「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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| 2004年06月21日(月) |
頭痛の原因 感覚を取り戻そう 「楽」の大小 |
じっと横になり自分が感じていることを意識するべく、ここ数日の生活を思い返していたら、今でも肩に力を入れて生きている自分に気が付きました。そうか、私は本当は疲れているのですね。 うまく言えないのですが、とにかく自分の体の不調がどこから来ているのか、私の中のどこかがそれを感じ取れるのです。私は必要以上に筋肉を緊張させているのです。必要以上に力を使ってるということはこれは巻き込まれてるのと同じなのかな。多分そうですね。 そうか、マイナスの思考をしている自分を認めてしまうとやはりこういうことになるのかな。マイナスの思考を認めるのは良くても、マイナスで生きていて良いはずが無い。辛いから。 頭の中のどこかで「私は本当は疲れている」と言う声が聞こえます。時々聞こえるこの声も私の思考。前回この声を聞いた時、私は仕事を休んでしまいました。何故なら本当に疲れてると感じたから。 そしてその時に、「人生を生きるためには、社会に巻き込まれない自我の強さが必要なのだ」と実感しました。子どものような純粋な感覚や、ワクワクする気持ちだけでは人生を生き続けていくことは出来ないのです。理由は、今の私は大人として社会の中に存在しているからです。 子ども時代は過ぎ去り、過去は過去としてあるということです。 そしてまたこの声。また疲れている・・。でも前回の時よりも私の疲れはうんと小さいのです。
考えてみると、仕事中に他者に振り回されなくなってきたけれど、そこはマイナスの世界であることに変わりは無いのですよね。この頭痛はプラスで生きることの楽さを知り得た私であるがゆえの、心の悲鳴かもしれません。
少し話がそれますが、私は過去に自分の中のマイナスの生き方とプラスの生き方の違いを比較できた時、それらはあくまで違う人格同士の問題でした。でも今は、どちらも私の思考だから私自身が切り替えていけば良いのです。白い世界を持続させるべく。
もうこれ以上、無駄なエネルギーを使うのはやめよう。過去には食べ物の栄養は全て、こちらのほうに吸い取られていた。楽に生きよう。わたしは無防備に生きる感覚を知っている。あっちのほうがずっと楽だった。そうか、新しい生き方をしよう。
そしてもっともっと、自分に隠れている感覚を発掘していこう。それが自分を大切にすることに繋がるのです。6:30
台風の強風で大切に育てているトマトが何本か折れてしまいました。残念ですが仕方がありません。私は自然には逆らえないのですね。自然は偉大なのです。空梅雨であることが台風を呼ぶのだと聞きましたが、それも大切なことでしょう。台風が来ると雨がたくさん降るのだからね。私は今朝、トマトが倒れないように対策を練って仕事に出かけたのだから、倒れたことは仕方が無いと思えます。
頭痛が殆ど消えました。仕事中に一度だけ、キーンというのが来ましたが、昨晩に思いついて肌で感じた「力のいらない自分」を思い出し、楽しい一日を過ごしました。楽しくても身体は疲れることがあるのですね。私は日中仕事をする日には、15時を過ぎると思考力と集中力が鈍くなるようです。それでも社会では仕事を続けなくてはならないのですね。そうだ・・・そんなときに休憩に入れると良いのですね。
職場の若い子が「楽しい事が何も無い、何が楽しい?」と私に言いました。そーだなぁ・・。逆に「何が辛いか?」と聞かれると、一番近い過去では「体が不調な時」とか。私は自分の人生を楽しめる時間が増えてきているのですね。こういうのを「“楽”の大小」と言うのかもしれません。 でもでも、体の不調を感じることで、成長することが出来るんですね。私は自分の事をホントに“面白い人”だと思います。自分がこの先どうなっていくのかがとても楽しみなのです。
今の私は、何処までも一人で自分を見つめて生きます。そしてそこに私の真実の心を語れる心友が居れば、それが良いなと思います。
誰が何処で何をしたとか言ったとか、そんなことが問題なのではなく、「私が何を感じ何を考え、どんな行動をしたのか」こっちがとても大切なのですね。20:00
一昨日に続き頭痛。これは何?ついに鎮痛剤を飲んでから仕事を続けました。私の頭はどうなってる?!
| 2004年06月19日(土) |
「“私”の基盤つくり」 弱い自分を認めて |
何時からか自分の中で疑問だった答えがやっと出ました。1ヶ月くらい前から度々見えていたマイナスの私は、実は私自身だったのです。こんなことは当たり前のことなのですが、私は今日までマイナスを抱え過去の生き方をしている自分を認めることが出来ませんでした。理想の自分以外は認められなかったのです。ましてや過去に振り回されてる自分など。
マイナスの自分が見えているとはとても良い事ではないかと思います。 何故なら過去の私は自分のマイナス面を自分で見られない人だったから。見えてきても今まで認められない人だったから。マイナスの自分が見えていてそんな自分を受け入れられることは次のステップの大きな鍵になると思います。そして私はもっともっと、マイナスの自分をプラスに変えていくのです。
弱い自分を認めると楽になるのですね。これまでの私は自分を強いとは思ったことはありませんが、「弱いと思わないように」していたのです。私は感覚を持った“いきもの”で、その私が辛さや痛みを感じることは当然のことだったのに。 でも・・。 私は今夜自分に対して、心の底から 「 ここまでよく頑張ってきたね 」 と声をかけました。もう良いのです。弱くても。頑張ってきたと言うよりは私は長い間過去の辛さを持ったまま生き、自分自身の生きづらさに 「 耐えてきた 」 のです。もうこれ以上頑張ることも耐え忍ぶことも必要とせず、自分の感覚や思い以外の事をする必要もなく、私は自分として生きても良いのです。自分として生きる必要があるのです。私はこれからは自分の真の感情を感じながら生きていける。そして私は、過去にはこの言葉を別の人格にかけていたのだと思います。
これからどうやって生きていこう。そうだ、プラスの事をどんどんしていこう。先の事を考えて、新しい事をたくさん経験しよう。そうそう、これで良いのです。
又また壁に張り紙をしました。実はこの張り紙が意外と効果ありなのです。ちらちらと視界に入り、何かと私の心を刺激してくれるので私自身はこの方法がとても気に入っています。
私はこれから自分の問題に取り組みながらじっくりと生きていこう。何年かかるか分からないけれど、じっくりと自分を見据えながら、「“私”の土台」を作っていこう。どっしりと腹を据えて、じっくりと腰をすえて、「自分の基盤」つくりに専念しよう。ただそれだけをやっていこう。 それが私がこれからやるべきことだ。「私の基盤」が出来上がるまで私は多くを語らずにただ自分だけを見て生きていこう。10年あれば足りるかな。私の土台が出来るまで・・・。 「 私の土台 」 とは、傷を持たされていない私の 「 自我 」 の事といっても良いのだと思います。
ファシリテイター育成会に参加しました。私は過去、子どもの気持ちを理解できない母親でした。でもそれは仕方が無かった、本当に。他者が語っていた「仕方が無いんです」と言う言葉が今日は私の心にしみこみました。本当に仕方が無かったのです。 「そうなんだよネぇー、仕方が無かったよねぇ」と思った瞬間に、私の眼にある本の題名が飛び込んできました。 『自責の念に苦しんで』・・・そうだった。長い間私は自分を責める事をしてきました。自分を責めることは自分を否定することと同じでよいですか?私が自分自身を責めていた過去、いつもいつもとても苦しんでいた事を覚えています。それでも、今もまだ無意識の世界で自分を責めてしまう事があるのですね。もう、こんな生き方はやめよう。新しい生き方をしていきます。私の土台が出来るように。
今日の私は、長い間抱えていた大きな黒い塊がまたひとつはずれた気がしています。
今日は何があったかな。一昨日よりも更に、自分を意識しながら仕事が出来ました。自分を意識している時は、周囲の動きは私の中でとても小さい事を知りました。。
又亦喫煙者に誘われてしまいました。なんと返事をしようかと考える頭の隅っこで「今がその時かもしれない」と直感のように感じ、「私はタバコの無いところに行きたいと思っている」と伝えました。その人はちょうどその時タバコを吸っていました。「ごめんごめん」と言いながら私の立っているところから一番遠い場所に行き、私の言葉への返事は無いままその場を去って行きました。これでよいのです。私は自分の現実に関わる人を自分で選ぶことが出来るのです。何故なら私の人生だから。 ところが夕方になって、この話がどういうわけか「誘われて大変だったね」に変わっていたので驚きました。 朝誘われて断って、昼にその事を他者に尋ねられて「タバコが苦手だから断った」と伝えて、夕方には「大変だったね。あの人変でしょ」になっている。どうしてかな。私はタバコの件で付き合えないと言っただけで彼女の事を変な人だとは言ってないのです。人のうわさとはこんなものなのですね。私が語った一言が、一日のうちにいろんな風に変化して私の居ないところで語られる。おそろしい世界です。私はこれからますます、仕事することだけを考えて、他者の噂話に介入しない人で居ようと決めました。だって、あまりにも下らないから。それに私が語った以外の事を私の言葉として語られるのは嫌なのです。
半年ほど前から、疑問に思っていることが一つあります。その答えが今うっすらと見えようとしています。
以前私は男の人が苦手でした。子どもを4人も生んでいながらこんな事を言うのは実に変ですが、これは事実です。今はどうかな。癒やされた分だけは楽に近づけるようになっている。
トマトがますます赤くなってきました。嬉しいなぁー。食べるのはもったいない気がします。
| 2004年06月17日(木) |
いきもの 時間の流れ 生きている感触 |
腰に負担のかからない椅子を買いに行きました。少し高めの値段でしたが、体を大切にする為に必要なのだから良いのです。それから部屋の中を整理して、料理をして、それでもまだ半日しか経っていない・・・毎日早朝、寝ている罪悪感から目覚め、一日中時間に追われるように生きていた私はもう居ません。私はいつも自分が何をしているのかを知っていよう。
椅子を買いに行く途中の車中で空模様を見ていて、そんな自分に驚きました。そして別の誰かが言いました。 「 私たちは生まれて始めて天気を気にしている 」 これも現実を生きている感覚のひとつなのです。
無事に買い物を終えた後、車中で 「 生きている感覚 」 を味わった感触を思い出していました。
その時突然別の誰かが叫びました。 「 生きるとはこういうことだったんですね。時間を感じ、自分のしている事を感じ現実を見続けていられる。たくさんの私たちが“生きたい生きたい”と言ってる。私たちは生きたい 」
私たちは今、肌で感じるのです。 私たちは今日改めて 「 生きている自分 」 を知ったのです。それは 「 いきもの 」 であれば当然感じる感覚なのです。 私の細胞の一つ一つが 「 生きたい気持ち 」 を感じているのです。
生まれて初めてオケラといういきものを見ました。 ( 因みにオカラも好きですよ・・ ) 面白い身体をしていて、私がじっと眺めていることに気が付いてでもいるかのように、急いで土の中へもぐろうとしていました。土の中に潜る事をするのに、空を飛ぶこともするなんて、本当に面白い生き物だな。 くもの巣も見ました。クモは大きく張った巣の真ん中で生きるために必要な獲物を待っていました。私が軽く巣をつつくとクモは急いで端っこに移動し暫くすると又中心に戻ってきました。 庭に植えているトマトがようやく色づき始めました。実は、青い状態が長かったので、果たして「実」となったトマトは必ず青くなるのだろうかと、考えていたのです。良かった良かった。 海を見ました。海の水は船が通ると、そのように波を作っていました。ただ自然に。本当に水の流れは自然で良いなぁ〜。
オケラもクモもトマトも海の水も、それから真っ赤な太陽も、ただ自然に生きていました。私も・・・ただ自然に“いきもの”として生きていきます。そして、生き物としての感覚を持ちながら大人の知恵を使って生きていくのです。それが自分を成長させることに繋がるのです。
いろんな自分を肯定できると、いろんな他者を肯定できるというのは本当のことです。何故なら肯定の世界の心地よさを自分自身の心で知るからです。心の奥底で感じるのです。
私もようやく一人の時間を心から楽しめるようになりました。何時もいつも先の事を考えて生きていたら、過去の事を思い出す暇が無いくらいに楽しいものなのですね。そして私が現実にいないときや、他者ばかりを観ているときには、 「 あっという間に過ぎるていく 」 時間の流れも、現実で生きる自分を知っていられれば、とてもゆっくりとしたものに感じられるのでした。
現実を感じて生きるとはこういうことです。時間に追われて生きている時には、毎日何をしていてもまだまだ“遣り残し”があるように思えてならなかったのです。 今日は本当に、一日がとても長く感じました。もしかすると、これが生きている感触かも知れません。
| 2004年06月16日(水) |
小さくて確かな自信。 私自身。 離婚の選択に付いて |
私は今日、これまでで一番楽に仕事が出来たと感じました。ハプニングが無いわけではなかったし、決して暇だったわけでもありません。でもとにかく「楽に仕事をしよう」と頭で考える私ではなく、私はただ仕事をしていて、ふと辛さを感じていない楽な自分に気が付いたのです。 楽な自分を職場でも持続できると、私はますます過去の苦しい生活から離れた事を「良かった」と思える。さらに今まで以上に自分を信じられるようになってくるのです。
職場の人に「離婚した理由は何?」と聞かれました。私は暫く考えてから「自分らしく生きたかったから」と答えました。一言ポツリと語りながら、私の頭の中で一瞬だけ、過去の生活に隠れていた「支配の世界」を思い出しました。そうだった・・あそこにいた頃の私は“私自身”ではなかったのです。
でももう今は全て過去のこと。今の私は「私の人生」を歩いています。間違いなく私が選択した人生です。私は自分の今の生活に殆ど迷いが無い、別の人格も居るからまったく無いとは言いきれないけれど、殆どの事を私は自分の意志で決めているのです。例えば社会の人に否定されても、私はそんな時にはどうすれば良いのかを知っているのです。 職場の人は私の返事に「その気持ち分かる」と言いました。そうなんですね。世の中に私の気持ちに共感する人は多いかもしれません。でももしも、こんな私を否定する人が居たとしても、私は構わないのです。そして更に迷いが少なくなった今、これからが私の人生の本当の始まりだと感じます。私は今の自分を見て、「これで良い」とは思えていません。何故ならまだまだ傷を抱え苦しんでいる部分があり、そしてこれからも成長できる事を知っているからです。
昨日仕事前に、職場に必要な計算の勉強をしました。今日は職場で早速勉強した事を実践することが出来て、私は又また心の底からニッコリしてしまったのです。
| 2004年06月14日(月) |
私の現実 自分の人生を楽しもう。 鵜呑み |
仕事の日。出勤前にふと人間の身体に付いて知りたいと思った。ワクワクしてきて、これからは仕事を楽しめる気配がした。
職場では 「 あなたメッセージ 」 が飛び交っている。特に怒りを抱えた言葉は強烈に私の心に突き刺さる。無力な私にはならなかったけれど、自分ではなく他者を見てしまう私がいた。そうか、自分ではなく他者を見るから良くないのだ。そういうことか。やっと分かった。
昼休みに、一昨日の職場で私に怒りをぶつけた人の話が私の耳に飛び込んできた。でもその内容はちょっとだけ事実とは逸れている。そうか・・世間の会話のからくりが見えてきた。たいていの事は感情のままに他者に語られる。そして感情が入った語りは、事実の上に少しだけ何か違うものが上乗せされるのだ。そうか、その人の主観が上乗せされるのだ。だから私たちは、他者の話を鵜呑みにしてはならないのだ。特に人のうわさなど。といいつつ、私はその語りに便乗してしまった。でも今日の私は、「自分には出来ないことがたくさんある」と語ることが出来たのだ。事実だから仕方が無い。出来ないものは出来ないのだ。でも実は、興味を持てれば何でも出来ることも分かる。そしてこの頃は職場でも自然に楽しめそうな気がしている。
夕方になり、副主任が突然 「 私はもうすぐ辞めるからね・・ 」 と言ってきた。あと3週間ほどで退職されるそうだ。彼女は私に「嫌なことがあったら、ただもう “ 仕事だ ” と割り切ってね」と言った後 「 ま、人間関係が難しくて、いろいろあるけど頑張って働いて 」 と付け加えた。 私は少しだけ間を置いて 「 仕事を楽しみます 」 と伝えたら 「 そうそう、そうだね! 」 と返事をくれた。その時の彼女の表情は、私の言葉に少しの違和感も持たなかったように見えた。今の職場に入って半年間「仕事を楽しみたい」と言い続けた私の言葉に共感にした初めての人。プラスを受け入れられると嬉しいものですね。
本読みをしていてふと思う。過去に満たされなかったもの、満たされていなかった欲求を他者で埋める事は出来ないのだ。過去は終わってしまったのだから。例えば何人の男性を付き合おうと、どれだけたくさんの友人を持とうと、私が私を見ずに他の誰かを見ている限り、私の欲求が満たされることは永遠に無いのです。
明日一緒に仕事をする人と話をしていたのに、その何分後かに 「 明日の仕事は何? 」 と真顔で聞いてる私がいた。はっとして一瞬どこかに消えてしまいたくなる。コーヒーを入れて掃除を始める私。パソコンを開いて食事をしに行く私。一週間前の情報を真顔で話してる私。社会の中ではどうしてもまだまだ細かく途切れてしまう。
別の誰かは私の頭の中で言いました。 「 私たちが何度も出入りしてたら、記憶がひとつにならない 」 と。
又別の誰かは言いました。 「 私じゃなくてMamoちゃんに仕事をやらせなきゃ 」 と。
私以外の別の誰かが前向きな発言をするということは、私Mamoはそれが出来るだけの能力をもてたということ。つまり、その部分を楽しめる私になれたということなのです・・・だと思う。何故なら私は、「 自分の生を楽しむために存在する 」 からです。
ではどうすればいいのかな。自分を意識しよう。自分が今何をしていて、何を感じているのかを、私はいつも知っていよう。
| 2004年06月13日(日) |
いきもの。 星。 生。 |
久しぶりに休日の殆どを通して現実を生き、私は今日も又いつもと同じくらい素敵な日のように感じました。
突然ですが、私たちがこんなにも自分の命に対して執着心をもてたのは、私が “ いきもの ” として存在するからですね。そして過酷な状況を生きるだけで精一杯であったにもかかわらず、その中で私Mamoが自分の生に疑問をもてたのは、私が多くの人格に分けられていたからでした。
(決して、だから複数が良いということではありません。良いはずが無いのです) 普通、一つの人格がその環境に適応するべく自我が作り上げられていくようですが、私達の場合は無意識の世界で多くの人格に分かれていましたので、私は簡単に言うと 「 思考 」 の部分を受け持っていればよかったのです。
そしてそれはもちろん、私が“私”として生きられるように心の奥のずっと深い部分で望んでいたからなのです。
夕方空に輝く星を見ました。金星は青いそうですが、私の眼には朱色に映りました。反対の方角に土星がありました。土星は、海の底のような青い色に映りました。星は神秘的です。空に輝く星を見ることが出来て、えらく感動してしまいました。私はこんなに感動した理由が今も分かっていませんが、まるで初めて星を見つけた子どものように、本当に感動してしまったのです。
私がもし、庭に実っているトマトなら、トマトの甘さを持ち合わせ赤く熟れるべく生きるだろう。 私がもし、切れた小枝にくっついたサナギなら、蝶になるべく生きるだろう。 鉢植えのガーベラは、鉢の中では細く綺麗な線を出し、庭に植えなおされたら自然に負けじと茎を太らせ、何処にいようとガーベラとして生きるべく命を続ける。皆自分の命をただ生きている。ただただ生を全うするべく生きている。 私は私は人間で、何故なら人間として地球上に生まれたから。 私は人間として心を感じて生きていこう。 いつもいつも、これからもますます人間として生きていけるよう、傷を癒やし続けよう。
本当に大切なことは、 私が“ いきもの ” として生きることかもしれない。 そしてまだまだあるはず、本当に大切なもの。22:00
| 2004年06月12日(土) |
社会に出てみたら。「無気力な人」が出来た理由 |
「たくさんの能力を持って社会に出てみよう!」と思い飛び立ったものの、今日もまた意外と簡単に巻き込まれてしまいました・・・。 朝は楽しく職場へ行き、そこで優越感を見た途端に私は完全にタイムトリップしていました。仕事をしている自分が誰かはわかるけれど、その辺を歩いている人の名前が思い出せない。でも今日は職員の名前だけは分かる。何をすればいいのだっけ。考える力はゼロでした。それでも何とか仕事をしながらふとそこで、他者に受け入れられようとしている自分に気が付いたのです。「ありゃりゃ、これか・・」ということで、午後からはいくらか落ち着いた心で社会の中にいることが出来ました。
落ち着いてみると、いろんなものが見えてきました。社会にはいろいろな情景が見えます。それぞれの場面で動いて語っている人々を見ながら、私は自分がこれまで考えてきた事をわずかに思い出していました。
「私は社会の価値観を全部捨てても、自分自身で生きる能力をたくさん持っている」
夕方、職場の一人は私に対して怒りをあらわにしました。怒りの原因はその人にとっては当然のものだろうと思えました。そして私には私の業務の流れと気持ちがありました。さらに私は、私自身を否定しているその人に対して、私が言えることは何も無いことも分かっていて、更に更に、その人が怒っているのは本当は私の責任ではないことも理解していました。そう考えられると、このことに関しては巻き込まれることも無く後の仕事をこなしている私なのでした。
家に帰り部屋に張り巡らされている能力のリストをぐるりと見渡しました。それは間違いなく私が日々考え、混乱と脱皮を繰り返しながら得た私だけの能力、私の肌にしみこんだ能力でした。
これからの私は、社会に出るたびに何かを掴み能力へと変えていくのかもしれません。
ところで私は今日とてもすごい事を発見したので、これは過去のことなのですが此処に書いておきます。
私の中に“無気力な人格”がいます。もうずっと前から、私がマイナスの存在としてみてきた彼女は職場で度々登場していたのです。これが困るのです。この人格で居る私は自分を卑下し「つまらない存在だ」と言い続け、自分の生き方がまったく分からない人なのです。
私は「私達が適材適所で入れ替わり生き延びてきた」と考えた場合、職場でFBした時にその人が現実に出てくる理由が分からずにいたのですが、今夜ついにその謎が解けたのです。
無気力な人への人格交代は“ 支配したい人 ” の前で起こっていたのです。簡単に言うと “ 共依存関係 ” と言っても良いですか? 私達は過去、無意識の世界で “ 目の前の人はどういう人か ” を探り、それに応じて人格を変え相手に受け入れられるように生き伸びてきました。このことは「優越感を持つと相手に劣等感を持たせる」事とは全く違う部分のものです。 無気力な私は、目の前の人が「勝ちたい人、支配したい人」だと分かると「私なんて何も出来ない、駄目な人間、劣等感を持ってる自分だ」と訴える事で相手に受け入れられようとしてきたのです。つまり無気力な人格の私は自分よりも強いと感じる人に依存する生き方をしようとしてきたのです。 やはり・・適材適所なのですね。どの人格も・・。 そして私は次の発見にとても驚いてしまいました。 こんな人格が出来てしまったのには、過去の母親との不快な事実があったのです。母親は自分よりも小さくて、当然ながら自分よりも弱い存在の私を自分の人生の競争相手に選んだのです。 私が思春期の頃、母親は私と同じように身体や衣服を飾りたがりましたし、今でも社会を歩けば時々同じような光景を見かけますが、その次元よりもうんと低い、私の年齢が小さな頃にその競争は行われていたのです。母親は私に勝つことに喜びを感じ、そして私は母親に受け入れられる為に「無力な自分」として生きてきたのです。
私は実は、「無気力な自分」をどうしたら良いのか分からずにいたので、今夜この大きな傷を発見できたことは、とても大きな発見だったのです。こんな日の私は、この作業をしてきて本当に良かったなぁと実感します。
さて・・じつは、この人格は過去の私のパートナーの前でも度々出現していました。ということは、彼は支配したい人だったのですね。何しろ私達は過去に、生き延びる事だけを考えて生きていたのだから。
私は今日とても強い味方を得ました。それは “ 自分自身 ” です。 社会に出てみたら、私は多くの事を発見できるのですね。これからも。22:58
| 2004年06月11日(金) |
「二年目の始まり」 社会に出てみよう 断罪 |
一人で家にいて、私は何がしたいのだろうと考えました。こんな気持ちを感じたのは2回目で、今日の私は自分がやりたい事をただ進めていけばいいのだと思えました。少し前にはやりたいことが山ほどあるように思いましたが、今はただひとつ、過去の傷を癒やす事だけなのです。
夕方ゆっくりと料理をし楽しみました。一人で料理して、一人でご飯を食べる。これまで一人の空間を意識したことが無い私だったのだと改めて感じました。こんな時には自分の周りの時が止まっているようにさえ思えました。本当は時間はどんな時も同じように流れているのですよね。
ゆっくりとした空間の中でふと思いました。私は現実を生きている。私がこれからも成長する為に、社会に出ていろんなモノを収集し、その中で自分の価値観に沿うものを選んでいくことは大切なのではないかと。
何となく、プラスな動きが出来そうな予感がしています。 いつもいつも前を向いていけば良いだけ。思考が乱れたらMamoを意識すれば良いだけ。 たくさんの思考の中から私の思いをチョイスすればいいだけ・・。
「二年目の始まり」
二年目の始まりです。といっても、何も特別ではありません、私はただ毎日を生きていくだけなのです。
一昨日語り合った複数人格を持つ彼女と居た空間で、私は重たい何かが背中から襲い掛かってくるような感覚に捕らわれました。二人でいるときにはそれが何なのかを考える余裕がありませんでした。私はそういう場合に姿を変えてしまいがちなのですが、自分を意識しつつ、私が自分への違和感を持ったまま彼女と接することで、彼女を刺激してしまわないようにとも考えていました。
でもそこでふと、ちょっとおかしな考えだということに気が付きました。例えば私が誰かを傷つけてしまわないように意識することはとても大切ですが、そもそも自分に意識を向ける事が出来ていれば、隣に誰かがいたとしても、それはごく自然にそこに居るだけで「刺激してしまわないように・・」と考える問題ではないように思えたのです。
ということは私は私を意識すれば良いだけなのですね。いつもいつも・・。そうですよね。誰かの為にそこに居るのではない。私は私の欲求を感じて、そして現実に存在するのだから。
彼女と別れた後、私は重たい何かが実際に自分の中から飛び出てしまいそうになる感覚を感じました。これは初めての告白ですが、こんな時の頭の中はいつも映画『エイリアン』の中でエイリアンのお腹から赤ちゃんが生まれる瞬間の映像そのものなのです。重たい何かと共に軽い吐き気に襲われて、それから何か表現できない怒りが押し寄せてくるのを感じました。
“ 怒り ” ・・そうだった。私がいつも抱えていたものは、人格を破壊されてしまったことに対する激しい怒りだったのです。以前の私はこの怒りを自分が中に入り他の人格が現実に出た状態で表していたのだと思います。
人格破壊は史上最悪の犯罪です。
何故なら “ 命 ” とは他の何にも変えがたい尊いものだからです。 私はひとつ罪を犯しています。それは私自身の子どもの人格を破壊していたことです。
社会の無関心が人格の破壊に大きく影響していたのだとしたら、遠い過去に作られた法律を変えていく必要があります。 「親のおかげで・・」と言って生きている人が居たら、自分を見直す必要があります。家も土地も地位も名誉も、亡くなった人が眠るお墓でさえも、過去から続いているもの全ては本当に必要なものかを考える必要があるのです。 でも、私は今はまだこの事を人に伝えることが出来ません。何故なら過去に子どもを傷つけていたから。そして今もまだ残された傷に振り回される自分が居るからです。
私は自分の罪を償いたい。 私が罪を償う方法は子どもに対して何かをすることではなく、私が“私”として現実で生きることです。
ロボットではない、自分の傷みを知る “ 人 ” として。
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