「生きていくのに大切なこと」こころの日記
DiaryINDEXpastwill


2007年02月02日(金) ひなた

ひなた

日向はいつも日向だ。
昔は日陰に居たけれど、今はいつも日向を作っている。自分のための日向だ。ぽかぽかして気持ちがいい。
自然に人が寄ってくる。みんな、温まりたいのだ。

時々、台風がやってくる。
日向のような格好をした台風もある。
そんな時、自分の心を大切にしていたら、台風は「場所を間違えた」と言って、去っていく。

日向はいつも、そこにある。
何処にある? ほら、すぐそこにある。
日向を見つけるのは自分だ。
そして、もっと広い世界を知ろうとするのも自分だ。


2007年01月31日(水) 自分育て

 昨日、「自分の為に」という言葉を聞きました。「自分の為に」という文字の前で、自分を見つめました。これまで、自分を辛さから開放してあげたくて、しゃにむに心の傷を癒やしてきて、その過程でさまざまな出来事に出会い、その度自分を見つめ、おそらくその度、成長してきました。

そして、我、ここに在り。

改めて、「誰のために?」と自分に問うてみたら、確かに「自分の為」でした。しかし、これは「自分のためにこうしよう」と思い続けてきたのとは違って、結果、「自分のためになっていた」ということのよう。私は自分自身のこの気付きに小さく感動しました。
 その後、「まだまだ知らないことがたくさんある」ということを実感しました。「知らないことがあるということを知っている自分がいい。「物事に興味を持てる自分」の前提のように感じています。そして、いつもゆったりがいいです。自分の完璧さをはずした分だけ楽な自分を生き楽しめる。そして他者に完璧を求める自分を変えていけるのです。さらに自分を許してあげた分だけ素直にもなれるのです。素直な自分は素直に自分の現実を見つめ、過去の傷付いた心から自分を開放させてあげられるのです。私が自分の好奇心を突いてあげた分だけ、自分を育ててあげられるのです。

 大人は「大人」という枠に自分を閉じ込めやすいです。大人は昔、子どもでした。それも、純粋に全てのものに好奇心を持つ子どもだったのです。 


 ところで、今年の夏、ベトナムへ行こうと計画していました。そして今は、当初の計画より先延ばしにしようと考えています。理由は金銭的なものです。
 実は、先延ばしが浮かんだすぐ後、これまで取り組んできた自分が無くなってしまうようで恐かった。3年間いつも、何があっても、この目標を意識して成長してきた過程があるからだと思います。今は、「行きたい=行く」で動いてきた自分は卒業していたけれど、小さくあった子どもの事があっという間に膨らんで、心は揺れ動いていました。 
 そして今は、全てのことは、私の中の小さな点なのだと捉えています。だから、もう大丈夫。そして、行けた時が行けた時。これからも少しずつ成長していく私です。

私は自分育てが好きです。


「語り」
 昔々の20代の頃、昔々の友人はこんな事を語りました。「人って、自分の考えを人に語るときにはある程度、気持ちは決まっていて、でも、ほんの少し後押しして欲しい時なのだよね」。
 一年位前、ある女性が私にこんなことを語りました。「人は、自分の中にある程度の考えを持っていて、その事を語るときには、確認が欲しいとき・認められたいときなのだ。誰かに何かをしてほしいとか、答えが欲しいのとは違う。肯定されたいのだ」。私はこの二つのどちらの考えにも共感していました。そして今は、次のように感じます。
「私はたいてい自分の考えを元に一人で動くことが出来る。そして私は自分の考えに迷いや疑問があるとき、少し表現してみたくなる。そして、私はアイデアを求めているとき、アイデアを求めていると他者に表現することが出来る。」そして否定から生まれるのは否定であり、肯定から生まれるのはよりやさしい肯定だ。

私は、自分を楽に語れる場所で、私の心を語ります。


2007年01月30日(火) 1℃

 私は今も、他者の言葉に傷き巻き込まれることがあります。言葉は浮かんでくる思考の一部。そして、その方の心から発せられたもの。なぜなら、人はどんな自分も、その時感じたもの中で動き、続いて語っているから。そして私も、感じたものの中で動き他者の語りを受け取っています。裸ん坊の私の心は、その時々でいろいろな感じ方をします。
 大人はよく、「言葉を大切にして」と言います。言葉を大切にしてと語る大人も、時々言葉を間違えます。子どもは、大人が自分から目をそらしているとき、すぐにわかります。私も過去、言葉を間違えている自分に気が付かずに語り続けていました。そして今は、間違えたことをそのまま受け止め謝罪しようと意識する練習をしている私です。ちなみに今日、ある出来事について「あやまったよ」と伝えられた出来事がありました。私にはその意識はなく視点の違いに驚きました。きっと、その時の私は自分を整理するのに精一杯だったのでしょう。
 ずっと以前は、気が付かなかった自分を責めていましたが、今日の私の心は、「そうだったの?!」。私も少しずつ成長しているのです。

 心の傷を癒やしていくと、強い言葉から自分を守ることが出来るようになります。それはある日突然に出来るようになるのとは違い、少しずつ一度ずつ、一℃ずつ、自分をMamoっていけるようになるのです。これがプラスの積み重ねに繋がるのです。
世の中を、心を通してみていたら、いろいろなことが見えてくる。プラスもマイナスも見えてくる。それまで日向だと感じていた場所は、日陰の部分もあると分かってくる。一℃の差って、こんなことかな?と感じます。こんな変化が面白いです。マイナスの社会にプラスを探し、自分の成長を楽しむことが出来ると、面白いのです。

 私はいつも心で語ります。自分の心をそのまま語る大人がたくさんになればいい。そして、プラスは私から。


2007年01月29日(月) Gaze


自分を信じる
自分を信頼する
自分の為に

信じる
信頼する
真実
本質

Feel?

自分のためにしてきた。


2007年01月21日(日) 私が私に出来ること

日曜日。
 ベトナム人のお友達から手紙が来たので、返事を書きました。まだ下書きですが、楽しんでいます。
それと、就職活動をしています。でも、3月にベトナムへ行った後の事が不透明なので、少し動き辛い。それに、退職を控えて環境が変わることの不安定さが手伝って、少し不安定な私です。
「こんな時はどうしますか?」と自分に問うと、「出来る事をすればいいよ」と答えが返ってきました。
それならと、自分が安定するよう行動計画を立てノートに書きました。不確かなものは後にして、出来ることを進め確かなものを集めて、集めたものを次に動くことの土台にすればいいのかな。

 ということで、3月に渡越した時、ベトナムに居るお友達に会えるよう、手紙を書きました。朝には、日本に居るお友達にも書いたので、2通です。手紙には私の書けるベトナム語を少し入れて、それから大切なことは丁寧な日本語で。一晩寝かせて熟成させて、もう一度読み直してから、ポストへ入れるのです。



** 〜Toi muốn đi Baseball〜 **


2007年01月20日(土) なんまるく生きること

育成会。
 午前中、教育再生委員長の義家さんの出ている番組の録画DVDを見て皆で語り合いました。私は、暴力や乱暴な言葉は心に痛くて嫌です。叩かれたり蹴られたりすると痛いし、暴力を受けている人を見てしまったら、私の心も痛みます。私は、いつもやさしい社会が好きです。


 昼休み、ある方に「本を書くとき、子どもさんが読むことを念頭に入れて書くの?」と尋ねられました。きっと、いつかどこかで書くのでしょう。その時私は、親として何を書くのかな。尋ねていただいたことで、やさしくやわらかい文章を書ける自分を大切にしようと改めて実感しました。

 午後は、「生きるということ」について語り合いました。皆で強力なマイナスを打ち破くことの大変さを語り合っているうちに過去の自分が重なり、同じ思いを持ちました。
 痛くないと感じている場所は本当は痛かったと知ったのは、自分で固定観念の世界を出てからのことでした。だから、出てみようとすることがいい。なんまる星人になろうとすることがいいのです。
途中、会の女性からは、「マイナスから抜け出すとき、自分がとても好きとかいう思いがあったのですか?」と尋ねられました。今、「抜け出すことがいい」と言っている私は、あの頃は、ひたすら傷の重たさにつぶれて、まるで瀕死の状態で、「抜け出さざるを得なかった」というのが当時の真実です。
そして、自分が好きになれたのは、自分が楽になってから。否定された場所から抜け出して傷を癒やせた分だけ、自分を好きになれました。そして、ある日、別の自分だった自分を知った時には、自分自身の存在が心に重く感じることもありました。でも、最近では、自分を否定する自分もずいぶん小さくなり、今は、好きというより「私は今ここにあるんだな」という感じです。

 この何日か、いろんな質問をされることが重なりました。それぞれの方の視点の違いに感心したり、尋ねていただくことで私の中にあるものを確認できたり、新たな発見が出来たことをうれしく感じています。
 


2007年01月18日(木) Hunt

 「細胞」のお話を保育士さんに読んでいただいて、感想を聞いてみました。いくつかの単語や表現方法などで、同じ女性から見た視点で共感する部分がありました。それから、視点が違うものもあり、「なるほど」と感心する部分もありました。
 人には心があり心で感じたものを、表現して他者に伝えようとする生き物で、その表現方法はさまざまです。全く横道に外れますが、そして当然のことなのですが、例えば赤ちゃんは始め、お腹がすいたら唇をムニュムニュさせてお乳が飲みたいと訴えるけれど、赤ちゃんは「私は今から唇をムニュムニュと合わせることをしよう」と思ってしているとは捉えにくく、飲みたいという欲求がそのしぐさとして現れているのですねぇ。
 本題に戻りますが、自分の感じているものを言葉で語るのも書いて表現するのも、心に添って浮かんでは消える一瞬の思考を、その時語った・その時記した。そして次があるということなのでしょう。時の流れと共に変化する思考を、どこでどのように生かすかで違ってくるから面白いです。細胞の話を書き始めた当初、自分の中の「改めて実感した体の細部の役割・生きる力のあること・すごいよ・この感動を言葉にしてみたいんだ」という衝動にも似た心持ちから、今は「よりやさしく伝わりやすく語る方法があるかな?」と自分の中にあるやさしさを探求している自分が面白いです。自分のやさしさを探しだそうとしている自分はくすぐったく心地よいもの。私は「生きている」という感じがします。

 最近は昼休みの公園でウグイスを見かけます。小さいけれど、飛んでいくのは早くて、飛んでいった先を見失い、あきらめて、すずめと遊んでいます。
 子どもの頃には、つっぱり棒をして半分かぶせたかごの中に米粒を置いて、棒には糸を付けた仕掛け網を作り、すずめが米粒を食べに入ってきたら紐を引っ張ってかごをかぶせ、すずめを捕まえて遊んでいました。考えてみれば、誰が思いついた遊びなのか分からないけれど、よく捕まえられたなぁと感心します。子どもの発想ってすごいものです。私も、子どもだったのです。

そこで一言。
すずめさん、まん丸おめめで何を見ているの?小さなお顔におおきなおめめ。かわいいね。チョンチョン歩いてかわいいね。飛んでる姿も可愛いね。仲間に入れてくれてありがとう。楽しい昼休みになりました。


2007年01月16日(火) やさしくていねいに

 子育て支援。今日は0〜1歳児のお子さん。
今日は、支援にいらっしゃったお母さんの女性から、「子どもさんは居ますか?」と尋ねられました。私はほんの少し迷い、そして、これまでの保育園での流れを思い返してから、「居ました。でも 離婚したので、今は居ません」と答えました。
 女性はそれ以上尋ねてきませんでした。私はそこで始めて「地域の方に訪ねられる」ということを実感しました。実は、心の準備がなかったので少し戸惑ったのです。でも、園の中では子どもが居る人なのに、地域に出ると子どもがいない人と言うのは変だもの。それに、いつも同じ事を語っていたい。だからこれでいいのです。

 それと、仕事中に不思議な感覚の自分を見ました。以前とは違う自分です。今、私が見ている、“子どもさんと遊んでいる私”は、小さな子どもさんに対して意識しすぎて構える自分ではなく、ごく自然に楽しい自分です。自分の変化を心に感じられた時には、鼻歌を歌うような気持ちがしました。

 家に帰ってパソコンを開けると、昨日ベトナム人のお友達に出したメールの返事が届いていました。最後に「Mamoさんベトナム語が上手になりましたね…例えば・・・(と、ここからは私達に共通する少さなGUGでした)」と書いていました。小さなGUGの面白さも手伝ってか、あたたかい気持ちになり、「丁寧に動いてよかったね」と自分に伝えました。
そして、今の自分もきっと過去の積み重ね・未来への通り道なのです。


 今、簡単なお話をひとつ書いています。「細胞」のお話です。
 細胞は次の細胞の為に生まれ変わるのです。これを“死”という言い方で表現することもあります。
でも、やはり次の自分の為に生まれ変わる。私は自分にある細胞をやさしく育てています。


2007年01月15日(月) 認めるやさしさ

 1月14日付けの朝日新聞に、ホワイトカラー・エグゼンプションの対象になる労働者は全体の0.4%だと載っていました。「あらまぁ、大変・・・」。先週土曜日の13日、ベトナム人のお友達と語り合ったとき、私は「対象者は全体の2割だそう」と伝えていたのです。そこで、自分の言葉の根源になった記事を探しましたが見つからず、私の見間違いかもしれないと、お友達に正しいものを伝えました。小さなことですが、間違えたのは私。気が付いた事を修正している自分は、丁寧に生きる自分を育てているようで嬉しく感じました。
 ちなみに、私は自分の間違いを認めたり謝ったりする自分がいいです。そして、自分を認められず、他に害をもたらしてしまう自分も居ます。でもやはり、そのままの自分を認めていくと自分が楽。大切な自分のために、素直な自分を育てます。
 以前、「間違えたときには自分よりもまず相手に謝罪して」と聞いたことがあります。どうかな・・・。間違えたのは間違える自分が居たということです。私は、間違えた自分と向き合い、自分に「間違えたね」と言えることで新しい考えが浮かび、例えば心からの謝罪に繋がるように感じます。
 子ども達にしてしまった事も、間違えた自分を認めた分だけ楽に見ることが出来る。だからやはり、自分に「ごめんね」が先みたい。そして、どんな形でも、心は伝わるのです。

 ところで、私は今、昨日14日の新聞の中で感じた二つの疑問を楽しんでいます。一つ目は、「死後の腎臓提供者が昨年では100人を越えた」という記事です。移植コーディネーターは「臓器移植は権利の1つ」と捉えている、とありました。臓器移植は本人の意思というと分かりますが、「権利の1つ」とはどういう意味かなを脳の何処かで考えています。でも、まだ分からない。
 二つ目は、連載されている「育児ファイル」です。「母性は本能でないことは、今や定説です」とありました。
本当かな・・・? 自分の中でじっくりと考えを纏めてみたい。そして纏めたものを言葉にしてやさしく語れるようになりたいのです。


 夜、「脳のどこを使おうか」と考えをめぐらせているうちに、子どもの頃、能面のように無表情だった自分の様子が浮かびました。そして大人になってからも、心の勉強をする以前には能面のまま生きていた私。やさしい刺激は皆無だったのだなぁと実感します。

 赤ちゃんはよい刺激も悪い刺激も、受け入れます。心にやさしい刺激がたくさんあれば、やさしい刺激を受取りやすい脳に成長したことでしょう。 
そして今、私は、…自分の顔は見えませんから、私はどんな表情をしていますか?おそらく、楽しいときには楽しいお目目を、怒ったときには怒ったお目目を。
感情を持った一人の人。いつもやさしい目をして生きる自分を育てます。

** 〜Toi muốn đi Baseball〜 **


2007年01月14日(日) ありのままにしたためて

今日は知立市にある、ベトナム研修生さんの寮へ遊びに行きました。インターフォンを鳴らすと、可愛い声と懐かしいお目目が、ちょこんと顔を出しました。
 その後、研修生さんの寮から自転車をこいで、会社まで行ってみました。約20分の道のりは坂を下りて上って…。「冷たい冬や雨の日は大変」という彼女達の言葉に納得しました。
 途中で、ヨモギを摘みました。まだ1月だというのに、土の肥えた場所には青々と茂っていました。そして、まだ1月ですから、その葉の柔らかいこと。次の芽が出るように上の芽だけを頂きました。天道虫も毛虫もいました。こんなに寒いのに不思議です。温暖化のせい?それとも、今は、越冬てんとうや、越冬毛虫が居るのかな?

 ベトナム語で少し話をしてみました。頭には、この春下見に行く予定のベトナムで、現地の方とベトナム語で話をしている自分が浮かんでいました。テープを超スローにして一単語ずつ話している私です。 もちろん、ベトナム以外のどこに行っても、私のすることは同じです。

小さな時を進めていける自分を大切にしています。


新宝緑地公園から見た天白川
スイカズラの実(おそらく)
えっとうてんとう
 菜の花  ○○○ばたけ




Mamo |MAILHomePage

My追加