新世紀余話
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2006年09月21日(木) 402人の愛国者たち

「国旗国歌強制は違法 東京地裁、賠償命令も」

 東京都立高校などの教職員が都と都教育委員会を相手に、入学式や卒業式で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務がないことの確認などを求めた訴訟の判決で、東京地裁は21日、国旗国歌の強制は許されないとして請求を認め、斉唱しないことなどを理由とした処分を禁じた。

 難波孝一裁判長は国旗国歌法の制度趣旨などから「教職員の意に反し、懲戒処分してまで起立、斉唱させることは憲法が定める思想良心の自由を侵害する行き過ぎた措置だ。斉唱などを強制する都教育長通達や各校長による教職員への職務命令も違法」と判断した。

 職務命令による精神的苦痛の損害賠償として、原告全員に対する1人当たり3万円の支払いを都に命じ、原告のうち音楽科教諭には、国歌のピアノ伴奏義務がないことも確認した。

 国旗国歌法の制定後、国歌斉唱などの強制を違法と認定した司法判断は初めてとみられる。原告と弁護団は「極めて画期的な判決。教育基本法改悪にも歯止めをかける」との声明を発表した。

 原告は都立高校と盲・ろう・養護学校の現・元教職員計401人。

 判決によると、都教育長は2003年10月「国旗への起立や国歌斉唱の実施に当たり、各校長の職務命令に従わない場合は服務上の責任を問われる」との通達を出し、各校長は通達に基づく職務命令で、教職員に国旗への起立や国歌斉唱を強制した。原告は04年1月以降、順次提訴した。

 難波裁判長はまず「日の丸、君が代は第2次大戦終了まで皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱で、現在も宗教的、政治的にその価値が中立的なものと認められるまでには至っていない。信仰に準じた世界観、主義、主張から国旗掲揚や国歌斉唱に反対する人は少なからずいる」と指摘。

 また「国旗国歌は強制するのではなく、自然のうちに国民に定着させるというのが国旗国歌法の趣旨であり、学習指導要領の理念」との解釈を示し、国旗国歌を強制する通達や職務命令は「教育基本法が禁じた教育への不当な支配に該当する」と認定した。

 その上で「式での国歌斉唱などを積極的に妨害したり、生徒に国旗国歌の拒否をあおったりしない限り、教職員には国歌斉唱などを拒む自由がある」と結論付けた。
 原告のうち既に退職した32人については、損害賠償だけ認めた。
(共同通信)

http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=NGK&PG=STORY&NGID=main&NWID=2006092101000557


2006年01月10日(火) 日本人よ、日本を管理せよ

以下のくだりを読んでもらいたい。

『東洋経済新報社の論説主幹だった石橋湛山は、政府の中国政策をこの上なく厳しく批判しながらも息子を戦死させた。湛山は息子も自分も自由主義者ではあるが、国家への反逆者ではないからこそ、息子は戦地に赴いたと書いている』
(『日本が犯した七つの大罪(櫻井よしこ著/新潮社刊)』から引用)

例によって、右翼陣営一押しのドラゴン・レデイにふさわしく、もっともらしい叙述なのだが、正直わたしにはすこしも讃美すべきところは読み取れない。
サマセット・モームの言葉を引用するなら、「愚かであるがゆえに不幸を招くような人に心から同情することなど到底できない」のである。

あえて教訓を引き出せば、祖国という名の共同体に安住し、自分の国を管理する資格を放棄した人物の不幸だろうか。
マッカーサーまでの日本国家は、こうした国体に縛り付けられるだけの人々を道連れに、荒廃への道をジャガーノートのように暴走していった。

だいたい湛山が本物の自由主義者ならば、トーマス・マンのように海外に亡命しても、故国を乗っ取った軍国主義者らを攻撃し続けたはずである。
また、大戦後期のイタリアでは、決起した反ファシズムのパルチザンと黒シャツの残党とで、イタリア人同士が殺し合っている。
パルチザンは自分を、「国家への反逆者」どころか、「真の愛国者」と感じたからこそ戦い、その働きによって祖国を戦犯国家ではない、自由主義の陣営に位置付けさせられたのである。

結局のところ、湛山のように国に囚われる者は国を滅ぼす者でしかないのだ。

わたしは前にも語ったが、国家とは「調教するのを怠れば国民を食ってしまう野獣」なのだから、管理の労をねぎらうことで災いをもたらした人々に言い逃れは許されないのである。
櫻井よしこのような人は、心温かくなるような語り口で、郷愁としての日本と明治以降の近代国家としての日本とを(意図的にか)混同させようとしているとしか思えない。

日本人よ、日本はあなたの国である。
なにがあろうとも、それを幻想や崇拝の対象としてはならない。
家族的な甘えを寄せ、国に食われる者となってはならない。
あなたは、その野獣に運ばれていくところにしか行き場がないのだから。


2005年12月29日(木) 無題

過去の戦争を振り返ったとき、
「みごとな負け方」を讃えるばかりで
「どうして敗れたのか」という方向で考えられないとすれば、
その人は快楽主義に蝕まれた「亡国の徒」にほかならないでしょう。

そう、快楽主義。
快楽主義こそ現代日本の大敵かもしれません。
実際、フジテレビ流の快楽主義が八十年代このかた、
社会をどれほど腐敗させてきたか計り知れないのです。
「快楽」の反対は「苦痛」なので、
亡国病に染まった者ほど「自虐史観」を受け入れず、『ゴー宣』的な夢想にふける理由もうかがえます。

形骸だけの愛国心を表明しても役には立ちません。
真に有益なのは、
日本は善だったか悪だったか果てもなく論じ合うことより、
その敗因を徹底的に究明することだと思います。
そこから、議論に答えをあたえてくれる日本の本当の姿が見えてくるのです。


2005年11月11日(金) ああ、よかった

三ヶ月以上ブランクがあったのに。
この日記、削除されてませんでした。


2005年07月29日(金) 「電車男」のヒットと2ちゃんねるの落日

ちょっとでも2ちゃんねるを知る者であれば、
「電車男は2ちゃんねるでの実話に基づいた」という触れ込みを、一笑に付すだろう。
「ありえねー!」(爆
どのくらい「ありえない話」かといえば、
「アウシュヴィッツで、ユダヤ娘に恋心を抱くユダヤ人をドイツの看守が励ます」ほどにもありえないのである。

この偽の実話にもとづいた物語のメディアでの好評ぶりは、
(かなりの部分、「紀伊国屋マジック」によってつくられたヒットと思うが)
多分に2ちゃんねる運営者らの思惑と反し、
2ちゃんねらなる存在が一般社会で受け入れられるには、
2ちゃんねるらしさを捨てるか、
2ちゃんねるのほうを実社会にそぐわしく改造するしかないことをはからずも実証したと言っていい。

「電車男」をカタチになすための2ちゃんねる関係者の苦労は並大抵ではなかったかもしれない。
なぜなら、平素から2ちゃんねるでやっているような、削除人どもを鞭打ち、
自作自演のスレッドを量産させるようなわけにはいかないからである。

問題のほとんどは2ちゃんねら自身の特異性(というより異常性)に起因する。

疑いもなく2ちゃんねるは、日本のKKKである。
日本社会が旧態なままであれと願う者にとって邪魔になるもの、
進歩主義者と在日異民族を嫌悪する。
ほかにも、身障者、同和関係者、創価学会信者、ニート族や低教育層への差別観を植え付けようと躍起だ。

その倫理上の偏りはあまりにも極端なので、
2ちゃんねるが他の世界で受け入れられるのを、
ラクダが針の穴を通り抜けるよりも難しくしている。
したがって、彼らが外部と共存を図るには、
まず2ちゃんねらとしてのカタチを崩さなければならなかった。

運営者の本意からは、グリフィスの「国民の創生」を日本流に焼き直したみたいのをやりたいに違いないが(笑)、人道主義のルールの下ではそうは問屋が卸さない。

だから「電車男」のような、万人に問題なく受け入れられる感動的な人情話(笑)に落ち着いたわけで、自己の姿をかなり大きく歪めることにより、2ちゃんねる発の「偽実話」はやっと世間でも通用するようになったのだ。
「電車男」とはそうした代物であり、あの物語の内容から2ちゃんねるの生の姿を知るのはむずかしい。
(2ちゃんねるの実情は2ちゃんねるに来てみれば歴然で、だれでも即座に、映画やドラマは嘘だったと気づくだろう。かつて、ある人気時代劇俳優が「TVでの色男ぶり、頼もしさと逆に、実物はものすごい嫌な奴」と書き立てられたことがあるが、そのくらい極端な違いなのだ。)

ともあれ「電車男」にかぎれば、それは世間から受け入れられた。
そして、この表メディアでの成功は逆説的だが、裏メディア2ちゃんねるの凋落をもたらす。
今後さらに、運営者側が社会の中に地歩を築くという高望みをもつ以上、
2ちゃんねるが今のままであり続けるのは至難となるからである。

実際、西村ヒロユキらの名誉欲は、暴虐な海賊が政治家に成り上がろうとするに等しく、
そして社会とはなおも海賊としての営みをあの大掲示板に続けさせる西村を許すほど甘いものではない。
「電車男」を認めたのは、それがまさに「2ちゃんねる製」とは思えぬ出来だったからにすぎないのだ。


2005年07月27日(水) 南京は燃えているか

しばらく、南京論争から遠ざかっていた。
ネット上では相も変わらず、歴史修正主義者らが
「南京大虐殺を否定する研究はいま、最終段階に入り……」とか、
ここ数年来の常套句を吹聴しているらしい。
(いつになったら、「最終段階」から脱する気だろう?)
懲りない人たちだと呆れる。

さて。
ぼくらが知りたいものこそ歴史の真実だが、
真実の最大の敵は、ネット上で暴れまわる歴史修正主義の一派であろう。
彼らには、ネットも現実と同じで夢想のまかり通る場ではないとの認識に欠ける。
数が揃えば史実も変わると思い込んだ危なさを感じる。
あなたが彼らに言い負かされないよう、
南京事件について歴史修正主義者と議論するときの注意点を挙げておきたい。


南京大虐殺がなかったとして、
日本が中国に侵攻した事実は帳消しになるんですか?


南京問題を論じるときは、つねにこの「最大テーマ」から離れないこと。
修正主義派がなぜ、中国の一都市での日本軍の振る舞いにあれほどこだわるか、
底意を突き詰めるのが重要だ。

南京を攻略した日本軍はあきらかに中央の統制から逸脱しており、
さらに国連と袂を分かった日本国家自体が世界の秩序から逸脱する存在だった。
だから、「国際的に孤立した国の軍隊が独断専行で隣国の首都を占領」
と記述するだけで、大概のことはわかる。
陣中日誌とか部隊編成とか、細かい資料をもとに路地裏で議論しても、この大事実は動かせない。

にもかかわらず。
左翼側はインテリ揃いなのが逆に弱みになるというか、
調べて得たものを自慢する誘惑を抑えられないというか。
それで、「南京大虐殺は捏造だ」と公言する輩をやり込めようと議論を仕掛け、
まんまと修正主義派の仕組んだ罠にはまり、足をすくわれる場面があまりにも多い。
無邪気にも、「正しい資料を示せば、敵方はご印籠を突き付けられたように平伏する」と思うからだろうが、
あいにく修正主義者というのは事実の湾曲を生きがいとする相手なのである。

完璧な資料というものは完璧な人間と同様に存在しない。
どんな資料にも穴があるもので、向こう側では職業的な巧妙さでそこをとらえ、
あなたがいい加減な資料を盾に無謀な勝負を挑んだ愚か者のようにあしらい、
もちろん、あなたの資料調査の労に敬意など表さない。

そうしたうえで、「また馬鹿サヨが轟沈!」とか議論に勝ったように喧伝するわけだ。
とっくに決着のつけられた「南京論争」が永久に終わらないかに見えるカラクリがここにある。

だから、左翼さんには自粛してもらいたいところはある。
「資料や証言の小さな矛盾をしつこくあげつらい、大事実全体を否定する」
のがまさに修正主義派の手口なのだから、
史実の細かく入り組んだ部分でやり合うほど彼らの思う壺にはまりやすくなってしまう。

まこと、南京論争をおのが知識の披露の場にする人たちがどれだけ敵側を有利にしてきただろうか。
あなたの頭の良さを自慢できないのは不満だろうが、
大事実にすべて委ねるのがこの場合の英知というものだ。


2005年07月23日(土) がんばれ個人!

ぼくらはまず、一人の身から出発する。
そして、どんなに多勢と交じり合い、「一心同体」化した気になっても、
おのおのの出発点から切り離されることが出来ない。

全体主義体制下だと、この一人一人の根を引き抜かれたあげく(つまり個性を殺され)、
大目的のため束となって奉仕させられるわけだが、
個人主義社会では、実のひとつひとつを全体をあらしめるのに不可欠な要素として尊重してくれる。

ただし、どんな者でも大切にあつかわれるとはかぎらない。

それぞれに自己をしっかり確立し、主張する行為が集団のためにも益をもたらすとする、
この個人主義特有の仕組みを理解できないと、
まったく時代遅れな欠陥人間として社会からはじき出されてしまうのだ。

そんな出来損ないにだけはならないように。
だから……がんばれ個人!


2005年07月13日(水) 恥ずかしい

いまや、どこのブログや掲示板も
間違いだらけのネット右翼向けマニュアルの全文書き取りだらけ。
恥ずかしい。

俺が高校のころには、
「他人と同じことを言うのは恥だ」という意識を持ってたがな。
今の若年者だと「みんなと同じに言えないのが恥」なのかな。
小学生みたいだ。

ほんとうに恥ずかしい。


2005年07月12日(火) よかった

この日記、まだ削除されてない。


2005年04月09日(土) 二足歩行ロボット

こんなくだらない、なんの役にも立たない代物が12万6000円もするなんて。


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