まで戻ってやり直すことになる」。
 丁寧に1つずつすることで、少しずつ素直に先に進める。私の今感じているものと Link しました。

 今までよりもさらに丁寧にするということをするために、今と近い未来に必要なことを最優先して、それ以外のことは小さな小さな点にとどめることをすることにします。といってもすぐに広がりがちだから、優先順位の順にリストを作り、机の前に大きくぶら下げました。
 机の前の壁には私の目標設定なるものが貼ってあります。私は5月初旬、その目標設定に、 「8月下旬、ヴェトナム紀行が出来上がって居る」と書いていました。以来、何時も意識出来ていたのではないけれど、目標にあげていたことが出来ていた、ということに小さな喜びを感じました。
 私は今自分の人生を、なりたい自分を意識して意図的に歩いているのだと思えます。 そして、私が成長したいという気持ちで世の中を見るとき、小さなヒントは心に素直に浸透し自分を見つめるきっかけになるのですね。

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2007年08月31日(金) 未来

 昨日、つぶて海岸へ遊びに行きました。又、つぶ貝をたくさん採ってきました。それから採れたてのカキをその場で食べました。身が小さくても中身が濃くておいしかった。海の傍に住んでいたら毎日食べに行きたくなりそうです。
 
 この頃は野菜を自分で作ったり貝を拾ってきたり、ある時はヨモギを採ってきたり、私はもうずいぶん、自分の食べ物を自分で探していけるようになってきました。自分で生きているという感覚がします。

 生きるということは、自分の未来を意識して意図的に何かをするということかな。それが楽しみの延長ならいい。
そういえば楽しみの延長でヴェトナムに行く自分を描いたのだから、今見えている未来を大切にします。
 それで、私はこれから何をするか。半年後にヴェトナムにいける状況を続ける自分をする。自分のためにそうするのです。

 心の傷を癒やすと、自分の周囲にプラスの環境を作ってあげられるみたい。このまま楽な自分を育てて、もっと広い世界へ羽ばたきたい。
なりたい自分になれるよう…。

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2007年08月29日(水) 風景

 午前中、就職が決まっている病院へオリエンテーションに行ってきた。
この雰囲気・病院という場所。そこにある風景に円錐型のピラミッドが浮かんだ。心の隅に懐かしさ。
でも、この懐かしさを私は今は必要としていない。
この世界に馴染もうとした私はもう、変わった。

何が変わったのかな。
考え方・捉え方・人生・自分。
人は成長するのだ。

そして、大切にしたいものは何時も同じだった。自分自身。
どこに居てもこれでいいのだ。


いろんなことを説明してくれる婦長さん。
聞ける分だけ聞けた。私は又一年生。そして私のペースでいいのだから。

そこに居る自分を見ているのが面白かった。
いつも、自分を見ている私。
やっぱり、私は変わった。
少し大人になれたんだ。



 夕方自転車で散策した。どんな風に走っても坂道の多いこの辺り。どう通れば坂道を避けられるかと道を探して走った旅だった。
 近くに咲いている百日紅の花。ピンクと白と赤い色のコントラストがきれいだ。
名古屋へ来る前、百日紅はあまり好きな花ではなかった。でも今は、やさしくて素敵な色に見える。見る景色も心に添って変わるということの証明です。私の人生はプラスに生きることの実験をしているようだ。


2007年08月27日(月) 手法

 近くの保育園へ面接の日。
 実は病院に就職が決まっている。だから、断ろうかどうしようかと迷った。自分が何故、そうしたがっているのかを書き出してみたら、行っても行かなくてもどちらもOKの自分が居た。
 どちらもOKならば、動くということをするのは自然の流れだった。
 
 いつものように自分を語った。心の傷を癒やして生きている自分を伝えるのは、今では私の自己PRの定番だ。
 聞いてくださっている3人の幹部は私の話にうなずいた。誰も皆、生き辛い社会であることを知っているのだ。


 したいことがある。その為に動く。そこは人生の通過点のひとつだけれど、出来るだけ早めに通りたい通過点。
 その扉を開ける時期を半年後に決めた。これから私は、自分の決めた基準に添って生きるのだ。
 こうした書き方をすると、えらく意気込みの入ったようなものに受け取れる。けれども実際には、半年を楽しもう。その一言だ。人生は楽しむために在る。楽しく生きたい。

 心友と、本を書くということについて語り合った。私の文章は、辛さを書くには慣れている。そしてプラスの表現は下手なのだ。
 今日までの5年間弱、文章については自分なりに吟味してきた。一様に“私は”を入れてみたり、代名詞を使わない書き方を意識してみたりいくつかのことを試してきた。
 “私は”を入れ続けた時期の日記は、当時でさえ、違和感を覚えながらTryしていただけに、今では表に上げることすら恥ずかしい。“ですます調”は読む側はやさしくあるけれど、場合によっては回りくどい。
 そして今書いている書き方はメリハリがあるけれど、強さがある、と感じるのは私の偏見か。

 先日は本屋に行って、文章の書き方なるものを立ち読みしてきた。しかし、文章を書くときに大切なのは文法ではないのだ。マニュアルではないのだ。心を書くということをテーマにした解説本は、どこかにあるだろうか。

 という風に、今日のところはまさに、感じるそのままに書いてみた。ルソーの手法を少しばかり真似て書いていみたのだ。
 なるほど。文章に抑揚があるように感じる。違う視点で楽ちんである。そして今ここに書いたようなことを、これからどこまでやさしく表現できるようになるのか。

“心を通して書く”ということを楽しもう。

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2007年08月25日(土) 心に能力

 今日GobamcanのRoommate達との会話中で、私に対するファシリテイターの言葉を、他のRoommateに対するものに比べてきついなぁと感じる一場面がありました。それが、そんな風に感じた自分を紐解いてみると、私はつらいと感じる前には、ある内容に対してのファシリテイターの言葉が私と語り合ったときの言葉と違っていると感じていて、違うと感じたことに対する自分の戸惑いが、私の思考の中で、きついなぁという言葉に代わり、その言葉を自分に伝えていたのです。最初の小さな戸惑いを、マイナスの思考の中で大きくする私なのだなぁと実感しました。
 そして、何かを言葉にするときには、その時の状況や人々の在りかたによって、表現方法は変わるのですね。いつも型に嵌った捉え方をしやすい私です。今後の課題です。こんな自分の発見はこれから成長できる部分として楽しみです。そうしたら又、成長できるのです。

 それから今日は算数の勉強を楽しみました。答えの分からないのは私だけでしたが、皆がわかっていて私がわからないという状況の中で、私は、答えを引き出す私を見守られているように心地よかった。そして、答えが出たのです。それも41年間知らなかったことを知りました。楽しくて嬉しかった出来事です。よく考えてみると、その時の私には出来なければいけないとか分からない自分を恥ずかしがる発想は浮かびませんでした。こんな変化も素敵なのです。
 
 一昨日の晩、考えてばかりいる自分に気が付いた後、プラスを積み重ねるということを意識しています。考えるより動くが易し。部屋の中を見渡してみても、昨日したことは、今日、すでに出来たこととして私の前に在りました。動いた分だけ積み重なる。これからヴェトナムへ行くまでに、いったいどれだけのものが積み重なるのか楽しみです。そして心も、見つめた分だけ積み重なる。この頃は本当に自分の内面の変化が嬉しくてたまりません。数日前からの日記を読み返してみたら、プラスを続けた自分のありのままが書かれていました。した分だけは積み重なることの実証。
 自分の気持ちをひとつひとつ確認し自分を信頼して動けていることが嬉しい。いつも正直に生きたい私です。

 私の人生のいい面も悪い面も含めて、心を見つめる人々の考える材料になれば、私の命もより生かされるのだなぁ。こんな風に感じ始めて一年余り。こうして自分の存在を喜べることも私の大きな能力なのです。いつも、能力能力。感じたままをここに書けることも能力。今を生きる私の大きな能力です。

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2007年08月24日(金) 丁寧に

 図書館に行きました。図書館は冷房が効いているから、暑い日にはいい場所です。ちょっとした道具を持って、私も涼みに行ったのです。
 館内で過去の新聞がおいてあるのを見つけました。中日新聞は辞典のように分厚い本になって置かれていました。朝日新聞もあったから、私の書いた野球のお話もここに置かれているのだと考えると、ちょっと嬉しかったです。
 ということは、過去の新聞を見たいときには図書館に来ればみることが出来るということ。便利ですね。

 ところで、本と言えば、ヴェトナム語の教材にはたいていカタカナでルビが打っているのですが、ルビがあると見辛いです。それでこの頃、修正ペンで消す作業をしています。この作業は、最初はルビが消えればいいという程度でした。ところが、出来上がってページを見直してみると、丁寧に線が引けるとページ全体がきれいに仕上がっているのです。丁寧にするとはこういうことなのだと、自分でもびっくりしました。丁寧にしたら気持ちがいいです。

 一日を通して自分の出来たところを認めていたら、自然に自分自身へのストロークになっていました。これでいいの。今日もプラスが積み重なった。よかったね。

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2007年08月23日(木) 静かな喜び

 この頃、自分と他者の距離が近くなった気持ちがしています。日々の模索の中で、人を恐れる気持ちが小さくなったことを静かに喜んでいます。 
私は“人”・他者も“人”。
人と人同士なんだなぁと実感します。

 それで今は、社会に出てもっと楽しんでみたいなあという気持ちがわいています。“自分”と“他者”を知ってみたいです。
 まるで、小さな赤ちゃんに無意識に存在する欲求を体験したがっているみたい。そして今はその気持ちを言葉にしているみたい。
 私は大人の自分の能力を使って心の傷を癒やし、自分と人との違いを知った。そして今は、私としてもう1つ先の、私から始まる世界に視線を広げようとしている。既に足を伸ばしている。その1つが、ヴェトナムという場所なのだと思います。これらのことは全て、心の傷を癒やした私から始まっていると実感します。
 そして、誰にもプラスは内在する。そんなことも心の隅において、世の中を楽しんでみたいです。

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2007年08月22日(水)

 日中はヴェトナム語のテープを聞きながらパソコンをしていました。机にいる時間が長いせいか、机の前にある自分の写真が視界に入ります。姉によく似ています。
 自分の写真を見て姉が浮かぶのはなぜかというと、看護師になった自分の過去を癒やす作業をしているからです。
 姉のようになりたいと願って看護師になったと感じていたけれど、本当は当時の私に将来を選択する余地はありませんでした。親がマイナスの感情の中で広げたレールに載せられたということです。

 でも今は違う生き方をしています。この変化がいいです。
 20年前の私は、40歳の私は心の傷をいやしたぶんだけ楽になっているとは想像もしませんでした。ということは、これから先もどんな方向へ進むかわからないということです。それなら、楽しいことをいっぱいしておきます。楽しいことはどんな小さなことも、私の細胞のひとつになって、自分の身になっていくからです。

 ヴェトナムMamo紀行がほぼ出来上がったので、HPに載せようとしています。登場人物の一人である心友Bちゃんとの会話を書いているので、彼女に了解を得るためにメールを書きました。私は心を基準にして文章にし書いていることを説明するために、心の傷のこと・チャイルドを癒やす作業をしていることを書きました。ヴェトナム人の彼女にどんな風に伝わるか、楽しみです。
 それと、別の心友にお聞きした言葉をHPに載せました。私はこれから国を越えて、心の傷を癒やす自分を語っていこうとしています。

今日も暑かった。そして空がきれいでした。外国に続く空。


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2007年08月20日(月) ありのままということ

 暑さのせいか、バイクさんが力をなくしてエンジンがかかりませんでした。セルはあるけれど正しい使い方を知らないまま使ったら壊れてしまいそうなので止めました。知識を持っていそうな方に尋ねて様子を見ました。エンジンがかからなかったおかげで散歩が出来ました。歩くのも身体にいい。自然を見る事が心にいいのです。 夕方には空に薄く延びた雲がオレンジ色に染まってきれいでしたよ。
 夜には台所でびっくりすることがありました。それは、8月15日に常滑海岸で獲ってきたイワガキが想像以上に大きかったこと。本当に驚いた。そしておいしかった。自分でとったものだからおいしさも格別でした。


“ありのまま”ってどういうことかな。
私は自分をよく見せようとしているのかな。よく見せたいという気持ちとは違う。よく見せる必要はないと分かっているから、それとは違う。

 高校を卒業して就職のために大阪へ出てきたとき、私は自分のことが何も出来ない自然の法則に従って身体だけがかろうじて大人になった人間でした。だから、きっと仕事をするのは大変だったのです。 
 しかし、一年くらいたった頃には、私は周囲からひょうきんで身軽いさっぱりした人という印象を持たれていました。いつの間にか、頼りにされる人にもなっていて。始めのうちは受け入れられたことで自分をOKにしました。でも、しばらくしたら自分の内部とのギャップが息苦しくてたまらなくなりました。その頃は息苦しさの原因は分かりませんでしたから、「そうじゃない。私はそうじゃないよ。助けて。」でした。
そして、本当の自分なんて分からなかった。

 何かを感じても感じたその時にそのまま表すことができなかった私。それで、1つの思考を状況や自分の心に関係なく同じように演じさせられてきて。心からそう感じてしているのではなくそうせざるを得ない環境で生き延びるためにそうしてきたのだから、生き延びてきた・演じさせられてきたその通りです。感じたままでいいのだから、感じるということに、大人だから子どもだからはありませんよね。年齢や性別も別のところ。

 感じたものをそのまま感じられる自分を生きたいな。そして語りたい。私は今、病院職に戻ろうとしていのですが、仕事をする自分をイメージする時、自分の中にピンと糸が張り詰めるのを感じます。糸は張っていてもいいのかもしれないけれど、今はまだ、その糸は頑張りに近いです。自由なようで自由とは違うようで。
 そして好奇心もあります。行った場所で、わりと楽しめることが多い。小さな石ころの中に面白いものを探したい気持ちがある。子どもの頃一人遊びをしていたから、楽しみを見つけることに慣れているのかな。
ということは、どこに居ても楽しめる私がいるということです。
だから、きっと大丈夫。どこで働いているとか何をしているかよりも、そこに居る自分がどうであるか、こちらが大切なのです。


2007年08月19日(日) 心ここにあり

 リビングに居たら、ファシリテイターとRoommateの話が始まりました。それは、「ここは違っているよ」という、いわゆるある出来事に対しての間違いを伝えるというもので、愉快な会話とは少し違っていました。私は自分のために意図的に二人を見ました。
 一般社会では、話し合いは決裂に向かいやすく、これまで私の経験したものの殆どはマイナスの結末を意味していました。特に男性同士のこのような状況には爆発的な暴力がありました。だからはじめは少し恐かった。見ていてもいいと分かっていても、心に緊張感が走りました。
 でも今日見たものは私の経験したものとは違っていました。そして次のことを学びました。話し合いとは、先を見て次の自分たちのために成されること。人と人の意見の違いとはある物事に対してのある部分のみ意見が違うのだということ。何かを知りたいとき、そのことをよく知っている人の話に心を傾け進めていくと次の成長に繋がること。
 父親と息子さんの会話・男性と男性の会話を拝見できる環境に、自分が生きていることに喜びを感じました。

 その後、家に集まった心友たちと日本語の勉強をしました。ひとつの単語に対して複数の意見が出され、どれもOKである。とても楽しかった。学ぶことは楽しいです。
 そして独りで学ぶことも。今私はヴェトナム語の単語帳を作っているのですが、文字を丁寧に書くことを楽しんでいます。文字だって早くきれいに書くことを強制させられたら、書く楽しみからは離れていきます。エンピツを持つこと・ペンのすべり具合・この字を書くときにはこのペンがいいとかこっちの紙はすべりがいいとか、書くということそのものを楽しんでいる私です。子どもの頃にできなかったどんな小さなことも、それが出来たら私の能力です。

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紫式部(Gobamcan庭)
きゅうりさん(自家製)。毎日丁寧にお水をあげていますョ。
ランタナ(大高公園)…ヴェトナムにもある花です。実がなっているのをはじめて見ました。
8月15日のセントレア


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