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2020年07月04日(土) 登校

長男と次男は別々に学校に行くようになったようです。長男は次男にずっと話しかけられるのが嫌なようです。いつも時間ギリギリに登校していた長男が、次男と一緒に登校したくないために、5分早く登校しています。


2020年07月03日(金) 息子達への思い

これは私の息子達への思いです。私にとって息子達の存在は、この世で私が得た物の中で妻の次に尊いものです。ある意味で言えば私が今まで得てきた物、全てを足しても息子達の存在に及びません。自分の命よりも大切に思います。息子達がどんな生き方をしようと何になろうと私の中ではそれ以上にもなりませんし、それ以下にもなりません。子供達の存在は私にとっては相対的なものではなく絶対的なものなのだと思います。その大切なものをいつ失うのか?それは分かりません。願うなら私より長生きして素晴らしい人生を全うして欲しいと思っています。でも分かりません。だから私は子供達にいつ何があっても自分は自分の人生を生き切ったと思えるよう何事にも一生懸命に取り組むようにさせています。そして私も悔いがないよう息子達に全力で接しています。おはよう!いってらっしゃい!おかえり!ただいま!おやすみ!の挨拶もなるべくちゃんと心を込めてするようにしています。その挨拶が最後の挨拶になっても悔いが残らないようにしようと努めています。


2020年07月02日(木) いっぱしの男とは

私が32歳の頃「いっぱしの男とは自分以外の人間の責任を取れる男だ」と松井館長に言われました。「自分の為にやっている事や自分の為に責任を取る事は、大人として社会人として当たり前のことで、自分の妻や子供に対して、自分がやらなければならない責任と義務を果たし、妻や子供の責任を取ってあげれるようなってこそ、いっぱしの男なんだよ」と言われました。その意味が妻を福島から連れて来る時と子供達が生まれて抱いた瞬間に実感として分かりました。私が妻を福島駅に迎えに行き、2人で東京行きの新幹線に乗った時に、私の両親と妻のお父さんとお母さんと妻がそれまで勤めていた仕事の上司が見送ってくれました。新幹線が発車する時に妻のお母さんはとても寂しそうな顔をしていました。その妻のお母さんの顔を見た時に「もしこの人を幸せに出来なかったら俺は男じゃないな」と思い、妻を幸せにする事が私の責任であり義務であると思いました。そして妻がやった事は俺が全部責任を取ってあげようと思いました。なので私は妻がやりたい事は最大限やらせてあげなくてはならない責任と義務があると思います。妻がやりたい事を全てやらせてあげる事は出来ないかもしれませんが、最低でも妻が幸せだと感じるぐらいの事はさせてあげなくてはと思います。なので私は妻にどんな事があろうとも離婚するつもりはありません。そして私が先に死ぬ時に私と結婚して幸せだったと妻に言わせなくてはならない責任と義務が私にはあると思っています。


2020年07月01日(水) ウエイトトレーニング

何度かこの菅野日記に書いたと思いますが、約2年半前の45歳の誕生の前の日に一念発起してトレーニングジムに入会してウエイトトレーニングを始めました。理由はそれまで行っていたランニングが3年前に膝を痛めて走れなくなり、代わりに水泳を始めるも今度は肩を痛めて泳げなくなりました。ランニングしていた頃は毎日10キロ走り、泳いでいた頃は週3回2キロ泳いでいました。もちろん夕方からの指導では道場生達と一緒に約3〜4時間は稽古していました。その頃は1日2食で炭水化物はほとんど摂っていませんでした。ですが40歳を過ぎたあたりから体重がなかなか落ちなくなって来ていました。そんな頃にランニングが出来なくなり、水泳が出来なくなり、体重を落とす事がどんどん難しくなり体重が増えて行く一方でした。これは何とかしなければならないと思い、いろいろ考えると私は、手っ取り早くダイエットする為に有酸素運動と炭水化物を抜いてダイエットをしていた為にどんどん筋肉の量が落ちていたのだと思います。そして週末にお酒を飲むんで好きな物を食べるのでそこでリバウンドし脂肪が付き、また有酸素運動と炭水化物を抜いてダイエットするので、さらに筋肉の量が落ちるというのを繰り返していたのだと思います。このまま歳を取っても好きな物を食べられず、ハードな有酸素運動が出来るかと言うと、それはいつか無理が来るし、それこそ限界がきてしまう、最悪の場合もう身体を維持することを諦めてしまうなと思いました。私は空手家ですので、自分の身体はある意味、自分の看板です。今現在の自分の姿を人は見て自分を判断したり評価するわけですから、だらしない身体でいる訳にはいきません。それに太っていたら、自分が太る体質だろうと、頑張っていようと、どうせ好きな物を食べてるんだろ!どうせ毎日お酒飲んでるんだろ!どうせ稽古してないんだろ!そう思われているのだろうと言う悔しさがあり、いろいろリサーチし筋肉の量を増やせば同じ運動をしてもカロリーを多く消費する事を知り、ウエイトトレーニングを始めました。なので筋肥大を目的としたウエイトトレーニングをしました。ちょうど肩と膝が悪かったので軽い重量でウエイトトレーニングする方が効率も良かったと思います。途中やはり身体を痛め中断せざるおえない時もありましたが、エアロバイクやできる箇所をトレーニングし頑張りました。ウエイトトレーニングで筋肉の量を増やすには食べなければ行けませんし、筋肉の量が増えて行くので一時期は太ってしまいます。ダイエットしたいのに太ってしまうのは、とても遠回りですが、長期戦だと思い諦めずに頑張りました。最近は筋肉の量がすごく増えて見た目も変わってきました。体重は90キロありますが、写真で自分を見てもシルエットが前より痩せて見えますし、確実なことは私の支部長スーツは、前は85キロぐらいじゃないとズボンがきつくてはけませんでしたが、今は90キロでもズボンがはけました。90キロでも確実にお腹周りは細くなっている事に気が付きました。このまま筋肉の量を50歳まで増やして行きたいと思います。最近は、朝は普通にタンパク質と炭水化物を摂り、ウエイトトレーニングの後もタンパク質と炭水化物を摂っています。夜だけ炭水化物を抜いて、週末は好きなものを食べお酒も飲みますが、前よりリバウンドせず、少し有酸素運動をすれば体重が落ちるようになりました。本当にウエイトトレーニングを始めて良かったと思います。ウエイトトレーニングを始めた理由は、4年前に亡くなった道場生の前橋さんの言葉がキッカケでもありました。前橋さんは亡くなる前に食事を摂ることが出来なくなりました。その時に前橋さんが「私は実は太る体質で結構頑張って節制していました。今思うともっと好きな物を食べておけば良かったなと思います。先生も太る体質ですよね。先生も自分に厳しく頑張る人だけど、時には好きな物を食べるようにして下さい。」と言いました。2年半かかりましたが頑張って週末に好きな物を食べてお酒を飲んでもリバウンドしない身体を作りました。痩せたいのに1度太らなくてはならないウエイトトレーニングは遠回りに思え諦めそうになりましたが、やはり私にとっては遠回りがいつも目的への最短距離になる事を改めて思いました。あと3年しっかりと頑張ります。


2020年06月30日(火) 半分終わる

今日で2020年も半分が終わってしまった。その3分の2はコロナ禍の中であっという間に過ぎてしまった感じです。でもその中でしっかりと意味のある毎日を過ごして来たという自負はあります。やっと社会が日常に戻りつつあります。明日から7月が始まります。シャキっとビシッと新たな半年をスタートさせたいと思います。頑張ります!


2020年06月29日(月) 今日は死ぬのにもってこいの日だ

「今日は死ぬのにもってこいの日だ」という詩があります。それはインディアンの言葉で、本当に心の中に悟りを開いてそのような心持になった素晴らしい言葉だと思います。私も死ぬ時にそうなっていたら良いなと思います。ですが私はそうはなれないような気がします。それどころか、自分がこの世からいなくなる最悪の日なのに、そんなふうに思えるわけないだろ!ってのが本音です。ですがその努力をある時からするようになりました。おそらく現役の最後の1年ぐらいと時だったと思います。雨が降っていて身体が重くて、走るのが辛い日も「今日は走るのにもってこいの日だ、今日この悪天候で体調の悪い日に走れば心が強くなる!今日は走るのにもってこいの日だ。」と思うようにして頑張っています。たぶん死ぬ時も、苦しいし辛いし悲しいと思います。でも毎日、苦しい事や辛い事や悲しい事が起きた時に、今日は〜するのにもってこいの日だ。と頑張って生きて行けば、この世から去る時が来ても「今日は死ぬのにもってこいの日だ」と毅然とそこに臨む事が出来るのでは?と思っています。それを子供達にも話しています。雨の日に走るのも、辛い日に走るのも、苦しい日に走るのも、男の修行だ!死ぬ時に「今日は死ぬのにもってこいの日だ」と言って毅然とこの世をされるように、やりたくない事をやりたくない時に頑張るんだよ!と話しています。この世で最もやりたくない事を、おそらくもっともやりたくない時にやらなければならない日が人生最後の日になるのだと思います。その日を毅然と迎える事がこの世での人生最後の修行です。正しく「生涯の修行を空手の道に通じ極真の道を全うすること。」です。私もその男の修行の途中にいます。今日もしっかり男の修行をしました。


2020年06月28日(日) 久しぶりの

私の運営する道場の昇級審査会と支部内交流試合がありました。新型コロナウィルスの感染防止のため緊急事態宣言が発令され道場の稽古がお休みになるなど、いろいろな事がありましたが、半年ぶりの昇級審査会と支部内交流試合を開催する事が出来ました。審査会、試合に参加した道場生、ご父兄様には本当に感謝しております。今回も生徒達の成長をたくさん見る事が出来た審査会、試合となりました。私は最近は審査会や試合では、あまり深くは話をしないようにしています。私も歳をとったのかとても涙もろくなり、感情の入った話をすると涙が止まらなくなってしまいます。なので個人的な話はその道場生その道場生、一人一人にあとで話すようにしています。話す事は個人個人に話す時は、私はぶっきらぼうに「お前、本当によく頑張ったな!あの時に空手を止めずに続けて良かったろ!応援してくれたお母さんに感謝しろよ!」と言った感じで話します。この内容も丁寧に話すと涙が出てしまうのです。今回もたくさん涙が出そうな場面がありました。これからもさらに頑張って行こうと思います。あと数年でとても素晴らしい選手が生まれると思います。


2020年06月27日(土) 1ヶ月が経ちました

緊急事態宣言が解除されて1ヶ月が経ちました。やっと生活のリズムが安定して来たように思います。とはいえ新型コロナウィルスの感染者が無くなってるわけではないので、新型コロナウィルスの感染防止をしっかりしていかなければならないと思います。でも菅野家では、みんなうがい手洗いが定着し、どこかから帰って来たら何も言わなくてもうがい手洗いを自然にしています。そのためか誰も風邪をひいたりしていません。新型コロナウィルスの感染が収束したとしても、新しい生活様式としてうがい手洗いを行う事はとても良いと思います。来週からもう7月です。あっという間に半年が過ぎてしまいました。本当なら東京オリンピックで日本中が、世界中がワクワクしていたのになと思いますが、日本という国は国難に強い国だと思うので、一人一人がやるべき事をしっかりやって行けば、前以上の形に立て直せると思います。


2020年06月26日(金) 少し教育論

私は息子達に対して、道場にいる時と家にいる時とを分けるようにしています。それは道場では厳しくするので、家ではあまり私の存在が息子達を窮屈にしてはいけないと思うからです。家ではそれなりに気を許せるリラックス出来る場であって欲しいと思っています。なので家ではほぼ私は子供達を叱る事はありません。でも叱る時はビシッと叱ります。それは、ゆるく叱るのはお互いにとって良くないと思うからです。それは良くない事だ。その度合いを伝えるのは自分がどれほど怒っているか?の度合いで子供もそれがどのぐらい良くない事なのか?を知ると思います。なので忘れ物をしたのと、何かをこぼしたのと、嘘をついたのを同じように怒るのは、子供にとって良くないと思います。それと「〜ちゃん、ダメよ」的に叱っても、その子の心にダメージがないので、それを本当に良くない事とは思わず同じ事を繰り返してしまうと思います。なので叱る時にはしっかりと叱る、言葉では足りないのならば、やはり叩くという事も大切だと思います。ただその叩くも心にダメージを与えるためで、あまりに身体にダメージを与えてはいけません。それをするとどんなに悪いと思っても恨みが残りますし、その子は必ずその恨みを、いつか誰かに同じ事をするという形ではらしてしまうと思います。あとは本当の躾は他人にしてもらうものなのかな?と思います。親が躾るのはあくまで基礎的な事で、本当に本当の躾は他人と言うか社会の中でされていくのだと思います。なので褒めて伸ばすとか、体罰禁止とか、パワハラだとか、があまりうるさくなると子供達の本当の躾がされないまま大人になってしまう気がししてなりません。これは私に関してですが、極真空手の世界で躾をしてもらって本当に良かったと思っています。あの20歳ぐらいの時に、自分より圧倒的に強い、圧倒的に怖い、圧倒的にカッコイイ人達に、バシッと教育して頂いた事で、キチッと礼儀や挨拶や気遣いなどの物事が出来るようになりました。最後に1つ、これは生徒に対して叱る時も、私の信条なのですが、バシッと叱ったらそれで終わりにします。ネチネチ言ったり、その日はその子にあまり話しかけない的なことは絶対にしません。そのためにも自分もそれで終わりに出来るようにバシッと叱った方が良いと思います。逆にバシッと叱ったら、もう切り替えていつものように接してあげれば良いのです。ただ叱ったあとに変にご機嫌をとるように気遣うのも良くないと思います。その子が本当に良くなった時には思いっきり褒めてあげるのはとても大切です。


2020年06月25日(木) 神頼み

私は神様を信じていますし大切にしていますが、あり時から神頼みは止めました。それは自分の叶えたい事や、達成したい事は自分で努力をするしかないと思ったからです。特に困った時には、絶対に神頼みはしません。神様にお願いするという事は、自分で何とかしようと言う気持ちがないという事になりますし、神様にお願いする時間があるなら、その事を何とかしようと考えるか、行動を起こした方が良いと思うからです。ですがその後1度だけ自分の事で、神頼みをした事があります。それは妻に告白をする時でした。もちろん私は妻に告白するまでに、精一杯の努力もしたつもりです。ですがこれだけは自分だけの力ではどうにもならない、そんな気がしました。だから神様やご先祖様にお願いをして、妻に告白をしました。私は、もう一生分の運をあそこで使い果たしたと思います。でも私はそれで満足しています。もう私自身の事で神様やご先祖様にお願いしてまで欲しい物はこの世にはありません。今後、神頼みする事があるとしたら、それは妻や息子達のための事だと思います。


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