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2022年04月13日(水) 幸せとは?

私は自分の人生の中で、今が1番幸せです。じゃあ昔は幸せじゃ無かったのか?今より幸せな時は無かったのか?と聞かれれば昔も幸せでしたし、幸せな瞬間もたくさんありました。ですが私は頑張って毎日、毎年、今までの幸せな時1位を更新して行っています。今を幸せと思う事で過去を幸せだったと振り返る事が出来ます。27歳から35歳ぐらいの私はとても自分に厳しくなり、頑張ったことの先に幸せがあると思っていました。試合を引退し妻と出会い、頑張らなくても幸せはある事をしりました。もし妻と出会わなければ今でもお酒を飲んでいないと思います。自分にも人にも厳しく気難しい面白みのない人間になっていたと思います。酒を飲んで昼まで寝ていて子供達の喧嘩している声で目をさます日がある事も幸せです。49歳になり、ちょうど良い感じの人間になれたような気がします。


2022年04月12日(火) 最悪の結果がのちに幸せを運ぶ

2005年11月に行われた第37回全日本空手道選手権大会に私は出場しました。私はその3ヶ月前の8月に行われた茨城県大会重量級で優勝していました。しかもその年の4月の千葉県大会の決勝戦で負けた若手のホープと再戦して勝つ事が出来ての優勝でした。そこから3ヶ月間とても良い内容の稽古が出来て試合当日も絶好調でした。実際、1回戦の試合中も身体の動きが良く、試合の序盤から中盤まで私の技が思うように相手に入り、相手の技は全部避けるか、捌くか、受ける事が出来ていました。しかしラスト30秒でラッシュをかけようとして打ち合い始めた時に、相手に右膝の内側を蹴られました。その瞬間に膝の内側からパチッと言う音が聞こえました。そして足に力が入らなくなりました。相手にラッシュをかけられ攻撃されたのに対して、私は右足をかばいながら反撃するのが精一杯で一方的に技を受けてしまいました。結果は5-0の判定負け完敗でした。私は開始戦に戻り挨拶をしたのですが、そこで足が動かなくなり、歩く事が出来なくなりました。主審に肩を貸して頂き試合場を降りると言う恥を晒してしまいました。そのまま医務室に運ばれ、タクシーで病院へ行きMRIを撮ると右膝の内側側副靱帯を断裂していました。診断が終わり、会場の東京体育館に戻るため松葉杖をつきながら病院の外へ出ると、試合を見に来てくれていた私の友達と私の妻がいました。私の妻と書きましたが、その時は私と妻はただの友達でした。しかも10歳も歳が離れた友達なので、その時は将来結婚をすると思うどころか付き合うことになるなんて思っていませんし、妻が私を好きになってくれるなんて夢にも思っていませんでした。友達皆んなが私に慰めや励ましの言葉をかけるなか、妻は後ろの方でずっと黙って立っていました。妻は私と目が合うと何か思いのある感じの目をしましたが、何も言いませんでした。「じゃあまたね!年末に福島で会おうね!」という感じの言葉を交わし、友達皆んなと別れました。これはのちに妻から聞いたことなのですが、妻は私の試合を見て「自分も頑張って生きなくては」と思ってくれたそうです。そして妻はその年の年末に福島で会った時に自分の環境を大きく変えた事を私に話しました。その試合は私にとって本当に最悪の結果でしたが、妻が私の試合を見て何かを感じてくれたのならば、その試合は私にとって人生最高の試合だったのかもしれません。その試合で私の未来が変わったのかもしれません。もしかしたらその試合が無ければ、その2年後に妻と付き合うことは無かったのかもしれません。私はこう思います。何かを頑張ってそれが失敗しようと、頑張った事がマイナスになる事は絶対に無いと思います。一生懸命に頑張って一歩一歩進んで行けば、いつか何かに繋がると思います。どこかで誰かが見ていてくれると思います。それを妻が私に教えてくれました。感謝しています。


2022年04月11日(月) 身体の状態

腰部脊柱管狭窄症になってから、だいぶ時間が経ちましたが、暖かくなってきたおかげもあるのか?少し痺れが残るものの、ここに来て大分状態が良くなって来ました。なので先週からウエイトトレーニングを再開しました。もう半年前に扱えた重さは扱えず、半分以下の重さでトレーニングしています。せっかく良くなって来たので、また悪化させて、元の木阿弥になりたくないので、しっかり自分の体と相談しながらトレーニングして行きたいと思います。目標はたくさんあるので無理はしないように、でも1つ1つ堅実に頑張って行きたいと思います。


2022年04月10日(日) 同時読み

中村文則の「自由思考」と逢坂冬馬の「同志少女よ、敵を撃て」を読んでいます。私は好きな作家の作品を徹底的に読みまくるタイプなのですが、「同志少女よ、敵を撃て」はテレビで話題になっていたのと、帯に書いてあった言葉を見て、これを読みたいと思いました。その言葉は「独ソ戦、女性だけの狙撃小隊がたどる生と死」「戦争は女の顔はもちろんのこと、男を含めたあらゆる性別の顔もしておらず、つまり人間の顔をしていないのだという事実を物語ろうとする、その志の高さに感服した」と言うものでした。読み出してもういきなりその物語の世界観に引き込まれてしまいました。中村文則の「自由思考」は中村文則さんのエッセイで、中村文則さんの作品は大好きなので、即買いでした。私は2つの本を同時に読む事ができます。例えば電車の中では「自由思考」をお風呂の中では「同志少女よ、敵を撃て」を読むという感じで読み進めて行きます。2つ同時に読んで内容がグチャグチャにならないの?と思う方もいるかもしれませんが、私はそれは全然ありません。これが才能なのか?分かりませんが、この才能はなかなか便利です。読みたい作品を同時に読めるなんて本当に幸せです。


2022年04月09日(土) 妻の誕生日会、もはやサプライズではないが、

今日は妻の誕生日会を五反田のフライデーズで行いました。なんで毎回フライデーずなの?と思うかもしれませんが、私が妻と初めて知り合った時に食事をしたお店が六本木のフライデーズだったからです。その時からもう17年経つのですから本当に早いものです。その時にお店で他のお客さんが誕生日のサプライズケーキで祝ってもらっているのを見て、妻が「こんなことしてもらえたら嬉しいだろうね」と言っていました。その時はまさか自分がそれをやってあげる役になろうとは思いもしませんでしたが、もう毎回なのでサプライズでもないのですが、いつまでも妻を大切に思う気持ちが変わらないという思いと、いつまでも一緒にいたいと言う思いを込める気持ちで、それを続けています。


2022年04月08日(金) 妻の誕生日

今日は妻の誕生日です。4月8日はお釈迦様の誕生日なようですが、お釈迦様には本当に申し訳有りませんが、私にとってはお釈迦様の誕生日はどうでもよくて、4月8日は妻の誕生日と言う事で私にとってはとてもとても大切な日です。もし1983年4月8日に妻がこの世に生まれて来なかったとしたら、私の人生は大きく変わっていたと思います。本当なら1983年4月8日に妻がこの世に生まれて来た時に「よく生まれてきてくれたね!ありがとう!」と言いたかったのですが、1983年4月8日の時の私はまだ小学6年生なので、自分にとって自分の運命を変える人が生まれた事を知る由もありませんでした。私と妻が出会うのは2004年の12月でした。妻と付き合う事になったのは2007年10月28日でした。2008年1月28日に妻が東京に出て来てくれたので妻の誕生日を祝うのは14回目です。あと何回お祝いをしてあげる事が出来るか分かりませんが、何歳になろうと妻の誕生日には誕生日ケーキを買ってお祝いをしたいと思っています。「本当に生まれてきてくれて、ありがとう!僕と出会ってくれてありがとう!僕と結婚してくれてありがとう!」


2022年04月07日(木) 誕生日ケーキ

明日は妻の誕生日なのですが、私が夜まで1日中いないので、昼に妻の誕生日ケーキを買って帰り、私が帰宅したあとに皆んなで妻の誕生日を祝いケーキを食べました。私が選んだ妻の誕生日ケーキは桜をモチーフとしたケーキでした。妻も喜んでいたので良かったです。


2022年04月06日(水) 今と言う瞬間

私は今という瞬間が1番大切だと思っています。人間としても男としても空手家としても今と言う瞬間に自分がどう生きているのか?それが大切だと思っています。幸か不幸か私には自分の出した結果や成績で10年も20年もご飯が食べていけるとか、10年も20年も人から尊敬してもらえるとか言うものを残す事は出来ませんでした。だからこそ今と言う瞬間を頑張っていなければ、人間としても男としても空手家としても人に何かを誇る事が出来ないと思っています。そして今を頑張っている人が偉いと思っています。私の師匠がよく言ってた言葉に「道場で1番偉い人は、お金持ちでも地位のある人でも強い人でもなく、道場で1番一生懸命に汗を流して稽古している人だよ」と言う言葉がありました。私はその言葉が大好きです。その言葉を忘れずに生きて行きたいと思っています。


2022年04月05日(火) 20年

今年で東京城南京浜支部を開設して20年になるのですが、来年で空手を始めて35年で東京に来て30年になります。だから東京に来て3年で黒帯になり指導員になり内弟子になり全日本空手道選手権大会に出場し、東京に来て9年で道場を出したのだから、今考えればそれなりに順風満帆に進んでくる事が出来たのだと思います。でもそこからがなかなか大変でした。お金の心配なく道場を運営出来るようになったのは私が34歳の時ですから、道場を開設して5年は大変でした。よく頑張ったなと思います。ここからあと15年は道場生と一緒に身体を動かして稽古をし、稽古の後に美味しいお酒を飲みたいと思います。


2022年04月04日(月) もうすぐ20年

私は国際空手道連盟極真会館と言う団体で東京城南京浜支部と言う支部活動をさせて頂いています。私は2002年に29歳で自分の師匠がこの団体を脱退した時に、師匠から独立する形でこの団体に残り、そのタイミングで東京城南京浜支部支部と言う支部を開設する事となり、支部活動を行わせて頂くようになりました。私は34歳までは現役選手として試合に出場していたので、選手と支部長の二足の草鞋を履くと言う形でした。なのでこの5年間は支部の運営や経営をそっちのけで、自分の稽古に没頭していた所がありました。試合を引退してから選手の育成にも力を入れるようになり2007年の6月17日に支部内交流試合を開催するようになりました。選手の育成に関しては私も30代で若かった事もあり情熱が空回りしてしまっていたように思います。そこからは右葉曲折いろんな事がありました。選手として頑張っていた生徒が皆んな辞めてしまった事とその人達を育てる為に稽古が厳しくなり辞めてしまった生徒達、気が付けば道場の経営が立ちいかなくなるぐらいに生徒数が減っていました。その頃に私の道場に居てくれた生徒達を私が正しく導く事が出来なかった事にとても申し訳なく思っています。そこで1度冷静になれた事で道場の稽古体系や指導方針をガラッと変えて、礼儀は厳しく、稽古は楽しくという感じにシフトチェンジしました。そして組手の苦手な子にスポットを当てるため、東京城南京浜支部も型競技に力を入れる事にしました。そのためにも先ずは自分からということで、私は2014年8月24日に初めて型競技に挑戦しました。そして10月26日に第1回目の型競技支部内交流試合を開催しました。そこから私も型競技に取り組むようになり2019年8月24日の極真祭で全日本型競技空手道選手権大会35歳以上の部で優勝し、他の流派の型も学ぶようになりました。2020年からは極真会館の技術委員会に入り、極真会館の型の改定や見直し、型競技の審判基準を定める仕事にも携わっています。それと合わせて私が先行する形で2018年6月3日に第1回のセミコンタクトルール全国交流大会に挑戦し、2018年10月21日に東京城南京浜支部でも第1回目のセミコンタクトルール支部内交流試合を開催しました。その後私は2019年のセミコンタクトルール全国交流大会で準優勝しました。子供は身体の発達に差があり身体能力や基礎体力にも差があるので、身体能力と基礎体力が大きな差となるフルコンタクトルールの試合ではなかなか勝てないのだけれど、型競技などで頑張り技が上手く正確に技を出せる子がゲーム性を持って楽しく取り組み活躍する事が出来る場を作りました。2018年の6月5日からはフィットネスクラスという主婦や女性向けの気軽に空手の稽古が出来るクラスを開設しました。そして今年の2月から個人レッスンと言うまた新しい指導方法に挑戦しています。私は強い生徒もやめてしまい、生徒が減ってしまい、1度リセットされたあの時に本当の意味で指導者として成長させてもらったと思っています。その時々で道場生やご父兄様にもたくさんご協力頂き助けてもらいました。また家族にも支えてもらいました。私の今の指導方法で強い選手も順調に育っていますし、中学生、高校生まで残ってくれる道場生も増えています。ここからさらに前へ進めて行きたいと思っています。


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