「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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職場では人手不足の中で更に人が辞めていきました。そして今は、何人かの人が辞めた人の分を掛け持ちしたり皆が無理をしている為に、安易に言葉をかけることが出来ない険悪な空気が流れているのです。私は今日、マイナスの空気に巻き込まれないよう意識しながら自分がしている事を忘れないようにすることで精一杯でした。
今日は利用者さんを連れて他の病院を受診しました。その病院の外来は混雑していて、順番を待つ患者さん達の前を看護婦さんは忙しそうに行き来されていました。私たちは予約をしていたにもかかわらず、自分たちのわずかな情報すら行き交わされないまま30分待ち、その間に同じ場所を3度往復する羽目になりました。 私は時間に追われる事情が把握できてしまうのですが、その対応のまずさと長い待ち時間に怒りを感じました。しばらくすると、そこで働く人々も長いすに座り順番待ちをしている人々も、自分で生きる事を忘れているように見えてきました。病院だけではありません。社会に生きる人は皆過去の国の政策に染まる事を強制され、自分の事よりも他者の世話をする事を当たり前と思わされ、自分を忘れて「本当の自分」を見ずに生きる事を強いられてきたのです。経済主義を求めてそのような人格を強制してきたのは過去の社会ですから、今を生きる私たちはこれから自分を生きられるように声を上げていく必要があるのだと思います。
ある女性は半身麻痺で車椅子生活をしていて、終日ベッドに横になったまま、お通じが出ない事に心を奪われ下剤依存になっていました。私は約2ヶ月前その方と、お通じの出る身体になるように 「一日にお茶をたくさん飲む」 という約束をしました。次には 「お茶を2杯飲む」 事が決まりました。更にその次には 「お通じを出す為にはお茶を何時飲むのが良いか」 になり、そして一週間前女性は 「自分でお茶を飲みたい時に飲みに行く」 と言いました。私は女性が自分から動く事を始めたのだと感じました。そして今日・・女性は私に 「下剤を下さい」 と言いました。私は振り出しに戻ったような気がしました。そしてよく考えると、私はこの女性の年齢や背景からまだまだ動ける力があると思えたので言葉かけをしてみたのですが、それをどう受け取るかは女性側の問題なのですよね。私の中には 「自分を意識しながら仕事をした」 という事実がある・それだけで良いのですね。私はこれからも自分を大切にしながら他者と関わる事をしていきます。
私の職場はフロアが4つに分かれていて、利用者の介護度や痴呆度により選択され、私たちはそれぞれのフロアをローテーションで回ります。そして私は、仮にある方が高度痴呆を持っていたとしても、その方が自分でやろうとする事を手伝います。さらに私は常に私の 「より良い人生」 の為に動き、そして 「結果」 ではなく 「私が今をどう生きているか」 を大切にするのです。
夕方暗くなってから心友と4人で公園に行きました。私は子ども用の小さな遊具の中を笑い転げながら渡り歩き、心の底から無邪気な気持ちになりました。そして木登りをしてみたら、登ることは出来たのですが、下へ降りれなくなってしまったのです。私はしばらく考えてから 「木から降りられない」 事を伝えました。下に見える地面がとても遠くに見え、心の底から不安を感じたのです。私は心友の一人に手を借り、別の二人がじっと見つめる中で、地面に降りることが出来、そこでふと思いました。私は今、出来ない事を 「出来ない」 と伝える時、自分の中にバリアを張らなくても良いのですね。これまでは、出来ない事を責められないように自分に囲いを作っておくか、出来る振りをする私で生きていたのかもしれません。
そして私は潜ったトンネルの中で・渡り歩いた網の上で自分の身体が今はもう大きくなっている事を実感しました。私はもう子どもではない・・。私は私の感覚を感じながら、大人の身体と大人の心を持ち、プラスに動く生き方をしているのです。20:00
「全てのいきものは感覚を感じて生きている」と、私は思う。 私も 「いきもの」 であるから、本来なら感覚を感じることで、その後の自分の行動を自ら決めていけるのだ。自分を意識できていれば、この 「生き物としての感覚」 をどんな時でも感じていられるのだ。むしろ自分の感覚をいつも感じていられなければ、私たちの命が 「きけん」 ではないかと思う。ただし私は人生の初期に自分を守る為の感覚を麻痺させられたのだから、これまでのことは仕方がないだろう。そして今、私は 「感覚を持つ自分」 を感じるたびに力強い気持ちになる。
私を含めた全ての人が心を無にして自分の内側を見つめることは、 「自分の感覚を取り戻す」 うえでとても大切な作業なのだ。もしも社会の雑音に巻き込まてしまうのなら、1.2年はカプセルに入った気持ちで 「ひとり」 になるのが良いだろう。因みに私は3年以上の間 「自分の苦しみから開放される事以外何も見られない心境」 にあった。そしておそらくこれからは少しずつ社会を覗きに行くことが出来るだろう。どのような社会に居ても、傷のない私であれば「ありのままの自分」で生きる事を知ったからだ。
私は 「自己」 のまま社会に立っていられるかと思えば、別の場面では簡単に否定的な言葉に巻き込まれる。私が今 「否定的な社会でどれだけ自己を見つめていられるか」 は、心の傷をどれだけ癒やし、 「感覚を感じられる自分」 をどれだけ持続できるかによる。私は 「自分が生きている感覚」 を知っている。それならば、この感覚を何時までも持続させよう。私は 「いきもの」 だから、自分の身体も自分の心も自分で守る事が出来る。私はその力を持っている。
私はこれからも自分を守る事をしながらさまざまな社会を見る。「生きている自分」を感じることで更なる能力へとつなげていく。巻き込まれた時には「無」になり自分の内側を見つめることをする。22:00
私は自分の身体が作られる時期に栄養失調を起こていました。その為に今でも身体の一部に弱い部分がある事を感じています。そして今、私が生きるために 「体力を整えておくこと」 が大切です。さらに身体のどこかが不調な時の私は、身体が健康な時よりもプラスの思考力・行動力が落ちることも感じています。これからの私は 「よりよく生きられる身体作り」をしていきます。不足部分を意識しながら適度に栄養を摂り、私の身体が「心地よい」と感じる程度のスポーツを取り入れることは私自身の身体と心を守ることに繋がります。 私は新しい知識を学ぼうとしたり、新しい身体を作ろうとしたり、2・3日前から考えているこれらの発想のが全てプラスの動きの続きとして生まれている事を実感しています。「プラスからプラスが生まれる」というのは事実のようです。私はこの事を自分の経験から確信します。
アテネ5輪で負けた選手はマイクの前で嗚咽を漏らしていました。コメントを求めるほうと、逆に求められるほうと、双方はどんな気持ちなのでしょう。私がマイクを持つ人なら、彼女の嗚咽が止むのを待ちたい。私が選手として負けたなら、その悔しさをかみ締めたい。 私には、社会の殆どは感情に巻き込まれて、大切な事が見えなくなっていると見受けられます。22:00
私は「自然で柔らかい私」で生きていきます。そのためにはどうすればいいのかな。自分に優しく生きよう。自分を一番大切にして生きよう。そして私はいつも自分の事だけを意識してして生きていこう。そして今よりもさらに太い能力を作り上げていこう。太い能力が出来上がったら、更に奥深い過去の傷を見に行こう。
私は今、自分の思考が壊された瞬間の傷を知りたいと考えています。私が最近感じる頭の中の変化と気付きは言葉で説明する事が難しくなっています。今はまだ言葉で表せるほどまとまっていないのかもしれません。
私は英語をもう少し勉強しようと思っています。今はやりたいことがたくさんありますが、それぞれ時間調整をしながら楽しんでいこうと思います。私が何かをするときに、その事を楽しめる自分で居ることはとても大切なことです。何故なら私が常に楽しみながらやってきた事は、私の感覚・思考が自然にその事を吸収しているという事実があるからです。そしてこれまでの常識で考える 「頑張り」 や 「一生懸命」 いう言葉とは無縁の世界で 「自分のもの」 になっていることも感じています。この事をもっと深い部分で考えてみるならば、私が自分の 「生」 をよりよく生きようとしていることに繋がるのです。人間は常にこのようにあるはずです。私は常に 「自分を生きる」 為に、自分の感覚に耳を傾ける事を意識しています。21:00
| 2004年08月13日(金) |
ハスの花 大人の生き方 |
私は今日生まれて始めて本物の「ハスの花」を見ました。ハスの葉は子どもの頃に雨露を乗せて遊んだサトイモの葉の数倍もあり、目の前に広がるその葉を見ていると、子どもの頃のように葉の上に露を乗せてみたい気持ちに駆られました。過去の私はサトイモの葉の上に乗せられた水滴を長持ちさせることで楽しんでいたのですが、ちょうど今の私から見たハスの葉の大きさと同じように、あの頃の私にはサトイモの葉の大きさもかなりの比率を占めいてたのでしょう。子どもの私が小さな身体で持ち上げている葉っぱから水滴が落ちていくのにそれほど時間はかからなかったように思います。 私は現実の何かが過去の記憶を知るきっかけになる事を度々実感します。そして少し前まで私の過去の記憶には 「暖かさ」 や 「懐かしさ」 を感じるものは殆ど無かったのですが、最近では毎日を自然と触れ合い利用し子どもならではの感性でさまざまな遊びを発明していた過去を思い出します。あの頃私の肌に馴染んだ 「自然の柔らかい感触」 が、今も私の行動を 「自然に自然に」 と掻き立てるのかもしれません。さらに私は他の生命体と同じ「いきもの」ですので、私が 「自然の中でありのままに生きたい」 と思うのは 「いきもの」 として当然の欲求だろうとも思います。
私は今日までの2ヶ月間、日常でたくさんの思考が沸いてくる自分を肯定できずに居ました。沸いてくる思考・現実を否定し私の心から消していくことにエネルギーを使っていたのです。そんな状況から抜け出してみて感じる事は、 私自身の成長は「肯定」 の中から生まれ、それを続けていくことで発展していくのではないかということ。常にプラスの行動をしている自分を意識することは、今の私にとってとても大切なのですね。
大人の私は 「大人としての生き方」 をしていく必要があるのですね。 大人の私が苦手なことから逃げたり衝動のままに行動してしまうことは、私自身の成長を遅らせることになりますね。私自身が今の自分に確かな優先順位をつけることが出来れば、「苦手」 と捉えていたものの中から自分の感覚で何かを掴みプラスの行動していけますね。それはおそらく、自分の行動に 「大人としての責任」 を持つことに繋がるのですね。私はこれから 「今を生きる」ために自分自身で思考を切り換えながら生きていきます。食事をするときには食事を楽しみ、仕事をするときには仕事を楽しみ、休日には自分を丸ごと遊ばせて、そして心の作業を進めていきながら生き続けていくのです。この頃は新しい試みのひとつとして、 「書いていくことの基本」 を覚えてみようと考えています。私は新しい事を始める時、その事によって自分に何が起こるのかをいつも楽しみにしています。23:00
昨日富士山頂に立っていた私は 「私自身」 として生きていました。私がプラスの好奇心を意識出来る時、私は「ありのままの私」として生きていけるのですね。7:28
一泊かけて富士登山に行ってきました。5合目まで乗り物を使い、そこからのんびりと自分の足で歩いていきました。行き交う人々は口々に声をかけ合い、日常の社会とは違う暖かさがあちこちに溢れているように思えました。私は始め周りの景色に目をやり、かわいらしい高山植物にそっと鼻を近づけてみながら、ゆっくり登っていきました。目の前に大きな山がそびえている。その大きな山の目の前で、頂上まで登ることよりも、私の足で・私のペースで登る事を心がけました。とはいうものの、8合目にさしかかる頃には私の足は棒のよう。足は疲れているけれど、もう少し登りたい。でも景色を眺める余裕がなくなっているのです。足の重さをどうすれば良いかな。自分の足元を眺めながら歩いていて、ふっとこんな事を・・。 「ゆっくりで良い。立ち止まっても良い。自分の足と相談して、足が楽なところにつま先を降ろして。私の足は自分の楽な場所を知っている」 それからしばらく、私は心の動きに合わせてゆっくりと自分がつま先を何処に下ろしたいのかだけに、神経を集中していました。 「とても楽ちん。足が重くない」 うふふと頬を緩めたくなったところで、別の思考が沸き起こりました。 「人生もこんな風に歩く事が大切・・」 そうでしたね。私は自分の人生もただゆっくりと前を向いて、自分の心を大切に出来る方法を探しながら、自分のペースで歩いていけばいいんですね。もしも疲れてしまったら、気が付いた場所で疲れない方法へと変えていけば良いのですよね。 気が付くと、足の疲れがあっても登山を楽しむ私が居ました。というわけで、あっという間に9合目まで来て上を見上げるともう一息。気分はとてもすがすがしい。目の前に現れた頂上で、私は自分の心の中にいつもと違う 「優しい気持ち」 を感じていました。頂上で泊った山小屋ではひとつの布団に二人で寝るという面白い寝方。消灯を過ぎると電気は消され時々光る稲妻以外は真っ暗で、敷き詰められて足の踏み場がない布団の上を、寝ている誰かの睡眠を妨げないようにそろそろと手探りで這って歩くのです。間違っても寝ている人の顔の上にだけは足を下ろさないようにと。すぐ傍に知らない人の寝息が聞こえ、誰かの寝苦しささえも私の耳に届きます。かと思えば大いびきをかいている人も居る。何もかもが新鮮に思え、私自身の身体の重たさもたいした問題ではありませんでした。私はまるで世間と違う世界に居るような気がしていたのです。さて 「日の出」 はというと、富士山頂に立つ私の目の前で、ゆっくりとその全様を現しました。私にはオレンジ色の強い光りが印象的に思えました。ところで 「雲海」 というのを見た事がありますか? 私は今日始めてみたのですが、身体の疲れを忘れてしまうくらいに美しい・・。見渡す限りを沸き立つような雲が敷き詰められていて、まるで 「もくもく」 という音すら聞こえてきそうです。自然がかもし出す美しさ。人間には出せない美しさ。私たちは自然に作られるさまざまなものがいつもその場所にあるように、自然を大切にしていく必要があるのだと感じました。そして足は疲れていないかというと、どうやら心の状態と筋肉の疲労度とはほんのちょっと違うようで、下山する時の私の足は、それはもう・・。そして筋肉の疲れが残っていても、私は機会があれば又どこかの山の頂に登ってみたいと思うのです。21:00
| 2004年08月07日(土) |
思考 「私」 の感覚 |
私は胎児の頃に 「真の感覚」を傷つけられていたとすると、現在持っている傷を癒やしていくにはそれなりの時間と能力とが必要なのだ。そして最も大切なことは、「傷を癒やしたい」 と思う自分が居ることだ。私は今、「過去と同じ人生を歩くまい」と思う自分を知っている。そして私は、自分の細胞レベルで感じる心地よさも知っている。
ところで、「思考」に付いて考えている。どうしても浮かび上がるさまざまな思考。浮かんでくる思考の中で、どれをチョイスしようかと考えてみる。そうか、過去と同じ生き方をしない為に、過去と違う思考を選べば良いのか。そうすると、プラスの思考だけをチョイスすることになる。 そして今は、浮かんでくるのはプラスの思考が多いから、どうするかな。優先順位かな。これでいいのかな。更に 「優先順位を選べる私」 が居るために、やっていくことがあるんだね。 混乱し入り乱れたままの思考で生き伸びてきた私は、その混乱がどれだけ心地悪くても、そこから抜け出すには、相当のエネルギーを使うのだ。
私は 「その場所から抜け出しても安全だ」 という確信を持てると、そこから抜け出すことが出来るのだ。
この作業をしながら、プラスの思考は纏めていけると良いのだ。どうすれば良いかな。でも今はまだまとまらない気がする。纏めようとすると私の感覚は途端に麻痺するから。
細胞とか、思考とか、私は今、他者とはまったく違う世界に生きている。昨日 「今度、飲みに行こう」 と誘われた。 私は・・ 「心のことが語れるならね」 と、心でそっとつぶやいた。全ては自分が楽になるために。7:17
一昨日から時々、この状態が「真の私」 だろうと感じる事があり その感覚には、何か確信めいたものすら感じている。私の体の隅々が、自分の感覚を知っている。自分では見る事が出来ない背中も頭のてっぺんも、それから爪の先も足の裏も、全身の全ての神経が自分に向かっている気がするのだ。これがまさに「真の私」 で良いのなら、これまでの私は 「偽りの私」 ということになるだろうか?
そして今日、私は 「真の私」を意識して社会に出ようとした。不思議なものだが、「真の私」 で居られる時には、自分がしていることに集中できている。集中が途切れる 「偽りの私」 になると、周りの言葉が耳に入り作業がごちゃ混ぜになっている。「偽りの私」は、周囲の雑音に意識を取られていて、その中で「今、何をしているのか」を確認することだけにエネルギーを使っているのだ。それから今一度「今はこの仕事をしているのだ」と自分に言い聞かせつつ、自分の事をしていく事を繰り返している。
書きながら思う。私は自分に意識を集中させることが出来る時、「真の私」 を感じることが出来るのだろう。ということは、どんな時も 「集中」 することはとても大切なのだ。
私は今はまだ、「思考」に付いて混乱している部分が多い。そしてそれでも毎日、何かを発見している。このようにして、毎日こつこつと取り組んでいくことで、いつか何かが見えるだろう。 今私が意識することは、誰かのフィルターではなくて、私自身の感覚で現実を生き、社会を知り、全てのものを自分の感覚で掴んでいくことだ。それを持続出来る私であれば、私は又成長できるのだ。
私はもっともっと自分の時間を作り、自分の心を見つめる為に使い、 「真の私」 の感覚を取り戻していこう。私は、仕事をしていても車を運転していても、トイレにこもっている時さえも、全てを自分の心の為に使っていく。 21:00
| 2004年08月06日(金) |
ピンク色の能力 思考 |
好きな色は「青」・・なぜかな。いつの間にか、私のお気に入り色になっていた。青は空の色、海の色。
そして今日は、能力のリストをピンク色で書いてみた。
新しい私の、新しい能力。まったく違う自分のような気がする。
まったく違う自分、そして過去から38年間、 「生」 を続けてきた自分・・・。
さらに私は、これから2.3日後に 真の 「私」 になる。
そのための仕事がひとつだけ残っている。
その仕事をやり遂げたら、「私」はスタートする。そう考えると、今日にでもなりたい気がする。
けれどもう少しこの感覚を味わってみても良い。
ひとつ階段を上る。とても大きな階段を上る。ピンク色の能力を持って私は「今」を生きる。8:45
二日間の休みを終え、久しぶりに仕事に出た。社会では相変わらず否定的な言葉が溢れており、「私はこの社会に巻き込まれて居ることが多いのだ」と改めて思う。 今日の私はどうだろう。いつもと変わらない自分のように見える。更に自分を意識できる自分のようにも見える。社会に居れば小さな戸惑いは常にあるだろう。自分が感じた戸惑いをどれだけ早くキャッチできるか。私は今はまだ、時に自分の戸惑いを無視する自分になる。そんな時、私の感覚は違和感を覚える。
私の作業の一番の弊害は、思考が入れ替わることである。FBした時はもちろん、何でもないときにすら入れ替わるように見える。過去に考えて来た事を総おさらいしてみる。それでも今はまだ纏まらない。どうにかしたい。私は過去と同じ辛さを味わう事を避けたい。誰にも依存せずに一人で生きたい。私は自分の人生を生きる。 あたらしい 「私」 は、より 「人」 として生きたいのだ。 「私」 の感覚で何かを掴みたい。そう思っている。いろいろと思うことはあるけれど、今はまだ模索段階である。 21:00
| 2004年08月05日(木) |
意識 生きる 「人」 |
何処にいて何をしていても、自分を意識できている事が大切なのだ。私がこの耳で聞いたことが何度も素通りに終わるのは、聞いている自分を意識できていないときだろう。ほんの少しでも現実に辛さを感じると私は思考を入れ替える。それは無意識の中で行われる。入れ替わった思考を元に戻すには酷くエネルギーが要る。何故だろう。考えてみると当たり前かも知れない。現実を否定して思考を入れ替えているのだから。 そしてよく考えてみよう。過去には酷いばかりの現実だった。今は違う。ではどうすればいいのかな。現実を受け入れよう。事実を知ろう。何しろ成長したい私がいるのだから。どうしても前に進みたい。心を知る事はこの上なく面白いと感じる私がいる。そうだね、ひたすら自分を意識しよう。これ以外に無いのだ。何処で何をしていても自分を意識している自分であれば、知らない間に成長しているのだろう。
たいていの人は 「自分は不完全だと思い込んでいる」 と、ある本に書かれていた。私は一瞬、自分はどうだろうと考えるが、そもそも完全とか不完全とか、そんなものは何処から舞い込んでくるのだろう。人間を対象に完全か不完全かは考えられない。
では私が過去に抱えていた 「完璧」 は何だったのだろう。完璧とは、欠点が無く優れていることらしい。言葉の意味を知り、そんなものを抱えていたことに驚いた。完全も完璧も人を基準に考える問題ではないのだ。 「いきもの」 に完璧なんてありえない。モノにだって、何かの決まりごとにだって、完全や完璧はありえない。全てのものは一秒ごとに変化していくのだから。 だから私は 「生きること」 をしているだけでいい。ただ此処に存在するだけなのだ。10:00
「人」 は自然と共に生きる。「人」 と 「自然」 の共存だ。では、「人」 と 「人」 はどうだろう。まず始めに、人は一人で生きていけるだろうか。もしも地球上で、私の他に誰も 「人」 が居ないとしたら、私は自分が感じた何かを、どのようにしていくだろう。地球上に「人」のほかに存在するものは 「自然」 だけだとすると、私はおそらく自然に向かって語りかけることになるだろう。私は語り掛けたい自然が見当たらなければ、いつものように自分の心に語りかけるだろう。ということは地球上に私一人が居たとしても、私は「生きていける」と決定できる。
では 「人」 と 「人」 の共存についてはどうだろう。 過去のように、その「人」が「人」の成長を止めるようなら、その「人」は居ないほうが良いことは明らかだ。逆に「人」がそこに居ることで、「人」は成長を望めるのであれば、その「人」が居ることは良いだろう。
では 、「私」 が 「人」 の傍に寄る場合はどうだろう。 もし仮に、今の自分に満足して生きるのであれば、ただ 「人」 の傍に止まる事も良いだろう。反対に、 「成長したい私」 だとすると、こちらは行動の問題になるけれど、私は 「より成長しやすい」 行動を選ぶことが賢明だろう。もし私がその 「人」 からプラスを吸収できるのなら、時には「人」に寄ることも良いだろう。
このように、「人」 と 「人」 が共に生きるための条件は、それぞれの「人」は 「成長を望んでいる」 ことだろう。 そしてもし、成長を望める 「人」 と 「人」 が、寄り集まって生きるなら、それは充実していてすばらしいことではないだろうか。
更に実は 「共存」 という言葉の意味は 「同時に二つ以上のものが存在すること」 であるから、それぞれの 「人」 がそれぞれありのままに存在する形となっている。つまり 「一人を生きている人」 が二人以上集まることで 「共存」 という形になるのだ。
本来なら 「人」 と 「人」 は、このように充実した形で 「共に生きている」 はずだろう。
ではそうしてみよう。 仮説のようだが、一人で生きられる 「私」 は 「人」 と 「人」 として、 「共に生きる」 こともできるのだ。
どちらも、同じくらい充実している。どちらもすばらしい。15:45
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